ケンのブログ

日々の雑感や日記

表向きは標準語だけど

2024年12月15日 | 日記
名古屋の国際交流のイベントに行った。

国際交流の映画を見てそれからパネリストのトークを聴くという趣向のイベントだった。

パネリストの一人は国際交流関係の財団法人の代表理事の方だった。

その方の言葉は表面上は東京の言葉、あるいは名古屋の言葉と思われるような言葉遣いだった。

でも話の運び方がなんとなく 東京や名古屋の人とは違う。

つかみのところで 「私は 東南アジアの人相手に貸しビデオ屋さんをしていましたが、今では随分、すごい人になりました」と言う感じのことをおっしゃったので、ええ、それって関西のノリだと思った。

でも名古屋ではそこでそんなに笑いはでない というかほとんど出ない。

「貸しビデオ屋さんをやってた時は 外人の人もたとえビデオと関係ない個人的な相談でも 『どうしてそんな風なんですか』という感じで電話がかかってきていましたが、外国人のための公的な相談窓口では 『先生 相談したいことがあるのですが』という感じで電話がかかってきます。やはり外国人の方も貸しビデオ屋にはこちらが金を払っていると思うから お客さんの立場でものをいってくるけれど 公的な相談だと かしこまってしまうんですねえ」という主旨の話を聴いた時にはいい話だなあと思った。

同時に これはもう完全に関西のノリだと思った。

それで ちょっと椅子の下に置いておいたイベントのしおりを見るとこの代表理事の方は 伊丹市出身となっている。

やっぱりなあと思った。

僕も言葉の表面上は東京に合わせているように見えてもそれはエセ東京弁で中身は関西となんとなくわかるほど長く関西にいたんだなあと思った。

一回それに気づくともう関西のノリに気付くことの連続だった。

「私たちが簡単な日本語を話すのも大切ですが 外国人のブロークンジャパニーズになれることも大切です。先日ある会社に電話をかけましたら外国人の方が出られて 『課長はいま席がはずれております』とおっしゃってましたが、日本人ならそれで何を言いたいかわかるじゃないですか。そこで理解することが大切です」という主旨の話を聴いた時にはいい話だと思った。そして関西だとも思った。

「パキスタンの女の子のお父さんは、『もう女の子だから中学卒業したら学校は行かなくていいです』 と言うんです。私はそれには抗う(あらがう)べきだと思います」
ああ、イスラムの神アッラーとあらがうをかけた親父ギャクだなと思いつつも なんだか名古屋の親父ギャクとはちょっと違うと思った。

あらがう アッラー パキスタンを結び付けないと面白さがわからないところが奥ゆかしくて関西らしい。

寒う と突っ込まれる危険性もいっぱいのギャグだけれどそういう危険性もいいような気がする。

でも 結局はやさしい方だったなと思う。

関西人なのに表向きは標準語を話されるのもやさしさのひとつのような気がした。

関西弁は関西以外の人には威圧的に思える場合もあるから、、、。

やさしい方だから 国際交流の多様性に配慮のある社会づくりの仕事に入っていかれたような気がする。

あれこれ考えていて結局はその人が培ってきた人柄だなと思うことが多い。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。






名古屋フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴きに行く(第592回)

2024年12月14日 | 音楽
12月7日愛知県芸術劇場コンサートホールに
名古屋フィルハーモニー交響楽団第529回定期演奏会を聴きに行く。

指揮はアントニ ヴィットさん
最初に
シューマン 序曲「ヘルマンとドロテア」が演奏された。

ラマルセイエーズのメロディが頻繁に形を変えて出てきた。ちょうど知り合いの人がフランスに行っているときだったので、フランスに思いを馳せながら祈るような気持ちで演奏を聴いていた。

次にバイオリン独奏 森岡聡さんで

シューマン バイオリン協奏曲 が演奏された。

録音、生演奏、含めてたぶん初めて聴いた曲だと思う。

バイオリンが独奏楽器としてオーケストラと対峙して際立っているというよりも、バイオリン独奏がオーケストラの演奏と融合しているという印象を僕は持った。

たぶん独奏の森岡聡さんが名古屋フィルのコンサートマスターと言うことでオーケストラと独奏者のなんというか心理的な距離が近いことが一因かもと思った。

何楽章とか言うのは忘れたけれどコンサートマスターとバイオリン独奏が掛け合いをする場面があってよく息があっているなと思った。

例えば一楽章でオーケストラ全体が一斉に鳴るようなところは特に何番と言うわけではないけれど シューマンの交響曲を連想しながら聴いていた。

楽想は交響曲を彷彿させる場面でも演奏は音量的にはかなり抑え気味であることも印象的だった。

オーケストラのメンバーの方が遠慮しておられるのだろうかとも思ったけれど、指揮者を見るとやはり大きな音を求めるような動きはされていなかったのできっと指揮者の意図によるものなのだろうと思った。

全体に抑え気味にまとまった演奏であるように僕には思えた。

チャイコフスキー 幻想曲「フランチェスカ ダ リミニ」

演奏の前半 悲劇的な楽想が頻繁に出てきたけれど、弦の高音域がその悲痛さに見合うような音が出ていないように思える場面がしばらくあった。
そんな時には、もう少し 弦の高音域が悲痛さを表現するようなある種の鋭さがあればなあと思いながら演奏を聴いていた。

ただ、演奏が進んで音楽が躍動的になって来るとそのような弦の高音域の音不足のような感覚はだんだん気にならなくなってきた。

結果的にはよく盛り上がって演奏が終わったように僕には思えた。

金管の高らかに鳴る感じ、木管の音が転がるような感じ そんなところでチャイコフスキーの交響曲第4番を心に思い浮かべながら聴いている時間もかなりあった。

チャイコフスキー 幻想序曲「ロメオとジュリエット」

最初は割と静かな曲調が演奏を支配していた。

前に演奏された幻想曲では最初、弦楽器の高音域がもう少し耳に届いてくればという思いで聴いていた場面もあったけれど この曲ではそういうこともなく その意味でリラックスして演奏を聴けた。

基本的に初めて聴く曲という認識で演奏を聴いていたけれど 後半になって金管と絡みながら弦の音が細かく動くようになると、ああ いつかどこかで聴いたことのある音楽と思った。

曲が盛り上がるところは演奏にとても満足することができた。

この日は4曲演奏されて4曲とも実質初めて聴く曲だった。

最近はそういう機会も減っているように思うけれど 知らない曲を聴くときはどうしても自分が過去に聴いた曲と結び付けて聴いてしまうことが僕の場合多い。

もともと連想癖が僕にはあるので、そういう連想をしながら演奏を聴くのもまた楽しみの一つだなと思う。

それにしても、若いころはオーケストラの奏者の方がおじさん おばさんに見えたけれど、最近は奏者のほとんどの方は僕より年下でなんとなくフレッシュに見えるなあと思うことがある。

それはともかく いちにち いちにち無事に過ごせますようにそれを第一に願っていきたい。




屈むと上がります

2024年12月01日 | 日記
ジーンズのお尻のところがだんだん薄くなってきてとうとう破れてしまった。

それで、ユニクロに新しいジーンズを買いに行く。

結局、破れたジーンズと同じ型、同じ色のものを選ぶ。

試着室で試着。

サイズは問題ない。

丈はつめなければならない。

はいているスニーカーをチェックするとスニーカーの上のラインはくるぶしの
丁度下を通っている。

ということは、くるぶしの丁度センターまで来るように丈を詰めればいいかとその場で決める。

隣の試着室ボックスで女性がやはり丈詰めの話をスタッフの女性としている。

その声が途切れたタイミングで ちょっと試着室のカーテンを開けてスタッフに声をかける。

「僕も丈詰めお願いします。順番が来たら声かけてください」と僕。

「あ もう大丈夫です」とスタッフの方。

「くるぶしの真ん中あたりで丈詰めお願いします」と僕。

スタッフの方はくるぶしの上あたりまでジーンズを詰めて安全ピンでとめる。

「いかがですか」とスタッフ。

僕は屈んで丈の下限を指で確かめ 
「もう気持ち下でお願いします」と言った。

「お客様、屈むと丈があがりますので向こうの鏡を見てください」とスタッフの方。

それで鏡を見るとなるほどちょうどくるぶしのセンターあたりに丈の下限が来ている。

丁度 いい感じになっている。

それで僕はもう一度屈んで丈の下限を指さして
「じゃあ ここでお願いします」と言った。

「お客様 屈むと丈は上がりますので」とスタッフの方。

「そうでしたね」と僕。

話しはかみ合わなかったけど 手際よくやっていただけてよかった。

いちにち いちにち 無事過ごせますように それを第一に願っていきたい。