ケンのブログ

日々の雑感や日記

京都市交響楽団定期演奏会を聴きに行く(第696回)

2025年01月23日 | 音楽
1月18日土曜日 京都コンサートホールに京都市交響楽団第696回定期演奏会を聴きに行く。

北山の駅を降りてコンサートホールに向かう道すがら女性二人の会話が聞こえてくる。

「このあたりって大学もあるし 静かやし、こんなところに住めたらいいなあ」
「テントでも張ったら?」。。。。。。。。。

「『テントでも張ったら?』って、あなた、そういう話やないでしょう。こんな場所にテント張って住むわけにいかんし」
と突っ込む人は誰もなく、女性二人の間に何とも言えない沈黙が続く。

たぶん あのまま コンサートホールにつくまで沈黙は続いたのではないだろうか。

僕と女性二人の距離は歩く速度の違いで離れてしまったからわからないけど 本当にテントのボケが宙に浮いてしまって、言った女性はかわいそうだった。

今はもう立ち直っておられたらいいんだけれど。

関西にずっと住んでいれば日常 ごく当たり前に耳にする会話のパターンも尾張地方から登ってくると本当に懐かしいものに思えてくる。それだけでも来た甲斐があった。

さて、京都市交響楽団の演奏

指揮者はヤン ヴィレム デ フリーントさん

最初に演奏されたのが メンデルスゾーン「夏の夜の夢」から序曲。

公演プログラムに「別世界へいざなうような管楽器の4つの和音に続き、4グループにわかれたバイオリンが飛び回る妖精を思わせる」と書いてある箇所のバイオリンの音色がキラキラ輝いているように聴こえ、アンサンブルも精緻で、よかった。バイオリンが指揮者の左右に配置されていたので音が程よく散ってそれも音のキラキラ感に彩りをそれていると感じた。

そのキラキラしたバイオリンを聴いていて素晴らしい演奏だな、京都は今や国際都市だけれどこの演奏なら世界のだれが聴きに来てくれても大丈夫、と思った。

静かに細かく音が動くところからダイナミックに音が動くところまで音楽のシーンごとに演奏の雰囲気を切り替えるのが巧みで プログラムに指揮者がオペラのキャリアもたくさんあることが記載されているけれど なるほどど思った。

次に演奏されたのが
ベルト作曲 ヴァイオリン 弦楽と打楽器のためのフラトレス

バイオリン独奏 会田莉凡さん。

最初あまり独奏者を見ないで演奏を聴いていたけれど バイオリンから低い音 高い音両方出ていて 「ええ? 2台のバイオリンで弾いてるの?」とびっくりして奏者の方を見たらひとりで演奏されていて またまた びっくりした。

曲想はいろいろ変化して、独奏もそれにうまく対応していたけれど 独奏者の方がその変化の中でも変わることのない 一定の緊張感を保っておられるように僕には思えて それか素晴らしいと感じた。

曲は後半になると神秘的な沈んだ楽想に浄化していき 何とも言えない 心の落ち着きを感じさせるものだった。

そこを聴いていてなんとなく ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番の第三楽章 「病いえたるものの感謝の歌」を連想しながら演奏を聴いていた。

20分の休憩をはさんで次に演奏されたのが

ダウランド 弦楽合奏のための「あふれよ涙」 そして切れ目なくシューマンの交響曲第2番が始まる。

金管の音が鳴り前の曲から切れ目なくシューマンの交響曲が始まった時は「ええ?聞いてないよ」と思った。

長い間コンサートに通っているけれど 違う曲が切れ目なく続けて演奏された記憶はちょっとない。

なぜこういう演出になったかわからないけどちょっと不思議だなと思った。

第一楽章が終わった時 会場から拍手が沸いたけれど それは そうだろう 前の曲から切れ目なく演奏されたので 第一楽章の終わりが前の曲の終わりと思う人は多いはずだと思った。

僕はたまたまネビルマリナーさんのCDを家にもっていたのでつられて拍手をせずにすんだ。

演奏は曲想の変化に応じて多彩に変化するタイプの演奏で聴いていて楽しかった。シューマンのシンフォニーって演奏次第でこんなに楽しいんだと思った。

音が波打って流れるようだなと思って指揮者を見ると本当に波打って流れるようなジェスチャーをしておられて 結局は京響くらいのオーケストラになると意気が合えば指揮者の動きの通りの音が出るんだなと思った。

滑らかなところ スッとするどく気を送るところ ダンスのように動くところ 体を伸ばして力強さを要求するところ いろんな動きが的確に繰り出されている感じで、指揮者をみるのもとても楽しかったし 演奏も 本当に指揮者の動き通りの演奏だったように思う。

例えば第一楽章はプログラムの楽曲解説を見ると アレグロ マ ノントロッポと書いてある。

今まで僕が録音 録画などで耳にした演奏は このマ ノントロッポという記載のせいかちょっとアレグロと言っても重々しく感じるものが多かった。

でも この日の演奏は 快活で流れるようで滑るようで 本当に聴いていてワクワクする感じだった。

コントラバスが 指揮者から見て左に配置されているのになぜか右から聞こえた。それも印象的だった。僕の席の位置だときっとホールの壁に反響した音がよく耳に届いたのだと思う。

でもシューマンの交響曲って 手に届きそうで届かないものへのあこがれ、逆に手に届かないことへのもどかしさなどが表現されているような気がして そこが大きな魅力だなと演奏を聴いていておもった。

とてもいい演奏だったと思う。

帰りに北山の駅に向かって歩く道すがら夫婦と思しき人の会話が聞こえてくる

「音楽が結構せわしないから奏者の人大変やなあ」と奥さん。 
「でもそのせわしないとこがベートーヴェン的と言うか、いかにもクラシックっていう感じやなあ」と旦那さん。

本当に的を射た会話だなあと思った。京都ってやっぱり文化レベルの高い街だと思う。

「今日の指揮者の人楽しかったわ」と話している若い女性もいた。

本当に楽しい演奏会だった。

それはともかく 一日いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。




もう30年

2025年01月17日 | 日記
1月10日は朝 マンションの駐車場に雪が積もっていた。

自動車を出そうとするとスリップする。

これはあかん 無理しない方がいいと思って自動車を出すのをやめた。

ネットでニュースを見ると行き先の僕の実家のある町は大雪警報になっている。

自動車を出さなくてよかった。

自動車がスリップしたことで運転を自粛することができて本当にちょっとした難が今回は逆に安全につながってよかった。

テレビやラジオを日常的に視聴する人には信じられないことかもしれないけれど、
僕はテレビを昔からほとんど見ないので気象情報にも疎い。

阪神大震災は朝の5時台に来たけれど、すごいゆれだったので布団を頭までかぶって念仏を唱えていたけれど ゆれが終わると二度寝してしまった。

当時会社は10時始業だったので9時10分にアパートの最寄り駅発の電車に乗れば十分間に合った。

8時半ころ起きて9時に駅に行くと駅のシャッターが閉まっていた。

ええ ひょっとして地震で電車が止まったのかと思いアパートに帰ってきてテレビをつけると横倒しになった阪神高速道路 黒い煙が上がる神戸市長田区の様子がテレビに映っていた。

それで初めて被害の甚大さを知った。

あれからもう30年になるのだなと思う。

いちにちいちにち無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。







寒い季節

2025年01月10日 | 日記
昨日の午後、名古屋市内を歩いて、風が強く、かなり寒いと感じる。

名古屋で寒い風に当たると「伊吹おろし」という言葉を思い浮かべる。

冬に濃尾平野に吹く寒く乾いた北西からの季節風。

風が北西からどうかは歩いていてもわからなかったけれど 伊吹おろしかなと思う。

名古屋にあった旧制第八高等学校の寮歌のタイトルでもある。

マンションに帰ってくると気温が0度となっている。

やはり寒いなと思う。

一年で最も寒い季節だなと思う。

それはともかくいちにちいちにち無事に過ごせますようにそれを第一に願っていきたい。

京響の第九を聴きに行く

2025年01月05日 | 音楽
今となっては昨年のことだけど12月27日に京都コンサートホールに京都市交響楽団のベートーヴェン第九演奏会を聴きに行った。

北山の駅を降りる。

地上に出ると僕の後方から夫婦と思しきの方の会話が聞こえてくる。

「チケットにLって書いてあるわ」
「Lって左のことやろう」
「そうか左ってどっちから見て左や。わからへんわ」
「そうやな、わからんわ」

普段、関西で暮らしているとごく日常、耳にする会話のパターンだけれど関西をはなれて尾張地方から京都に上っていくと京都と言うか、関西の会話やなあとしみじみ思う。

ほっこりした気持ちになることも事実。

人工知能の台頭の影響も大きいと思うのだけれど、人の口から言葉が出にくくなっているし、出たとしても妙にかまえた中途半端な言葉になってしまったり。

そんな中で 最後までしぶとく生き残るのは案外、関西弁かもしれないとふと思う。

さて、今年の京響第九演奏会の指揮はガエタノ・デスピノーサさん。

第一楽章か第二楽章かちょっと記憶があやふやになってしまったけれど楽章の最後の音が妙に小さかった。そんなところに少しピリオド奏法の影響を感じた。

全体的には僕の感覚だと、アクセントが妙に強いちょっと癖のある演奏に思えた。

指揮者の動きがちょっとオーバーアクションと僕には感じられる場面がいくつかあり、そんなこととアクセントの強い演奏と思ったことときっと関係があるように思う。

ピリオド奏法の影響があると思われたことと関係している気もする。

ちなみに第二楽章の副主題は木管にホルンが重なっていた。しかし、それはワーグナーのように音を雄大に響かせるためのホルンではなく木管に彩りを添えるそいうたぐいの重ね方だった。そんなところにも演奏が必ずしも雄大さを目指したものではないことが感じられた。

オーバーアクションとは関係ないかもしれないけれど デスピノーザさんが頭で頭づきをかますような動きでオーケストラに気を送ったと思える場面もありちょっとコミカルな印象をその時には持った。

デスピノーザさんのプロフィールにイタリア生まれと書いてあるのを見たときには、沖澤のどかさんが京響に就任してはじめての定期演奏会でメンデルスゾーンの交響曲「イタリア」が演奏されたことを思い出した。


僕の音楽におけるイタリアのイメージはあの交響曲イタリア 特に第一楽章の抜けるようにはじける感じ、そしてエレガントさ そういうものだ。

そういうイメージの演奏とは異なるものであったように思う。

木管のアンサンブルが精緻。それはこの日の演奏でとても印象に残ったことの一つだった。


開演前にあらかじめプレーヤの方を目にしていた先入観もあるかもしれないけれど、第二楽章の弦の掛け合いでビオラの音がよく耳に届いて新鮮な印象を持った。

これもプレーヤの方が途中から出てこられて、そこに注目したおかげで、第四楽章、テノール独唱が入る前に木管が歓喜の歌を行進曲風に変奏した旋律を奏でるのはピッコロだと今さらのように気づいた。ちなみにピッコロが出る前のファゴットの音色も心にぐっとくる味わい深いものだった。

自分は楽器の音色を聴き分けるのが困難とさとってから努めて楽器を見るようにしているけれどその成果がひとつ出たなと思った。

コーラスが歓喜の歌を高らかに歌い終えて、終盤のコーラスによるフーガに至る場面でオーケストラのみで緊張感のある旋律を刻む場面があるのだけれど、コンサートマスターの方のリードのもと聴きごたえのあるものだった。

それに続いて コーラスがフーガを歌う時にオーケストラは譜割りの細かい音を刻んでいくのだけれど、そこも本当に弦楽器の方全員が、前向きな気もちで演奏されているように僕には思えて心の充実感を味わった。

そしてこういう場面でのコンサートマスターの役割は大きいなあとステージを見ていて思った。

自分の反省点としてはこの日の演奏会は通常アルトが歌うパートにカウンターテナーが入っていたのだけれどオーケストラの方ばかり見ていて カウンターテナーの方を見るのを忘れていたのが少し残念に思えた。

総括的に思ったことは、第九と言うのはどの楽器も均等に活躍する。そしてそれはソロ的に活躍する場面ももちろんあるけれど、複合的にからみあって活躍するという要素も大きい。要するにソロ的な要素も複合的な要素も均等になっているということ。

つまり第九ほど均整のとれた交響曲は探してもきっとないだろうとおもえるほど均整がとれていると感じた。

木管の充実度はベートーヴェンの交響曲の中でも随一かもと思った。

こういうCDを何度となく聴いても気づかないことに生演奏は気づかせてくれるから、本当にコンサートと言うのはありがたいものだと思う。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。