歌人・辰巳泰子の公式ブログ

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百首歌の覚書――鰻と梨

2023-02-21 09:01:57 | 月鞠の会
鰻の歌は、父の好物であることや、家計の厳しいときのとっておきとして、わが家の常備食材であることから、しょっちゅう詠んでしまうのですが、中間生成物となりがちで、これまで、決定稿までの段階でほとんど捨てています。
それというのも、私の描きたい鰻は本当のところ、かば焼き鰻のおいしさではなく、ブラック産業化したウナギ市場や「ウナギ」という生き物と人とのかかわりだったりして、思うように描けている気がしません。

ウナギという生き物は、ウロコのない蛇のようで、真っ黒でとぐろを巻いて、つかまれそうになるとぬるぬると素早くすり抜け、噛みつきはしないけれど、怒らせたら人体九穴のどこかから、夜、眠っているあいだに侵入してきそうです。
よく似たものにヤツメウナギというのがあって、あれは、歯がびっしり生えて、噛みつくのではなかったかしら。
そういうわるい夢を、汗びっしょりで真夜中に見てしまいそう。
子どもだった私には、とっても悪魔的な生き物でした。

子供の頃、十三の栄町商店街に、うなぎのつかみどりの屋台が出ていました。
日々の夕方、栄町商店街の出入り口付近に、うなぎのプールが置かれたら、栄町商店街は、いよいよ、盛り場の表情を見せるようになります。
さんざん酔っぱらったサラリーマンのおじさんが、商店街の出口で「家族へのお土産に」というテキ屋さんの口上にひっかかり、夜な夜な、背広の袖やズボンの裾まで濡らし、このプールで、踊りをおどってしまうのです。
幼い日の私は、そのさまを見ていました。

ウナギは、はるか昔、父にせがんで、自分もつかみどりのプールに手を入れさせてもらい、すぐに薄気味わるくなったのを覚えています。
歓楽街の喧騒が包む、ブルーシートの囲いのなかで、プールの水に電気のモーターがうぃんうぃん唸って、裸電球の大きなのが、いくつも眩しくて。

実景として、昭和50年代ごろまでの風景、風情、「そういうことがあったな」と想起される仕上がりにしたいのですが、「これを書かずにいられない」というところまで、さかのぼりきれていません。
まだ、描きたいことの核心の、周辺にいるような感じです。

もう一つ、「梨」のほうは、昨秋、私の漬けた洋梨の自家製リキュールが、すっかり息子の好物となったこともあって、みずからの五感に触れる機会の多かった食材です。
その果汁のにおいがね、羊水に似ていると私は感じたのですが、調べてみると、梨の花のにおいが、いささか生ぐさいそうなのです。
梨は、中国の古典ではこのうえない美的象徴であるにもかかわらず、『枕草子』で、清少納言にぼろくそに言われているのも、印象的です。
それで、ぜひ梨の花のにおいを実際にかいで、確信を得た描き方をしたいということがあり、農家さんで協力してくださるところを見つけて、この春、取材したいと思っています。

全体として、私は、自分の描く具体物が、消費者文芸になってしまうことを拒絶しています。

つまり、スーパーや料理屋で、そのものの由来から切り離されたパーツを買い取って、対価を意識しながら風流だのうまいだのという消費者意識から一歩も出ないで、共感する読者がいくらあったって、それで、自分は仕事したことにはならないと考えているのです。
そのものの「いのち」に触れるところまでいきたいと、希っています。

ところで、梨の花季は、桜と同時期で、タッチの差で、桜が早い。
和歌の世界は、果実が目当てとなる実用的な素材を「ケ」とみなす傾向にあり、ほぼ同時期に、待たれて待たれて咲いた桜の、いわば祭りの満腹感の後に満開を迎える梨の花は、そのにおいもあいまって、清少納言に吐き捨てられたということなのかしら。

「梨とはこういうものか」と感慨を覚えるばかりではなく、「おまえが梨だったのか!」という発見にまで至りたい。
できるものなら。
清少納言のしなかった発見に、至りたいのです。

……というわけで、梨の花のにおいをかいでから、見直しを加えることになるかと思います。




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