アングラス・シレジウスの言葉(Anglous Silesius)他 2007/7/3記
あるブログに掲載されていた内容
A rose blooms because it blooms, it is without why.
花は、自分自身の安全を気にしているだろうか?
誰かに見守られたいと思っているだろうか?
他の草花や人間、環境に受け入れてもらいたいと願っているだろうか?
他の色の花に生まれてこれたら、と考えることはあるだろうか?
花は花であるから咲いていて、それ自体が花という存在の証だ。
花はヒトに美しいといわれるために咲くのではなく、花だから咲いている。
化粧をする必要もなく、誰かを喜ばすために咲いているのではない。
それに引替え、私たち人間は多くの場合、何故?とう理由付によって、自身の存在を確認する。何かを決断する時は多くのしがらみを無意識のうちに引きずっている。
こうしたら社会が、友達が、親が、先生、あるいは自分の良心がなんていうだろう?
ああしたら、非常識と思われるかも?そうしたら、変わり者とのけ者あつかいされるかも。
こんなに外部の要素を気にしながら生きている私たちは、どのくらい本来の自分として決断をし、それに自信を持って自分自身の人生を生きれているのだろうか?
どうやったら自分らしく生きれるか、という問いに対して簡単な答えはない。
私たちは、社会の中で、環境の中で、生き抜くために、自分自身をコントロールし、変化させていかなくてはならない。
季節が変わるごとに、服を着替える、暑さに・寒さに耐えうるために。出かける場所(たとえば学校、パーティ、それか自分のベッド)によって、服を選ぶ。多くの場合、無作為のうちに。
そうやって作られていく自分も自分の一部なのだけど、問題は、どうやって、本来の自分を失わずに生きていけるか、ということだ。
もっとも、自分を失っている、なんてこれっぽっちも気づかずに、疑問も感じずに生きている人はたくさんいるけど。
だから、本来の自分って誰なんだ?何が自分にとって自然な生き方なのか、そんな疑問を持てるのは、その答えを見つける旅の大きな第一歩。
答えは、自分の中にある。考えても見つからない。
なぜなら、答えはアイデアとか理屈じゃなく、生きるということ自体だから。
これに続く、もう一つの疑問は、何が本来の自分であることを否定し、何が本来の自分を殺し続けているのか?
私たちはいろんなしがらみと繋がっている。過去のトラウマ、些細な一言、社会、家族、祖先の目、しきたり、自分自身が自分に課した決まり、それ自体はっきり認識していないかも知れない。
よくわからない混沌のしがらみの中で知らず行ったり来たりしながら自分は自由であると思うかもしれない。そして、もっと深いもつれた場所に入り込んでしまう。
もし、そのしがらみと向かい合い、適当な距離をつくることができたなら世界はこの目に、どう映るんだろう?心はどう感じるのだろう?
熱くて殺伐とした砂漠をさまよっている、と思っていて、その環境から必死に自分を守ろうとしていたけれど、
もし気づいたら?
砂漠に来てしまったのは、自分で選んだわけではなく、何かを避けるためにさまよった末だと。
もし、何から避けているのか気づくことが出来たら、その対象と対話をすることができる。
案外、砂漠まで逃げなくてはならないほど怖いものではないかもしれない。
本当の自分はどこに行きたいのか。、何がやりたいのか。
そのために必要なものは、すべて自分の中にある。
きっと見つかる。ただ認識していないだけ。
自分らしく、自然体に生きることに理屈はいらない。