ケンのブログ

日々の雑感や日記

台湾の男の子

2024年04月25日 | 日記
数日前の夜 台湾の方が経営する 中華料理というか台湾料理のお店に行った。

店内は 僕一人だった。

僕が食事を待ってじっとしていると、お店の4歳か5歳くらいの男の子が、お店の中でテーブルの上にある直径5センチくらいの円形のボタンをあちこちで押し始めた。

あちらのテーブルのボタンを押す キンコーンと音が鳴る。

こちらのテーブルのボタンを押す またキンコーンと音が鳴る。

あちこちのボタンを押して男の子は何度もキンコーンと鳴らしていた。

そうか あの ボタンは 店員さんを呼ぶときにチャイムを鳴らすボタンだとわかった。

それまで僕は「すみません 注文決まりました」という感じで店員さんを呼んでいたから、それは僕にとってちょっとした気づきだった。そうか こんなに音のいいチャイムがお店にあったのかと。

何日か前に 別の台湾料理の店で やはり幼い女の子が テーブルの中央の回転盤を回してティッシュを取って そこにティッシュがあることをそれとなく教えてくれたけれど
男の子は あちこちのテーブルのボタンを押して 元気にチャイムの存在を僕に教えてくれるなと思う。

幼くても男の子は男の子 女の子は女の子だなと思う。

幼い子に物事を それとなく教えてもらえるというのはきっといいことのような気がする。

もう閉店に近い時間だったからしれない、僕が食事を始めると 台湾料理店の経営者の家族は 僕の近くのテーブルで 談笑し始めた。

お父さんの声が大きく店に響いていた。

中国の言葉って まったく意味は分からないけれど 響きは豪快だなと思う。

お会計の時 20歳くらいの娘さんがレジに出てくれた。
さっきの幼い男の子がそのお姉さんのところに僕が食べ終わった食器の載っているトレーを早足で持ってきた。
幼い足取りなので 食器が倒れそうになる。
でも 娘さんが助太刀を出して なんとか 食器のトレーは厨房へと運ばれた。
「本当にうるさくてすみません」と娘さんは言った。娘さんのお詫びの言葉は家族の談笑のことに言及しているようだった。

「いいえ 大丈夫です」と僕は言った。
「おやすみなさい」と娘さんは言った。
「ごちそうさまでした。おやすみなさい」と僕は言った。
台湾の娘さんに声をかけてもらえるのも 気分のいいものだなと思う。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。

中華料理屋の女の子

2024年04月07日 | 日記
最近 台湾の人がやっておられるような中華料理店に行くことが多くなった。

名古屋や岐阜は そういう店が多いような気がする。

僕がよく行く店は 丸テーブルが置いてあって その丸テーブルの中央は回転式の円卓になっていて そこには 胡椒 ラー油 餃子のたれ お酢 などがおいてある。

ある時 僕が 店に入ったら その時、そこはすいていて 丸テーブルには僕 一人しかいなかった。

ここの中華料理屋は カウンター席がないので 一人の客は 円卓に案内されることが多い。

僕は 円卓で一人 料理が出来上がるのを待っていた。

すると そこの料理屋の 4歳くらいの女の子が 僕がいる 円卓のところにやってきて 円卓中央の回転テーブルを回して ティッシュペーパーを取って それから 厨房の隅っこにその子は行って そこで しゃがんで 絵本を読んでいた。

本当に おもむろに 僕がいるテーブルにやってきて 回転テーブルからティッシュをとる様は そこに ティッシュがあるよ と僕に教えているかのような感じだった。

僕は それまで 調味料がその回転テーブルに置いてあることは知っていたけれど ティッシュがおいてあることには気づいていなかった。

それで 料理で口に油がついたりすると いつも自分のハンカチや 料理屋から出されたおしぼりでそれをぬぐっていた。

それを見かねた 女の子が その回転テーブルにはティッシュもあることを無言の行動で教えてくれたような気がする。

女の子の動作か おもむろだったのできっとそうだと思った。

子供って面白いなと思う。




京都市交響楽団定期演奏会を聴きに行く。(第687回)

2024年03月22日 | 日記
3月16日は京都市交響楽団第687回定期演奏会を聴きに行った。

指揮は広上淳一さん ピアノはジャン エフラム バヴゼさん。

最初に演奏されたのはピアノ バヴゼさんで
バルトークのピアノ協奏曲第2番


演奏が始まってしばらくは ボーっとしていたけれど ある程度、時間がたってくると、これって おしゃれで かなり華やいで ブライトな世界と思い始めた。

バルトークは暗いイメージが僕にはあるけど、この演奏はおしゃれで ブライトだなと思った。

それで、たまたま この演奏会の数日前にネットで目にした バルトークの若き日の写真はとてもシュッとした男前であることを思い出した。

芸術家に限らず、死後も名前が残るような人は、晩年の写真が主に人の目に触れることになるけれど若いころのシュッとした顔にも注目すべきだと思う。

どんな人でも 若いときのベースがそのまま根底に残るということがあるから。

オーケストラの方をずっと見ていて二楽章になってふと ピアノのバヴゼさんに目をやると ピアノを弾くためという観点で考えると ちょっと不自然というか 無駄な動きをバヴゼさんがしていることに気付き始めた。

この動きはなんだ と思ってしばらく見ていると 「ああ あの動きはオーケストラにキューを出したり 気を送ったりしているんだ」ということがわかった。

特に二楽章から三楽章にいたる場面では もう二楽章の最後でピアニストがオーケストラの方に顔を向けて 「この状態をキープして三楽章よろしくたのみます」という感じでおがみたおしているような気がしてちょっとユーモラスでもあった。

きっと、ピアニストがキューを出したり 気を送ったりしてもいいという合意というか暗黙の合意がバヴゼさんと広上さんの間に出来ていたのだと思う。

でも、ピアニストがたとえキューや気を送ったとしてもそれに対応できるだけの余裕というか度量が広上さんにもあったということなのだと思う。

もちろんピアニストは特に指揮のような動作をしなくてもそこで演奏しているだけで大きな気をオーケストラに送っているわけだけれど、このピアニストの場合は 素人目というか 僕の目にもそれとわかる動作だったということだ。

でも 見ていて けっこう楽しかった。

ピアノを弾いてて指揮も自分がちょっと表に出たいというときは ちゃっかり表に出ちゃうというのはフランスというかラテン的な考え方なのかなと思った。

第二楽章は 途中から 結構 速いスケールをピアノが弾いていくことになる。

音楽が速くなっても 中庸のテンションを保ちながら弾いておられるように僕には思えてそれもまたすごいことだなと感じた。

たぶん 第二楽章の表記が演奏会のプログラムによると アダージョとなっているので だとえ途中で音が速くなっても アダージョのベースを崩してはいけないという意識も働いているのかもしれない。

そういう なんというか 根本の型を崩さずに 自由にふるまえるというのがすごいことのように僕には思えた。

さすがに 三楽章になって 音楽がもっと激しくなると 中庸のテンションではなくなったけれど、、、。

アンコールにドビュッシーが演奏された。
聴いたことある曲だけれど タイトルまでは知らないという曲。
ちょっと勢い余った感じの演奏に僕には思えた。

けれど アンコールだし コンチェルトをやったあとだし。

最初から ドビュッシーを演奏する という意識で演奏されたら きっとまた違った感じになるのだろうと思った。

演奏が終わった後 ピアノの後ろでアンコールを床に腰を下ろして聴いておられた広上さんの方にバヴゼさんは歩み寄られた。

その時になって 広上さんが後ろで聴いておられることに僕は初めて気づいた。

そして バヴゼさんと広上さんのカーテンコールは 二人の体格の違いを存分に生かしたパントマイムの要素も多分に含まれていてみていて楽しかった。

20分の休憩をはさんで次に
ラフマニノフの交響曲第3番作品44が演奏された。

いい曲なのだけれど 僕の理解がまだまだ足りないせいか いまひとつ交響曲としての統合性に欠けるような気がして どこか映画音楽のようだなという印象がぬぐいされなかった。

でも ときおり 木管や チェロなど主に低い音を受け持つ弦から ふっと気持ちが和らぐような旋律が出てくるのに気づいて そういうところはやはりラフマニノフだなと思った。

最後に毎年3月の定期恒例の今年で引退なさるプレーヤーの紹介がなされて、毎年のことだけれど、ちょっとうるうるっとなってしまった。

帰りは京都植物園の門からちょっと中をのぞいて それから地下鉄の駅に向かった。

駅にいく道々 夫婦でコンサートの印象を語る声が聞こえてくる。

ある おじさんが 奥さんと思しき人に「やっぱラフマニノフは辛気臭くないからええなあ」と語る声がたまたま僕の耳に入ってしまった。

確かにメロディは美しいし バーッと盛り上がるところもあるし 癒しの要素もあるし 辛気臭くない なるほど と思った。

でも それよりも なによりも 辛気臭くない という いわば関西独特の表現がコンサートの帰りに人の口をついて出てくるというのが 京都のコンサートだなと思う。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。









甘い誘惑

2024年03月12日 | 日記
名古屋駅構内のコンビニでチロルチョコを買った。

店員の女性が「これだけで足りますか」と言った。

「はい」と僕は言った。

たりるかどうかわからないけれど、チョコレートは一度にたくさん買うと買っただけ食べてしまいがちなのでチロルチョコにすることが多いのも事実。

チロルだと一個ずつばら売りだから。

でも、その時の女性の「これだけで足りますか」という言葉の抑揚は
こんな甘い誘惑に一個だけで耐えられますかというような含みがあるように僕には思えた。

男性と 女性では ホルモンなどいろいろ身体の仕組みが違うけれど 甘いものへの希求性というのも男と女ではやはりかなり違うのだろうなと思った場面だった。

本当に見ず知らずのあいだがらだけれど 思わず「足りますか」と言ってしまったという感じだったから。

それはともかく いちにち いちにち無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。



いやはやなんとも

2024年03月09日 | 日記
先日 実家で 母と一緒にお昼のテレビを見ていたら、女性のコメンテーターがなんだかちょっと興味深いことを話しておられた。

たぶん この論旨はあの人 と思って スマホで調べると 出てきた結果は 僕が多分あの人だろうと思った人だった。

そのプロフィールを見て 僕が 母に 「この人 創価高校の出身で すごく頭がいいらしいよ」と言ったら、「そうか」と母。

ねらって 「そうか」 と言っているわけではないことが いやはや何とも と思ってしまう。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。