三 「恋歌」の比較――『古今和歌集』と『新古今和歌集』
本論「『新古今和歌集』――恋の正体」では、恋の歌に的を絞って、論じたいと思います。
「恋歌」の部に絞り込む理由については、和歌における「恋」が、現代にも通じる普遍の感情であることが、第一の理由です。そして、『古今和歌集』『新古今和歌集』ともに、恋愛の進行順に分類しており、主題と構成が明確で、両者を比較しやすいことが第二の理由です。第三の理由としては、『新古今和歌集』の中心的編者、藤原定家が『毎月抄』において、有心こそは和歌に求められる本質であり、恋や述懐は有心の体でなければならないと述べており、恋の歌を対象とすることで和歌の本質をとらえられると考えたからです。この旨、第五章に詳細がございます。
歌数では、『古今和歌集』は全一一一一首中、「恋歌」の部は469―828番、三六〇首。『古今和歌集』全体の32%強が恋の歌ということになります。『新古今和歌集』では全一九七九首中、恋歌の部は990―1434番、四四五首。『新古今集』全体の22%強を占めます。『新古今和歌集』におけるその他の部立は、『古今和歌集』よりも細分化され、膨張したと考えられます。
作者名の表記はいずれの集でも統一されておらず、ここでも統一しておりません。同シリーズのそれぞれの集で、その和歌が掲げられると同時に併記された作者名を、連番の後に続けてそのまま掲げました。
【恋歌一】
恋愛の初期段階。自分のなかに恋心が芽生えたばかりの段階。
●『古今集』
『古今集』「恋歌一」は469―551番、八三首。
469よみ人しらず
時鳥(ほととぎす)鳴くや五月(さつき)の菖蒲草(あやめぐさ)あやめも知らぬ恋もするかな
時鳥が鳴いていますね。菖蒲草の咲くこの五月に、分別のない恋をしてしまいました。
471紀貫之
吉野川岩波たかくゆく水のはやくぞ人を思ひそめてし
吉野川の上流の水が、走り出て岩にぶつかり高く跳ね上がります。それほど早くから、私はあなたに恋をしていました。
542よみ人しらず
春立てば消ゆる氷の残りなく君が心はわれに解けなむ
春になったので、氷も解けてきましたよ。あなたの心も、私とすっかり溶け合うことでしょう。
469番の時鳥は、昼夜を分かたず訴えるように鳴く声が人を惹きつけます。世界の中心に恋があり、恋の中心に自分がいるという高揚感を歌い上げて冒頭を飾っています。
471番、542番は、清涼感、恋愛初期の期待感のこめられた歌です。『古今集』の恋の始まりは、さわやかで、期待と陶酔に満ちあふれたポジティブなものでした。
●『新古今集』
『新古今集』「恋歌一」は990―1080番で九一首。
990読人しらず
よそにのみ見てややみなむ葛城や高間の山のみねのしら雲
葛城山の峰にかかる白い雲のようなあなたを、遠く見ることしかできないで、この恋は、終わっていくのでしょうね。
991読人しらず
音にのみありと聞きこしみ吉野の滝はけふこそ袖におちけれ
噂に聞いていた吉野の滝のような音を立てて、きょう、私の袖には失恋の涙が激しく落ちているのです。
1001中納言朝忠
人づてに知らせてしがな隠れ沼(ぬ)の水(み)ごもりにのみ恋ひやわたらむ
誰かこの恋心をあの人に知らせてくれないかなあ。隠れ沼のこもり水のように、あなたを思っています。
1012和泉式部
けふもまたかくや伊吹のさしも草さらばわれのみ燃えやわたらむ
きょうもまた、つれないことを言うあなたです。私の恋心だけが、燃え盛っているのね。
1023和泉式部
跡をだに草のはつかに見てしがな結ぶばかりのほどならずとも
せめてお手紙で、あなたの書いた文字を見るだけでもさせてくださいな。結ばれない身分とわかっているけれども。
1030前大僧正慈円
わが恋は松をしぐれの染めかねて真葛が原に風さわぐなり
しぐれが松の木を染めかねるように叶わぬ思い。真葛が原の葛の葉が風に裏返るように、ざわざわと、恨む心でいっぱいです。
1032寂蓮法師
思ひあれば袖に螢をつつみてもいはばやものを問ふ人はなし
袖に螢を包んででもこの思いを伝えたいのに、あなたは、私のことを気にかけてくださいませんね。
1034式子内親王
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする
いっそ死んでしまいたい。このまま生きていたら、この恋心を抑えることができなくなってしまいそうだから。
1067紀貫之
あしびきの山下たぎつ岩波の心くだけて人ぞ恋しき
山の麓を岩にぶつかりながらたぎり流れる水のように、私の恋心は砕け散りながら、それでもあなたを思っています。
1080在原業平朝臣
みるめ刈るかたやいづくぞ竿さしてわれにをしへよ海人(あま)の釣舟
海藻を採集できる干潟はどこなのか、竿で指し示しておくれ、釣り舟にいる海人よ。人の見る目を気にしないであの人と逢える場所はどこかしら。
990番。自分はどうせ相手にされないと、初めからあきらめた歌が冒頭歌です。
991番は、恋心が芽生えるや、同時に絶望にも陥ってしまいます。冒頭をこのようにすることで、『古今集』との差別化が示されているといってよいでしょう。
1001番は暗澹としており、鬱屈とした心情が描かれています。1012番は、「草」「跡」といったはかないものが望みの象徴となり、1032番の「思ひ」は「火」でもあり、「螢」のはかない生命の光と結びつきます。
つまり、『新古今集』の「恋歌一」は、『古今集』の「あやめも知らぬ」恋、身の程を忘れる恋とは真逆に、身の程を思い知らされ、鬱屈し、くすぶり悶えるという趣向なのです。
1030番。葛の葉が風に裏返るという表現は、「恨み」を意味しています。葛はツル科の植物ですので、絡まり合って生長します。葉裏が白いので、強い風が吹くと目につきます。
『古今集』では、絡まり合った葛の葉が裏返るまでの恨みにいたるのは「恋歌五」の段階ですが、『新古今集』では「恋歌一」に置いてしまうのです。「恋歌一」の段階で、これらの歌のような、暗く濃厚な情念を放ってしまって、『新古今集』の世界の「恋歌五」では、どんなことになってしまうのでしょう。このような惹きつけ方は、『源氏物語』が、その冒頭から暗澹としていることにつながっている気がします。
1034番は、『新古今集』で最も著名な歌。この切迫感が「恋歌一」に置かれ、1067番は、貫之自身が『古今集』に入れなかった激情発露の歌を、『新古今集』が発掘しました。
1080番は、叙景歌としても秀でており、舟の上で竿を操る海人の姿が見えるようです。「竿」という「物」への着眼が生きており、1080番については、第四章で叙景歌として鑑賞を深めていきます。
【恋歌二】
恋について、何らかの進展を望むようになった段階。相手の反応を見る段階。
●『古今集』
『古今集』「恋歌二」は、552―615番、六四首。
552小野小町
おもひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを
あなたを思いながら寝たので、夢のなかでお逢いできました。夢だとわかっていたら、覚めたりしなかったのに。
557小野小町
おろかなる涙ぞ袖に玉はなす我は堰きあへずたぎつ瀬なれば
ぼろぼろと玉のように袖にこぼれてくるものがあるけれど、涙なんかじゃないわ、あんなやつ、好きなもんか。だけど、水流のたぎる川瀬のようになってしまって、せき止めようがないのです。
564紀友則
わが宿の菊の垣根におく霜の消えかへりてぞ恋しかりける
菊の垣根に降りていた霜が、日が昇るにつれて消えてしまいました。私もあなたに逢いたくて、消え入りそうです。
575素性法師
はかなくて夢にも人を見つる夜は朝の床ぞ起き憂かりける
はかない夢のなかでさえ、あなたに逢ってしまった夜は、朝の床から起き出したくないのです。
592忠岑
たぎつ瀬に根ざしとどめぬ浮草のうきたる恋も我はするかな
たぎる川瀬の根のない浮草のように、浮気な恋をつい、してしまうのです。
597紀貫之
わが恋は知らぬ山路にあらなくにまどふ心ぞわびしかりける
恋をするのが初めてというわけではないのに、恋をするたびに知らない山道で迷うような心地がするのは、わびしいことです。
610春道列樹
梓弓引けばもとすゑわがかたに夜こそまされ恋の心は
梓弓を引けば、その弓身がぎゅっと絞られる、恋の心はやはり、夜にお逢いできてこそまさるものです。
『古今集』では、肉体の交わりの世界が意識されるようになってきます。552番、575番のように夢にも逢うのは、一度めの夜があったからこそでしょう。564番は、朝帰りした日中、またすぐに逢いたくなってしまうという歌。そして、592番や610番のように、男性の側から、情事を肯定的にうたい上げている作品もあります。597番は、いったん理性的になろうとしていますが、山道についにわけ入ったのでなければ、迷うこともないのです。557番は、相手をよく知らずに身を任せて、後悔するような状況かと思います。現代を生きる私たちにとり、非常に身近に感じられる世界です。
●『新古今集』
『新古今集』「恋歌二」は、1081―1148番、六八首。
1081 皇太后宮大夫俊成女
下燃えに思ひ消えなむ煙だに跡なき雲のはてぞかなしき
片思いのままで、死んでしまうのでしょうね。そんな私の亡骸を焼くその煙さえ、雲の彼方にはかなく消えてしまうのでしょうね。
1082藤原定家朝臣
なびかじな海人の藻塩火たきそめて煙は空にくゆりわぶとも
海人が砂浜で塩焼きを始めたけれど、煙は立ち昇らず、くすぶったまま。同じように、恋心を燃やし始めた私に、あなたがなびくことはないのでしょう。
1099西行法師
はるかなる岩のはざまにひとりゐて人目思はで物思はばや
俗世とはるかに隔たった岩の狭間で一人座って、誰の目もはばからずに、あなたを思っていたいなあ。
1101摂政太政大臣
草深き夏野分けゆくさを鹿のねをこそ立てね露ぞこぼるる
夏草の猛々しく伸びる野を、若いオスの鹿が、まだ恋鳴きこそしないけれど草の露をふりこぼしてゆく。私の恋の涙も、声を立てずにこぼれているのですよ。
1107皇太后宮大夫俊成
思ひあまりそなたの空をながむれば霞を分けて春雨ぞ降る
あなたを思うあまり、あなたのいる方角の空を眺めていると、霞を分けて細やかな春雨が降っています。
1117藤原定家朝臣
須磨の海人の袖に吹きこす潮風のなるとはすれど手にもたまらず
須磨の海人の袖にふきつける潮風は、身になじんでも手にたまることがありません。その風のように、あなたの心もとらえどころがありません。
1147 西行法師
なにとなくさすがにをしき命かなありへば人や思ひしるとて
いっそ死のうかと思ってはみるものの、やはり、命は惜しいものだなあ。生きていれば、あなたに、いつかはこの思いが通じるかもしれないし。
1081番、1082番、1117番と、「煙」や「風」といった、物質としてそのものをとらえられないものが、『新古今集』「恋歌二」では強調されています。現実の肉体愛を謳歌するよりも、肉体の滅びを想起させる世界を描いています。
「煙」からの連想で、1082-1084番と、海辺の叙景がなされます。中盤の1115-1117番にも続けて海辺の叙景歌が入り、これらの叙景歌が、有意に強い印象を与えます。
1099番は、現実の世界を離れて、ひたすら恋慕の情に耽溺したいとする願望の歌。1147番は、やっぱり生命が大事という歌。出家者として矛盾しているようでも、これが西行の魅力でしょう。肉体とこころを行ったり来たりしているのが、私たちの、真実の姿です。このいやらしい俗世から離れたいと思うのもこころであり、現実の世界に入れ物を求めるのも、こころです。こころの本質をとらえています。
1101番の作者は藤原良経、『新古今集』の序文を書いた人です。1101番は客観の叙景歌としても卓抜しており、1101番、1107番はともに、恋の情感と季節の情感と融け合って、『新古今集』「恋歌二」のステージらしい美しい作品でしょう。
このように、『古今集』の「恋二」は性愛の世界が見えますが、『新古今集』の「恋二」は、身体の滅びを前提として、精神の世界を描いています。自然美とも混じり合い、観念の深みを描くことを可能にしている世界であるといえるでしょう。
【恋歌三】
「恋歌三」は、恋がある程度進行し、親密になってくる段階。それぞれの恋の性格が、はっきりしてくる段階。
●『古今集』
『古今集』「恋歌三」は616―676番。六一首。
616業平朝臣
起きもせず寝もせで夜を明かしては春のものとてながめくらしつ
起きもしないし寝もしないで夜を明かして、春の長雨に降りこめられて、あなたを思うばかりに過ごしておりますよ。
623小野小町
海松布(みるめ)なき我が身を浦と知らねばやかれなで海人の足たゆく来る
そこが海藻の採れない浦だとわからない海人のように、お逢いするつもりのない私のところに、しきりに足を運んでくる方がありますよ。
649よみ人しらず
君が名もわが名もたてじ難波(なにわ)なる見つとも言ふな逢ひきとも言はじ
あなたの名も私の名も、噂に立てないようにするつもりです。私に逢ったことは誰にも言わないで。私も、あなたとこうなったことは、誰にも言いません。
666平貞文
白川の知らずとも言はじそこ清みながれて世々にすまむと思へば
あなたのことを秘密にしたりしませんよ。白川の水がいつまでも澄んでいるように、私の心も変わりません。ずっといっしょに暮らしましょう。
676伊勢
知るといへば枕だにせで寝しものを塵ならぬ名の空に立つらむ
枕は恋の秘密を知るというから、枕さえしないで寝たのに、どうして私の噂が、塵のように空に広がってしまったのかしら。
616番『古今集』の冒頭歌には、このように、熱っぽい恋の状態がまだまだ続くという歌が掲げられています。……恋が、いつまでも醒めやらぬ夢であってほしい。『古今集』の「恋」は楽観的で、恋について肯定的です。
623番。海人の足取りは、採集にたよる貧しさゆえに重いのですが、雅とはいえないその足取りにたとえて、本命ではない男からの恋心を突き放します。『古今集』「恋歌」の部では、採集生活の場といえども道具立ての一つに過ぎません。同集では、東歌に収録された相模歌(1094番「こよろぎの磯立ちならし磯菜つむめざしぬらすな沖にをれ波」)のような民謡に、採集生活者を含む情景が、おおらかに描かれています。
666番は、はっきりとしたプロポーズの歌です。
676番。「枕だにせで寝し」というかわし方が、絶妙です。ではどうして寝たのだろうと想像をかきたて、火に油を注いでいます。ただ二人の関係ばかりでなく、世間というものの生々しさまで描かれています。
このように、『古今集』の恋は現実的であり、いわば結婚がゴール。遊びは遊びとして情事をたのしむといった、楽観的なものでした。
●『新古今集』
『新古今集』「恋歌三」は、1149―1233番。八五首。
1149 儀同三司母
忘れじの行く末まではかたければけふをかぎりの命ともがな
先のことはわかりませんので、心変わりはしないと誓ってくださったきょうを限りに、いっそ死んでしまいたいのです。
1159伊勢
夢とても人にかたるな知るといへば手枕ならぬ枕だにせず
二人のことを、夢の中ですら人に語ってはいけませんよ。枕は恋の秘密を知るといいますから、あなたの腕枕でしか、私、眠らないわ。
1160和泉式部
枕だに知らねばいはじ見しままに君かたるなよ春の夜の夢
実際に深い仲になったのでなければ、そう噂にもなりますまい。見たままをしゃべってはダメですよ。春の夜の夢だったとお考えください。
1185 西行法師
面影の忘らるまじき別れかななごりを人の月にとどめて
月に名残惜しい気持ちをとどめたまま別れてしまって、あの人の面影が忘れられませんよ。
1200西行法師
人は来で風のけしきも更けぬるにあはれに雁の音づれてゆく
あの人は来ないで、風の気配にも夜が更けてしまったことを思い知らされる。空をゆく雁の羽ばたきだけが聴こえるようです。
1204式子内親王
君待つとねやへも入らぬ真木の戸にいたくな更けそ山の端の月
あなたを待ちくたびれて、まだ寝ないで戸口まで出て来てしまったら、真木の戸に月光が差していました。あんまりひどく待たせないで、山の端にかかる月よ。
1206藤原定家朝臣
帰るさのものとや人のながむらむ待つ夜ながらの有明の月
今ごろあなたはきっと、他の女の所から帰る途中で、後朝の月を見ているのでしょうね。私はあなたを待ち焦がれたまま、あなたと同じ月を見ているのよ。
1232 皇太后宮大夫俊成
よしさらばのちの世とだにたのめおけつらさにたへぬ身ともこそなれ
来世で結ばれるとおっしゃるなら、期待していましょう。生きている間はあなたと結ばれずに、さぞ苦しいだろうから。
1233藤原定家朝臣母
たのめおかむたださばかりを契りにてうき世の中の夢になしてよ
来世で結ばれると、お約束しておきましょう。つらい世の中に支えとなる夢を見ましょう。
1149番。生命は、いずれ滅びの定めにあるものですが、最高に愛されている今、いっそ死んでしまいたいと、生命の輝きをうたっています。その美が「妖艶」なのでしょう。
1159番は、『古今集』676番と同一作者。詞書に「しのびたる人とふたりふして」とあり、情事の歌であることがあからさまに示されています。同じ作者の歌で情事を詠んだ歌でも、『古今集』676番では恋をめぐる世間の生々しさに主題があり、『新古今集』1159番では二人だけの世界、恋そのものの燃焼が描かれています。後述する「恋歌五」1389番、定家の歌にもいえることですが、『新古今集』の肉体愛の世界は、生命を燃焼し尽くして、官能に徹する世界であらねばなりませんでした。世間の目に悩むのが『古今集』の世界であったとするならば、『新古今集』の愛の世界は、純粋です。
1160番。「春の夜の夢」という結句に美意識が添えられています。『古今集』の時代の作者、伊勢との歌風の違いがここにあります。
1185番。人目を忍んで、夜のあいだに名残を惜しみつつ別れています。空に残る月はまだ照り輝いていたのでしょう。それゆえ面影がいっそう忘れがたいのでしょう。出家者でありながら俗情にひきずられる弱さを、優美さとして言葉に表せたところが、西行の魅力でしょう。出家とは、生きながら社会的に死ぬことです。一度死んでしまったからには、もう死ねないのです。終わらせようにも、終わらせようのないこころ。それが余情でしょう。1200番。愛に絶望し、夜更けの静寂に包まれています。目を閉じれば、渡り鳥である雁が羽を休めることなく夜通し飛び続ける、そのしみじみとした姿が思われます。これが、社会的自死の果てに待ち受けていた境地でありましょう。
1204番。「真木」は、杉や檜。待ちくたびれて、真木の戸に遅く差してくる月光のさやけさに浄められても、恋人への思いがなお残り、待ちくたびれた自身のみじめな姿もまた、月光に照らし出されてしまいます。
1206番は、三角関係に苦しむ女の気持ちを描いています。後朝の月光は、時間が経つにつれ日輪にその淡い光をかき消されてしまうはかないもの、すなわち幽玄であり妖艶ですが、にんげんの情念は、かき消そうにも燃えつづけます。これが余情であり、うたわずにいられないこころがあるところに、有心の体が成立するのでしょう。
1232番と1233番は、一組の贈答歌です。俊成と定家母は、互いにこのように詠みながらも、実際には結ばれて定家が誕生し、御子左家の跡継ぎとなっています。実際には結ばれていながら、この時点では、なんらかの障害に即してか、来世でなければ結ばれることはできないとうたっています。このエンドアップは、「恋歌」の部の虚構性が、引き立つ仕掛けとなっています。
『古今集』から三百年。貫之が『古今集』仮名序の六歌仙評に注いだ要所は、「こころ」と「ことば」の釣り合いにありましたが、『新古今集』の時代においては、このようにして、先行作品をいかにして超えるか、いかにして新時代の美意識を添えるかが凝らされました。その際の視点が「余情妖艶」だったのです。
【恋歌四】
「恋歌四」は、互いにすっかりなれ親しんだ段階。恋のほとぼりの冷めてくる段階。
●『古今集』
『古今集』「恋歌四」は、677―746番。七十首。
681伊勢
夢にだに見ゆとはみえじあさなあさなわが面影に恥づる身なれば
夢の中まで、姿をお見せしたくはないですよ。恋やつれしている自分の姿が浅ましく思われ、朝ごとに、とても恥ずかしいのです。
684紀友則
春霞たなびく山の桜花見れども飽かぬきみにもあるかな
春霞のたなびく山の桜花のように、あなたに飽きることなど、これから先もありませんよ。
692よみ人しらず
月夜よし夜よしと人に告げやらば来てふに似たり待たずしもあらず
月がきれいです、などとお知らせしたら、来てくださいと言うようなものですね。待っていないというわけでもないのよ。
732よみ人しらず
堀江こぐ棚なし小舟(をぶね)こぎかへりおなじ人にや恋ひわたりなむ
堀江を漕いでいくちっぽけな舟が、また戻ってくるように、私もおなじ人に戻ってしまいそうです。
681番は、長続きしているがゆえに恋人に飽きられてしまう不安をうたい、684番、692番は安定した関係の日常をうたって、素敵なカップルという印象です。732番は復縁の歌で、大波にさらわれたりせずに凪の水に漂う小舟は、どことなくほのぼのとしています。『古今集』「恋四」の恋愛事情もまた、現代を生きる私たちにそのまま通じるリアリティがあり、いずれも人事に特化されています。
●『新古今集』
『新古今集』「恋歌四」は、1234―1335番。一〇二首。
1236読人しらず
恋しさに死ぬる命を思ひ出でて問ふ人あらばなしと答へよ
あなた恋しさに、私はすでに、死んでしまいました。もし誰かが私を思い出して問うなら、亡くなりましたと答えてください。
1239右大将道綱母
絶えぬるか影だに見えば問ふべきを形見の水は水草ゐにけり
あなたは、もう来ないのね。あなたの影でも見えればそう問うこともできるのに、あなたが鬢の髪を洗うのに最後に使った水には、もう水草が生えていますよ。
1242右大将道綱母
吹く風につけても問はむささがにの通ひし道は空に絶ゆとも
小さな蜘蛛の糸、私たちをつないでいたご縁の糸が空に途切れてしまっても、吹く風に乗せて、この恋心を伝えましょう。お別れしたくありません。
1297西行法師
うとくなる人になにとて恨むらむ知られず知らぬ折もありしに
離れていくひとを、だからといって恨むこともあるまいよ。私たちはもともと、互いに知りもしない赤の他人だったというのに。
1298西行法師
いまぞ知る思ひ出でよとちぎりしは忘れむとてのなさけなりけり
いまこそ、思い知りましたよ。あなたが可愛いことを言っていたのは、そのときにはもう、私と別れるつもりだったのだと。
1302寂蓮法師
うらみわび待たじいまはの身なれども思ひなれにし夕暮の空
うらみ果てて、いまはもう待たなくなってしまった身だが、あなたを思い出しながら見上げるのがいつものことになってしまった、夕暮れの空よ。
1329式子内親王
生きてよもあすまで人はつらからじこの夕暮を問はば問へかし
苦しくてあすまで生きていられそうにありません。この夕ぐれに、来られそうなら来てください。
1236番。『新古今集』の年代までに成立している『大和物語』(第104段)に、この歌への返しが書かれています。女は、1236番のような、死後の遺書かと思われる恋文を男性(少将滋幹)に送り届けましたが、男性からの返しは、こうでした。
からにだにわれきたりてへ露の身の消えばともにと契りおきてき
では、せめてその亡骸に、私が来たと伝えてください。死ぬときはともに死ぬと約束しておりましたので。
『大和物語』のこの段には和歌しかなく、ストーリーがわかりません。男が女のもとへ実際に駆けつけて、ハッピーエンドになったのでしょうか。しかし、実際には死んでいないのに、女は自分が死んだことにしているし、男は、実際には来ていないのに、その亡骸のもとに添い遂げに来たとしています。虚構の愛のうえに重ねた虚構の逢瀬、すべてが幻想の産物であり、現世における実体的な愛を、拒んでいるかのようです。
1239番。男が後朝に使った水を、「形見」として捨てずに取っておいたと女は言います。その汚れた水に水草が生えたというのですから、凄まじいものがあります。
1242番。蜘蛛の糸は、はかないけれども縁を結ぶものとして、『古今集』「恋歌五」でも詠まれていますが、叙景的ではありません。
今しはとわびにしものを蜘蛛(ささがに)の衣にかかりわれをたのむる
(『古今集』773よみ人しらず)
もう私たちはおしまいです……。悲しく思っているのに、小さな蜘蛛の糸が衣にかかって、私に期待させるのです。
これに対し、『新古今集』の1242番では、縁が終わってしまっても自分の恋心は残ると、高らかにうたい上げており、虚空にキラリと光って消える、蜘蛛の糸が見えるようです。情景描写としても優れており、「妖艶」という滅びの相は、実景を描いて引き立つようです。
1297番、1298番は、一見して理詰めにかきくどくようではありますが、情趣がないかといえば、むしろ正反対でしょう。どうすれば忘れられるのか。あきらめられるのか。整理をつけようと、このような思考をたどるのは、恋の終わりのもがき、苦しみそのままです。花も鳥も風も月も詠まれていないけれども、ここには人間の真実があります。有心のみを目がけた体とは、このような詠みぶりではないかと自分は思います。
1302番。「夕暮の空」のさまは、その一瞬のものであり、たちまちに黒一色の夜を迎えてしまいます。終わりゆく外界の持つ美が「妖艶」であるとすると、定家が「余情」と「妖艶」を並び立たせて記したことにも合点がいきます。残された者のこころと滅びゆく外界とは、一組のモチーフとなり得るからです。
1329番。幽玄、妖艶。その美の極みにあるものは、生命の尊厳でしょう。式子内親王の同母弟、以仁王は、源平の争乱において挙兵し、親王という身分にはあり得ない、惨たらしい亡くなり方をしました。貴族たちは、思ったことをそのまま口にできる時代を生きてはいませんでした。生きていること自体が苦しく、一日一日が命がけだった時代の「恋歌」は、恋に限らず、精神のあらゆる様相の受け皿であり、恋の歌としてなら、その激情を託せたのではないでしょうか。
【恋歌五】
「恋歌五」は、恋が終わりゆく段階。
●『古今集』
『古今集』「恋歌五」は、747―828番。八二首。
761よみ人しらず
暁の鴫の羽掻き百羽掻き君が来ぬ夜はわれぞかずかく
夜明けに鴫が羽をしきりにバタバタさせるように、あなたが来ない夜は私、悶えてバタバタもがいています。
789兵衛
死出の山ふもとを見てぞかへりにしつらき人よりまづ越えじとて
いったん死にかけて戻ってきました。私につらくあたるようになった人より、先に死んでたまるものですか。
791伊勢
冬枯れの野辺とわが身をおもひせば燃えても春を待たましものを
冬枯れの野であれば、また来る春が待たれるのでしょうに。私にはもう、未練などないのよ。
808因幡
あひ見ぬも憂きもわが身の唐衣(からころも)思ひしらずも解くる紐かな
逢えないこともつらいことも、私に原因のあったことでしょうね。それなのに、あなたの心がまだ私にあるかのように、下紐がいつのまにか解けてくるのよ。
823平貞文
秋風の吹き裏がへす葛の葉のうらみてもなほ恨めしきかな
秋風が強く吹いて、絡まり合った葛の葉を裏返しています。私のこころも、あなたを恨んで恨んで、どうしようもありません。
828よみ人しらず
流れては妹背の山の中に落つる吉野の川のよしや世の中
男と女は、川に落っこちるように恋に落ちてしまうものですよ。まあ、いいではありませんか。そういうものなのですよ。皆さん、いいってことにしましょう。
761番は、ユーモラスで、私はこの歌を好きです。じたばたしている自分自身を、いっそ喜劇にしてしまう、こうした要素が、『新古今集』「恋歌」の部には、ほとんど見当たりません。笑ってしまうのは簡単ですが、作者は難しいことに成功しています。
789番、791番、823番の恋の恨みは強烈です。強烈ですが、直情ぶりに、恨みになってしまうほどに相手を愛していたのだなあと、思わされてしまいます。
828番は、『古今集』「恋歌」の部、最後の歌です。このめでたさ、晴れやかさが、『古今集』なのです。『新古今集』の目線からいえば、現世現実を肯定し、取り残される者の情など、排除されています。
●『新古今集』
『新古今集』「恋歌五」は、1336―1434番。九九首。
1336藤原定家朝臣
白妙の袖のわかれに露おちて身にしむ色の秋風ぞ吹く
あなたと私の、真っ白な袖に別れの涙が落ちて、身にしみる色の秋風が吹いています。
1344和泉式部
いまこむといふ言の葉も枯れゆくによなよな露のなににおくらむ
今すぐにお逢いしましょうという言の葉が枯れてゆくのに、夜毎の露がどこに置かれるというのでしょう。
1368読人しらず
君があたり見つつををらむ生駒山雲な隠しそ雨は降るとも
あなたのお住まいのあたりを見ていたいのです。雲よ、生駒山を隠さないで。たとえ雨が降ろうとも。
1389藤原定家朝臣
かきやりしその黒髪のすぢごとにうちふすほどは面影ぞ立つ
この手でかきやった黒髪の、一筋一筋がくっきりと見えるほどに思い出される。一人になって、うち臥していると。
1433読人しらず
白波は立ちさわぐともこりずまの浦のみるめは刈らむとぞ思ふ
白波が立って邪魔ばかり入るけれども、私は決して懲りたりしないよ。人目など海草のように刈り取って、この恋を遂げよう。
1434読人しらず
さしてゆくかたは湊の波高みうらみてかへる海人の釣舟
湊を目指して進もうとするのに、この恋は邪魔が入ってあなたのところへたどり着けない。さながら私は、恨みながらに沖へと戻る、漁師の釣り舟よ。
1336番。「白妙の」は枕詞ですが、恋人どうしの恋心の、純真無垢を表しているでしょう。「身にしむ」は、それが実感であることをアピールしています。風に色はありませんが、「白」と対比される別れの悲しみ、煩悶の「色」でしょう。涙と露に濡れて吹かれる秋の風は、芯まで冷たく感じられます。この情趣は、自然物の実景描写なしに、ありえません。むしろ、自然描写が中心の歌です。
1344番。口説くのも勢いなら、心変わりも勢い。そういう男に、いちいち泣いたりしないと言っているのです。夏には盛んな勢いで生い茂った葉も、露に当たる時節になると、その葉をみるみる枯らしていきます。その様変わりは、だんだん勢いをなくしていくというよりは、枯れていくことにも勢いがあるのです。式子内親王の、いちずな思いを捧げる1034番(「恋歌一」)、1204番(「恋歌三」)、1329番(「恋歌四」)などとはまったく異質の強さがここにはあり、自然の草木の姿をよく重ねて、印象深い歌です。
1368番。『伊勢物語』23段「筒井筒」にある歌です。二股をかけていた男が、もとの女とよりを戻してしまい、新しい女が呼び返そうとして、このように詠みました。大和地方の自然地形は、生活のなかに溶け込んでいることが特徴ですが、街方から大和のほうに目をやると、なだらかに裾野を広げる生駒山に雨雲の立ちこめてくるさまは優美で、幻想的ですらあります。
1389番。『後拾遺集』恋三に入集した和泉式部の「黒髪の乱れもしらずうち臥せばまづかきやりし人ぞ恋しき」の、本歌取りです。この歌の要所は、五感のなかでも触覚、ついで嗅覚の際立つ点にあります。物狂おしい性愛の歌であり、恋が終わってしまっても、性愛の甘美がいかに忘れがたいものであるかを訴えています。
1433番「こりずまの浦」とは、須磨の浦。「こりずまに」は「懲りもしないで」の意味。「恋歌」の部のしめ括りは確かに、『源氏物語』を踏まえていますが、さらに最後に置かれた1434番の、湊に漕ぎつけることができないで沖へと戻る舟のさまに、水上生活を余儀なくされた平氏の軍が、想起されてなりません。
さて、ここまでに、『古今集』と『新古今集』の、「恋歌」の部を比較してきました。『古今集』の「恋歌」には、叙景歌としても味わえるものはあまり見受けられませんでした。『古今集』「恋歌」の部では、恋そのものが主題として特化され、叙景歌とは区別されたところに、『古今集』「恋歌」の部は構成されたのでしょう。
つきましては、『古今集』と『新古今集』の「恋歌」について、次のようにまとめることができると思われます。
『古今集』において「恋歌」では、現実の恋愛を対象としています。内容は現実の恋愛に即して、恋という人事を描くことに集中しています。その反対に、『新古今集』では、精神の世界に重きが置かれます。『古今集』の世界をいかに超えるか、和歌の美とはどうあるべきかという理想の追求、すなわち「余情妖艶」の追求が、もう一つの主題でした。恋のこころを描くとともに、『新古今集』では、あくまでも美を描くという主題を重んじたのです。
「恋歌」の部において、「余情妖艶」がいかにして追求されたか。それは多くの場合、実景、叙景を充実させるという手法によりました。
すると、このようにも考えることができます。
『新古今集』「恋歌」の部には、叙景を通して、そのほかの主題もまた、見られるのではないでしょうか。
『新古今集』の時代は、源平の争乱が終結して、間もない時代です。次には、こうした社会情勢により、叙景の対象となる環境の見え方が、『古今集』の時代からどう変化していたかを示したいと思います。
本論「『新古今和歌集』――恋の正体」では、恋の歌に的を絞って、論じたいと思います。
「恋歌」の部に絞り込む理由については、和歌における「恋」が、現代にも通じる普遍の感情であることが、第一の理由です。そして、『古今和歌集』『新古今和歌集』ともに、恋愛の進行順に分類しており、主題と構成が明確で、両者を比較しやすいことが第二の理由です。第三の理由としては、『新古今和歌集』の中心的編者、藤原定家が『毎月抄』において、有心こそは和歌に求められる本質であり、恋や述懐は有心の体でなければならないと述べており、恋の歌を対象とすることで和歌の本質をとらえられると考えたからです。この旨、第五章に詳細がございます。
歌数では、『古今和歌集』は全一一一一首中、「恋歌」の部は469―828番、三六〇首。『古今和歌集』全体の32%強が恋の歌ということになります。『新古今和歌集』では全一九七九首中、恋歌の部は990―1434番、四四五首。『新古今集』全体の22%強を占めます。『新古今和歌集』におけるその他の部立は、『古今和歌集』よりも細分化され、膨張したと考えられます。
作者名の表記はいずれの集でも統一されておらず、ここでも統一しておりません。同シリーズのそれぞれの集で、その和歌が掲げられると同時に併記された作者名を、連番の後に続けてそのまま掲げました。
【恋歌一】
恋愛の初期段階。自分のなかに恋心が芽生えたばかりの段階。
●『古今集』
『古今集』「恋歌一」は469―551番、八三首。
469よみ人しらず
時鳥(ほととぎす)鳴くや五月(さつき)の菖蒲草(あやめぐさ)あやめも知らぬ恋もするかな
時鳥が鳴いていますね。菖蒲草の咲くこの五月に、分別のない恋をしてしまいました。
471紀貫之
吉野川岩波たかくゆく水のはやくぞ人を思ひそめてし
吉野川の上流の水が、走り出て岩にぶつかり高く跳ね上がります。それほど早くから、私はあなたに恋をしていました。
542よみ人しらず
春立てば消ゆる氷の残りなく君が心はわれに解けなむ
春になったので、氷も解けてきましたよ。あなたの心も、私とすっかり溶け合うことでしょう。
469番の時鳥は、昼夜を分かたず訴えるように鳴く声が人を惹きつけます。世界の中心に恋があり、恋の中心に自分がいるという高揚感を歌い上げて冒頭を飾っています。
471番、542番は、清涼感、恋愛初期の期待感のこめられた歌です。『古今集』の恋の始まりは、さわやかで、期待と陶酔に満ちあふれたポジティブなものでした。
●『新古今集』
『新古今集』「恋歌一」は990―1080番で九一首。
990読人しらず
よそにのみ見てややみなむ葛城や高間の山のみねのしら雲
葛城山の峰にかかる白い雲のようなあなたを、遠く見ることしかできないで、この恋は、終わっていくのでしょうね。
991読人しらず
音にのみありと聞きこしみ吉野の滝はけふこそ袖におちけれ
噂に聞いていた吉野の滝のような音を立てて、きょう、私の袖には失恋の涙が激しく落ちているのです。
1001中納言朝忠
人づてに知らせてしがな隠れ沼(ぬ)の水(み)ごもりにのみ恋ひやわたらむ
誰かこの恋心をあの人に知らせてくれないかなあ。隠れ沼のこもり水のように、あなたを思っています。
1012和泉式部
けふもまたかくや伊吹のさしも草さらばわれのみ燃えやわたらむ
きょうもまた、つれないことを言うあなたです。私の恋心だけが、燃え盛っているのね。
1023和泉式部
跡をだに草のはつかに見てしがな結ぶばかりのほどならずとも
せめてお手紙で、あなたの書いた文字を見るだけでもさせてくださいな。結ばれない身分とわかっているけれども。
1030前大僧正慈円
わが恋は松をしぐれの染めかねて真葛が原に風さわぐなり
しぐれが松の木を染めかねるように叶わぬ思い。真葛が原の葛の葉が風に裏返るように、ざわざわと、恨む心でいっぱいです。
1032寂蓮法師
思ひあれば袖に螢をつつみてもいはばやものを問ふ人はなし
袖に螢を包んででもこの思いを伝えたいのに、あなたは、私のことを気にかけてくださいませんね。
1034式子内親王
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする
いっそ死んでしまいたい。このまま生きていたら、この恋心を抑えることができなくなってしまいそうだから。
1067紀貫之
あしびきの山下たぎつ岩波の心くだけて人ぞ恋しき
山の麓を岩にぶつかりながらたぎり流れる水のように、私の恋心は砕け散りながら、それでもあなたを思っています。
1080在原業平朝臣
みるめ刈るかたやいづくぞ竿さしてわれにをしへよ海人(あま)の釣舟
海藻を採集できる干潟はどこなのか、竿で指し示しておくれ、釣り舟にいる海人よ。人の見る目を気にしないであの人と逢える場所はどこかしら。
990番。自分はどうせ相手にされないと、初めからあきらめた歌が冒頭歌です。
991番は、恋心が芽生えるや、同時に絶望にも陥ってしまいます。冒頭をこのようにすることで、『古今集』との差別化が示されているといってよいでしょう。
1001番は暗澹としており、鬱屈とした心情が描かれています。1012番は、「草」「跡」といったはかないものが望みの象徴となり、1032番の「思ひ」は「火」でもあり、「螢」のはかない生命の光と結びつきます。
つまり、『新古今集』の「恋歌一」は、『古今集』の「あやめも知らぬ」恋、身の程を忘れる恋とは真逆に、身の程を思い知らされ、鬱屈し、くすぶり悶えるという趣向なのです。
1030番。葛の葉が風に裏返るという表現は、「恨み」を意味しています。葛はツル科の植物ですので、絡まり合って生長します。葉裏が白いので、強い風が吹くと目につきます。
『古今集』では、絡まり合った葛の葉が裏返るまでの恨みにいたるのは「恋歌五」の段階ですが、『新古今集』では「恋歌一」に置いてしまうのです。「恋歌一」の段階で、これらの歌のような、暗く濃厚な情念を放ってしまって、『新古今集』の世界の「恋歌五」では、どんなことになってしまうのでしょう。このような惹きつけ方は、『源氏物語』が、その冒頭から暗澹としていることにつながっている気がします。
1034番は、『新古今集』で最も著名な歌。この切迫感が「恋歌一」に置かれ、1067番は、貫之自身が『古今集』に入れなかった激情発露の歌を、『新古今集』が発掘しました。
1080番は、叙景歌としても秀でており、舟の上で竿を操る海人の姿が見えるようです。「竿」という「物」への着眼が生きており、1080番については、第四章で叙景歌として鑑賞を深めていきます。
【恋歌二】
恋について、何らかの進展を望むようになった段階。相手の反応を見る段階。
●『古今集』
『古今集』「恋歌二」は、552―615番、六四首。
552小野小町
おもひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを
あなたを思いながら寝たので、夢のなかでお逢いできました。夢だとわかっていたら、覚めたりしなかったのに。
557小野小町
おろかなる涙ぞ袖に玉はなす我は堰きあへずたぎつ瀬なれば
ぼろぼろと玉のように袖にこぼれてくるものがあるけれど、涙なんかじゃないわ、あんなやつ、好きなもんか。だけど、水流のたぎる川瀬のようになってしまって、せき止めようがないのです。
564紀友則
わが宿の菊の垣根におく霜の消えかへりてぞ恋しかりける
菊の垣根に降りていた霜が、日が昇るにつれて消えてしまいました。私もあなたに逢いたくて、消え入りそうです。
575素性法師
はかなくて夢にも人を見つる夜は朝の床ぞ起き憂かりける
はかない夢のなかでさえ、あなたに逢ってしまった夜は、朝の床から起き出したくないのです。
592忠岑
たぎつ瀬に根ざしとどめぬ浮草のうきたる恋も我はするかな
たぎる川瀬の根のない浮草のように、浮気な恋をつい、してしまうのです。
597紀貫之
わが恋は知らぬ山路にあらなくにまどふ心ぞわびしかりける
恋をするのが初めてというわけではないのに、恋をするたびに知らない山道で迷うような心地がするのは、わびしいことです。
610春道列樹
梓弓引けばもとすゑわがかたに夜こそまされ恋の心は
梓弓を引けば、その弓身がぎゅっと絞られる、恋の心はやはり、夜にお逢いできてこそまさるものです。
『古今集』では、肉体の交わりの世界が意識されるようになってきます。552番、575番のように夢にも逢うのは、一度めの夜があったからこそでしょう。564番は、朝帰りした日中、またすぐに逢いたくなってしまうという歌。そして、592番や610番のように、男性の側から、情事を肯定的にうたい上げている作品もあります。597番は、いったん理性的になろうとしていますが、山道についにわけ入ったのでなければ、迷うこともないのです。557番は、相手をよく知らずに身を任せて、後悔するような状況かと思います。現代を生きる私たちにとり、非常に身近に感じられる世界です。
●『新古今集』
『新古今集』「恋歌二」は、1081―1148番、六八首。
1081 皇太后宮大夫俊成女
下燃えに思ひ消えなむ煙だに跡なき雲のはてぞかなしき
片思いのままで、死んでしまうのでしょうね。そんな私の亡骸を焼くその煙さえ、雲の彼方にはかなく消えてしまうのでしょうね。
1082藤原定家朝臣
なびかじな海人の藻塩火たきそめて煙は空にくゆりわぶとも
海人が砂浜で塩焼きを始めたけれど、煙は立ち昇らず、くすぶったまま。同じように、恋心を燃やし始めた私に、あなたがなびくことはないのでしょう。
1099西行法師
はるかなる岩のはざまにひとりゐて人目思はで物思はばや
俗世とはるかに隔たった岩の狭間で一人座って、誰の目もはばからずに、あなたを思っていたいなあ。
1101摂政太政大臣
草深き夏野分けゆくさを鹿のねをこそ立てね露ぞこぼるる
夏草の猛々しく伸びる野を、若いオスの鹿が、まだ恋鳴きこそしないけれど草の露をふりこぼしてゆく。私の恋の涙も、声を立てずにこぼれているのですよ。
1107皇太后宮大夫俊成
思ひあまりそなたの空をながむれば霞を分けて春雨ぞ降る
あなたを思うあまり、あなたのいる方角の空を眺めていると、霞を分けて細やかな春雨が降っています。
1117藤原定家朝臣
須磨の海人の袖に吹きこす潮風のなるとはすれど手にもたまらず
須磨の海人の袖にふきつける潮風は、身になじんでも手にたまることがありません。その風のように、あなたの心もとらえどころがありません。
1147 西行法師
なにとなくさすがにをしき命かなありへば人や思ひしるとて
いっそ死のうかと思ってはみるものの、やはり、命は惜しいものだなあ。生きていれば、あなたに、いつかはこの思いが通じるかもしれないし。
1081番、1082番、1117番と、「煙」や「風」といった、物質としてそのものをとらえられないものが、『新古今集』「恋歌二」では強調されています。現実の肉体愛を謳歌するよりも、肉体の滅びを想起させる世界を描いています。
「煙」からの連想で、1082-1084番と、海辺の叙景がなされます。中盤の1115-1117番にも続けて海辺の叙景歌が入り、これらの叙景歌が、有意に強い印象を与えます。
1099番は、現実の世界を離れて、ひたすら恋慕の情に耽溺したいとする願望の歌。1147番は、やっぱり生命が大事という歌。出家者として矛盾しているようでも、これが西行の魅力でしょう。肉体とこころを行ったり来たりしているのが、私たちの、真実の姿です。このいやらしい俗世から離れたいと思うのもこころであり、現実の世界に入れ物を求めるのも、こころです。こころの本質をとらえています。
1101番の作者は藤原良経、『新古今集』の序文を書いた人です。1101番は客観の叙景歌としても卓抜しており、1101番、1107番はともに、恋の情感と季節の情感と融け合って、『新古今集』「恋歌二」のステージらしい美しい作品でしょう。
このように、『古今集』の「恋二」は性愛の世界が見えますが、『新古今集』の「恋二」は、身体の滅びを前提として、精神の世界を描いています。自然美とも混じり合い、観念の深みを描くことを可能にしている世界であるといえるでしょう。
【恋歌三】
「恋歌三」は、恋がある程度進行し、親密になってくる段階。それぞれの恋の性格が、はっきりしてくる段階。
●『古今集』
『古今集』「恋歌三」は616―676番。六一首。
616業平朝臣
起きもせず寝もせで夜を明かしては春のものとてながめくらしつ
起きもしないし寝もしないで夜を明かして、春の長雨に降りこめられて、あなたを思うばかりに過ごしておりますよ。
623小野小町
海松布(みるめ)なき我が身を浦と知らねばやかれなで海人の足たゆく来る
そこが海藻の採れない浦だとわからない海人のように、お逢いするつもりのない私のところに、しきりに足を運んでくる方がありますよ。
649よみ人しらず
君が名もわが名もたてじ難波(なにわ)なる見つとも言ふな逢ひきとも言はじ
あなたの名も私の名も、噂に立てないようにするつもりです。私に逢ったことは誰にも言わないで。私も、あなたとこうなったことは、誰にも言いません。
666平貞文
白川の知らずとも言はじそこ清みながれて世々にすまむと思へば
あなたのことを秘密にしたりしませんよ。白川の水がいつまでも澄んでいるように、私の心も変わりません。ずっといっしょに暮らしましょう。
676伊勢
知るといへば枕だにせで寝しものを塵ならぬ名の空に立つらむ
枕は恋の秘密を知るというから、枕さえしないで寝たのに、どうして私の噂が、塵のように空に広がってしまったのかしら。
616番『古今集』の冒頭歌には、このように、熱っぽい恋の状態がまだまだ続くという歌が掲げられています。……恋が、いつまでも醒めやらぬ夢であってほしい。『古今集』の「恋」は楽観的で、恋について肯定的です。
623番。海人の足取りは、採集にたよる貧しさゆえに重いのですが、雅とはいえないその足取りにたとえて、本命ではない男からの恋心を突き放します。『古今集』「恋歌」の部では、採集生活の場といえども道具立ての一つに過ぎません。同集では、東歌に収録された相模歌(1094番「こよろぎの磯立ちならし磯菜つむめざしぬらすな沖にをれ波」)のような民謡に、採集生活者を含む情景が、おおらかに描かれています。
666番は、はっきりとしたプロポーズの歌です。
676番。「枕だにせで寝し」というかわし方が、絶妙です。ではどうして寝たのだろうと想像をかきたて、火に油を注いでいます。ただ二人の関係ばかりでなく、世間というものの生々しさまで描かれています。
このように、『古今集』の恋は現実的であり、いわば結婚がゴール。遊びは遊びとして情事をたのしむといった、楽観的なものでした。
●『新古今集』
『新古今集』「恋歌三」は、1149―1233番。八五首。
1149 儀同三司母
忘れじの行く末まではかたければけふをかぎりの命ともがな
先のことはわかりませんので、心変わりはしないと誓ってくださったきょうを限りに、いっそ死んでしまいたいのです。
1159伊勢
夢とても人にかたるな知るといへば手枕ならぬ枕だにせず
二人のことを、夢の中ですら人に語ってはいけませんよ。枕は恋の秘密を知るといいますから、あなたの腕枕でしか、私、眠らないわ。
1160和泉式部
枕だに知らねばいはじ見しままに君かたるなよ春の夜の夢
実際に深い仲になったのでなければ、そう噂にもなりますまい。見たままをしゃべってはダメですよ。春の夜の夢だったとお考えください。
1185 西行法師
面影の忘らるまじき別れかななごりを人の月にとどめて
月に名残惜しい気持ちをとどめたまま別れてしまって、あの人の面影が忘れられませんよ。
1200西行法師
人は来で風のけしきも更けぬるにあはれに雁の音づれてゆく
あの人は来ないで、風の気配にも夜が更けてしまったことを思い知らされる。空をゆく雁の羽ばたきだけが聴こえるようです。
1204式子内親王
君待つとねやへも入らぬ真木の戸にいたくな更けそ山の端の月
あなたを待ちくたびれて、まだ寝ないで戸口まで出て来てしまったら、真木の戸に月光が差していました。あんまりひどく待たせないで、山の端にかかる月よ。
1206藤原定家朝臣
帰るさのものとや人のながむらむ待つ夜ながらの有明の月
今ごろあなたはきっと、他の女の所から帰る途中で、後朝の月を見ているのでしょうね。私はあなたを待ち焦がれたまま、あなたと同じ月を見ているのよ。
1232 皇太后宮大夫俊成
よしさらばのちの世とだにたのめおけつらさにたへぬ身ともこそなれ
来世で結ばれるとおっしゃるなら、期待していましょう。生きている間はあなたと結ばれずに、さぞ苦しいだろうから。
1233藤原定家朝臣母
たのめおかむたださばかりを契りにてうき世の中の夢になしてよ
来世で結ばれると、お約束しておきましょう。つらい世の中に支えとなる夢を見ましょう。
1149番。生命は、いずれ滅びの定めにあるものですが、最高に愛されている今、いっそ死んでしまいたいと、生命の輝きをうたっています。その美が「妖艶」なのでしょう。
1159番は、『古今集』676番と同一作者。詞書に「しのびたる人とふたりふして」とあり、情事の歌であることがあからさまに示されています。同じ作者の歌で情事を詠んだ歌でも、『古今集』676番では恋をめぐる世間の生々しさに主題があり、『新古今集』1159番では二人だけの世界、恋そのものの燃焼が描かれています。後述する「恋歌五」1389番、定家の歌にもいえることですが、『新古今集』の肉体愛の世界は、生命を燃焼し尽くして、官能に徹する世界であらねばなりませんでした。世間の目に悩むのが『古今集』の世界であったとするならば、『新古今集』の愛の世界は、純粋です。
1160番。「春の夜の夢」という結句に美意識が添えられています。『古今集』の時代の作者、伊勢との歌風の違いがここにあります。
1185番。人目を忍んで、夜のあいだに名残を惜しみつつ別れています。空に残る月はまだ照り輝いていたのでしょう。それゆえ面影がいっそう忘れがたいのでしょう。出家者でありながら俗情にひきずられる弱さを、優美さとして言葉に表せたところが、西行の魅力でしょう。出家とは、生きながら社会的に死ぬことです。一度死んでしまったからには、もう死ねないのです。終わらせようにも、終わらせようのないこころ。それが余情でしょう。1200番。愛に絶望し、夜更けの静寂に包まれています。目を閉じれば、渡り鳥である雁が羽を休めることなく夜通し飛び続ける、そのしみじみとした姿が思われます。これが、社会的自死の果てに待ち受けていた境地でありましょう。
1204番。「真木」は、杉や檜。待ちくたびれて、真木の戸に遅く差してくる月光のさやけさに浄められても、恋人への思いがなお残り、待ちくたびれた自身のみじめな姿もまた、月光に照らし出されてしまいます。
1206番は、三角関係に苦しむ女の気持ちを描いています。後朝の月光は、時間が経つにつれ日輪にその淡い光をかき消されてしまうはかないもの、すなわち幽玄であり妖艶ですが、にんげんの情念は、かき消そうにも燃えつづけます。これが余情であり、うたわずにいられないこころがあるところに、有心の体が成立するのでしょう。
1232番と1233番は、一組の贈答歌です。俊成と定家母は、互いにこのように詠みながらも、実際には結ばれて定家が誕生し、御子左家の跡継ぎとなっています。実際には結ばれていながら、この時点では、なんらかの障害に即してか、来世でなければ結ばれることはできないとうたっています。このエンドアップは、「恋歌」の部の虚構性が、引き立つ仕掛けとなっています。
『古今集』から三百年。貫之が『古今集』仮名序の六歌仙評に注いだ要所は、「こころ」と「ことば」の釣り合いにありましたが、『新古今集』の時代においては、このようにして、先行作品をいかにして超えるか、いかにして新時代の美意識を添えるかが凝らされました。その際の視点が「余情妖艶」だったのです。
【恋歌四】
「恋歌四」は、互いにすっかりなれ親しんだ段階。恋のほとぼりの冷めてくる段階。
●『古今集』
『古今集』「恋歌四」は、677―746番。七十首。
681伊勢
夢にだに見ゆとはみえじあさなあさなわが面影に恥づる身なれば
夢の中まで、姿をお見せしたくはないですよ。恋やつれしている自分の姿が浅ましく思われ、朝ごとに、とても恥ずかしいのです。
684紀友則
春霞たなびく山の桜花見れども飽かぬきみにもあるかな
春霞のたなびく山の桜花のように、あなたに飽きることなど、これから先もありませんよ。
692よみ人しらず
月夜よし夜よしと人に告げやらば来てふに似たり待たずしもあらず
月がきれいです、などとお知らせしたら、来てくださいと言うようなものですね。待っていないというわけでもないのよ。
732よみ人しらず
堀江こぐ棚なし小舟(をぶね)こぎかへりおなじ人にや恋ひわたりなむ
堀江を漕いでいくちっぽけな舟が、また戻ってくるように、私もおなじ人に戻ってしまいそうです。
681番は、長続きしているがゆえに恋人に飽きられてしまう不安をうたい、684番、692番は安定した関係の日常をうたって、素敵なカップルという印象です。732番は復縁の歌で、大波にさらわれたりせずに凪の水に漂う小舟は、どことなくほのぼのとしています。『古今集』「恋四」の恋愛事情もまた、現代を生きる私たちにそのまま通じるリアリティがあり、いずれも人事に特化されています。
●『新古今集』
『新古今集』「恋歌四」は、1234―1335番。一〇二首。
1236読人しらず
恋しさに死ぬる命を思ひ出でて問ふ人あらばなしと答へよ
あなた恋しさに、私はすでに、死んでしまいました。もし誰かが私を思い出して問うなら、亡くなりましたと答えてください。
1239右大将道綱母
絶えぬるか影だに見えば問ふべきを形見の水は水草ゐにけり
あなたは、もう来ないのね。あなたの影でも見えればそう問うこともできるのに、あなたが鬢の髪を洗うのに最後に使った水には、もう水草が生えていますよ。
1242右大将道綱母
吹く風につけても問はむささがにの通ひし道は空に絶ゆとも
小さな蜘蛛の糸、私たちをつないでいたご縁の糸が空に途切れてしまっても、吹く風に乗せて、この恋心を伝えましょう。お別れしたくありません。
1297西行法師
うとくなる人になにとて恨むらむ知られず知らぬ折もありしに
離れていくひとを、だからといって恨むこともあるまいよ。私たちはもともと、互いに知りもしない赤の他人だったというのに。
1298西行法師
いまぞ知る思ひ出でよとちぎりしは忘れむとてのなさけなりけり
いまこそ、思い知りましたよ。あなたが可愛いことを言っていたのは、そのときにはもう、私と別れるつもりだったのだと。
1302寂蓮法師
うらみわび待たじいまはの身なれども思ひなれにし夕暮の空
うらみ果てて、いまはもう待たなくなってしまった身だが、あなたを思い出しながら見上げるのがいつものことになってしまった、夕暮れの空よ。
1329式子内親王
生きてよもあすまで人はつらからじこの夕暮を問はば問へかし
苦しくてあすまで生きていられそうにありません。この夕ぐれに、来られそうなら来てください。
1236番。『新古今集』の年代までに成立している『大和物語』(第104段)に、この歌への返しが書かれています。女は、1236番のような、死後の遺書かと思われる恋文を男性(少将滋幹)に送り届けましたが、男性からの返しは、こうでした。
からにだにわれきたりてへ露の身の消えばともにと契りおきてき
では、せめてその亡骸に、私が来たと伝えてください。死ぬときはともに死ぬと約束しておりましたので。
『大和物語』のこの段には和歌しかなく、ストーリーがわかりません。男が女のもとへ実際に駆けつけて、ハッピーエンドになったのでしょうか。しかし、実際には死んでいないのに、女は自分が死んだことにしているし、男は、実際には来ていないのに、その亡骸のもとに添い遂げに来たとしています。虚構の愛のうえに重ねた虚構の逢瀬、すべてが幻想の産物であり、現世における実体的な愛を、拒んでいるかのようです。
1239番。男が後朝に使った水を、「形見」として捨てずに取っておいたと女は言います。その汚れた水に水草が生えたというのですから、凄まじいものがあります。
1242番。蜘蛛の糸は、はかないけれども縁を結ぶものとして、『古今集』「恋歌五」でも詠まれていますが、叙景的ではありません。
今しはとわびにしものを蜘蛛(ささがに)の衣にかかりわれをたのむる
(『古今集』773よみ人しらず)
もう私たちはおしまいです……。悲しく思っているのに、小さな蜘蛛の糸が衣にかかって、私に期待させるのです。
これに対し、『新古今集』の1242番では、縁が終わってしまっても自分の恋心は残ると、高らかにうたい上げており、虚空にキラリと光って消える、蜘蛛の糸が見えるようです。情景描写としても優れており、「妖艶」という滅びの相は、実景を描いて引き立つようです。
1297番、1298番は、一見して理詰めにかきくどくようではありますが、情趣がないかといえば、むしろ正反対でしょう。どうすれば忘れられるのか。あきらめられるのか。整理をつけようと、このような思考をたどるのは、恋の終わりのもがき、苦しみそのままです。花も鳥も風も月も詠まれていないけれども、ここには人間の真実があります。有心のみを目がけた体とは、このような詠みぶりではないかと自分は思います。
1302番。「夕暮の空」のさまは、その一瞬のものであり、たちまちに黒一色の夜を迎えてしまいます。終わりゆく外界の持つ美が「妖艶」であるとすると、定家が「余情」と「妖艶」を並び立たせて記したことにも合点がいきます。残された者のこころと滅びゆく外界とは、一組のモチーフとなり得るからです。
1329番。幽玄、妖艶。その美の極みにあるものは、生命の尊厳でしょう。式子内親王の同母弟、以仁王は、源平の争乱において挙兵し、親王という身分にはあり得ない、惨たらしい亡くなり方をしました。貴族たちは、思ったことをそのまま口にできる時代を生きてはいませんでした。生きていること自体が苦しく、一日一日が命がけだった時代の「恋歌」は、恋に限らず、精神のあらゆる様相の受け皿であり、恋の歌としてなら、その激情を託せたのではないでしょうか。
【恋歌五】
「恋歌五」は、恋が終わりゆく段階。
●『古今集』
『古今集』「恋歌五」は、747―828番。八二首。
761よみ人しらず
暁の鴫の羽掻き百羽掻き君が来ぬ夜はわれぞかずかく
夜明けに鴫が羽をしきりにバタバタさせるように、あなたが来ない夜は私、悶えてバタバタもがいています。
789兵衛
死出の山ふもとを見てぞかへりにしつらき人よりまづ越えじとて
いったん死にかけて戻ってきました。私につらくあたるようになった人より、先に死んでたまるものですか。
791伊勢
冬枯れの野辺とわが身をおもひせば燃えても春を待たましものを
冬枯れの野であれば、また来る春が待たれるのでしょうに。私にはもう、未練などないのよ。
808因幡
あひ見ぬも憂きもわが身の唐衣(からころも)思ひしらずも解くる紐かな
逢えないこともつらいことも、私に原因のあったことでしょうね。それなのに、あなたの心がまだ私にあるかのように、下紐がいつのまにか解けてくるのよ。
823平貞文
秋風の吹き裏がへす葛の葉のうらみてもなほ恨めしきかな
秋風が強く吹いて、絡まり合った葛の葉を裏返しています。私のこころも、あなたを恨んで恨んで、どうしようもありません。
828よみ人しらず
流れては妹背の山の中に落つる吉野の川のよしや世の中
男と女は、川に落っこちるように恋に落ちてしまうものですよ。まあ、いいではありませんか。そういうものなのですよ。皆さん、いいってことにしましょう。
761番は、ユーモラスで、私はこの歌を好きです。じたばたしている自分自身を、いっそ喜劇にしてしまう、こうした要素が、『新古今集』「恋歌」の部には、ほとんど見当たりません。笑ってしまうのは簡単ですが、作者は難しいことに成功しています。
789番、791番、823番の恋の恨みは強烈です。強烈ですが、直情ぶりに、恨みになってしまうほどに相手を愛していたのだなあと、思わされてしまいます。
828番は、『古今集』「恋歌」の部、最後の歌です。このめでたさ、晴れやかさが、『古今集』なのです。『新古今集』の目線からいえば、現世現実を肯定し、取り残される者の情など、排除されています。
●『新古今集』
『新古今集』「恋歌五」は、1336―1434番。九九首。
1336藤原定家朝臣
白妙の袖のわかれに露おちて身にしむ色の秋風ぞ吹く
あなたと私の、真っ白な袖に別れの涙が落ちて、身にしみる色の秋風が吹いています。
1344和泉式部
いまこむといふ言の葉も枯れゆくによなよな露のなににおくらむ
今すぐにお逢いしましょうという言の葉が枯れてゆくのに、夜毎の露がどこに置かれるというのでしょう。
1368読人しらず
君があたり見つつををらむ生駒山雲な隠しそ雨は降るとも
あなたのお住まいのあたりを見ていたいのです。雲よ、生駒山を隠さないで。たとえ雨が降ろうとも。
1389藤原定家朝臣
かきやりしその黒髪のすぢごとにうちふすほどは面影ぞ立つ
この手でかきやった黒髪の、一筋一筋がくっきりと見えるほどに思い出される。一人になって、うち臥していると。
1433読人しらず
白波は立ちさわぐともこりずまの浦のみるめは刈らむとぞ思ふ
白波が立って邪魔ばかり入るけれども、私は決して懲りたりしないよ。人目など海草のように刈り取って、この恋を遂げよう。
1434読人しらず
さしてゆくかたは湊の波高みうらみてかへる海人の釣舟
湊を目指して進もうとするのに、この恋は邪魔が入ってあなたのところへたどり着けない。さながら私は、恨みながらに沖へと戻る、漁師の釣り舟よ。
1336番。「白妙の」は枕詞ですが、恋人どうしの恋心の、純真無垢を表しているでしょう。「身にしむ」は、それが実感であることをアピールしています。風に色はありませんが、「白」と対比される別れの悲しみ、煩悶の「色」でしょう。涙と露に濡れて吹かれる秋の風は、芯まで冷たく感じられます。この情趣は、自然物の実景描写なしに、ありえません。むしろ、自然描写が中心の歌です。
1344番。口説くのも勢いなら、心変わりも勢い。そういう男に、いちいち泣いたりしないと言っているのです。夏には盛んな勢いで生い茂った葉も、露に当たる時節になると、その葉をみるみる枯らしていきます。その様変わりは、だんだん勢いをなくしていくというよりは、枯れていくことにも勢いがあるのです。式子内親王の、いちずな思いを捧げる1034番(「恋歌一」)、1204番(「恋歌三」)、1329番(「恋歌四」)などとはまったく異質の強さがここにはあり、自然の草木の姿をよく重ねて、印象深い歌です。
1368番。『伊勢物語』23段「筒井筒」にある歌です。二股をかけていた男が、もとの女とよりを戻してしまい、新しい女が呼び返そうとして、このように詠みました。大和地方の自然地形は、生活のなかに溶け込んでいることが特徴ですが、街方から大和のほうに目をやると、なだらかに裾野を広げる生駒山に雨雲の立ちこめてくるさまは優美で、幻想的ですらあります。
1389番。『後拾遺集』恋三に入集した和泉式部の「黒髪の乱れもしらずうち臥せばまづかきやりし人ぞ恋しき」の、本歌取りです。この歌の要所は、五感のなかでも触覚、ついで嗅覚の際立つ点にあります。物狂おしい性愛の歌であり、恋が終わってしまっても、性愛の甘美がいかに忘れがたいものであるかを訴えています。
1433番「こりずまの浦」とは、須磨の浦。「こりずまに」は「懲りもしないで」の意味。「恋歌」の部のしめ括りは確かに、『源氏物語』を踏まえていますが、さらに最後に置かれた1434番の、湊に漕ぎつけることができないで沖へと戻る舟のさまに、水上生活を余儀なくされた平氏の軍が、想起されてなりません。
さて、ここまでに、『古今集』と『新古今集』の、「恋歌」の部を比較してきました。『古今集』の「恋歌」には、叙景歌としても味わえるものはあまり見受けられませんでした。『古今集』「恋歌」の部では、恋そのものが主題として特化され、叙景歌とは区別されたところに、『古今集』「恋歌」の部は構成されたのでしょう。
つきましては、『古今集』と『新古今集』の「恋歌」について、次のようにまとめることができると思われます。
『古今集』において「恋歌」では、現実の恋愛を対象としています。内容は現実の恋愛に即して、恋という人事を描くことに集中しています。その反対に、『新古今集』では、精神の世界に重きが置かれます。『古今集』の世界をいかに超えるか、和歌の美とはどうあるべきかという理想の追求、すなわち「余情妖艶」の追求が、もう一つの主題でした。恋のこころを描くとともに、『新古今集』では、あくまでも美を描くという主題を重んじたのです。
「恋歌」の部において、「余情妖艶」がいかにして追求されたか。それは多くの場合、実景、叙景を充実させるという手法によりました。
すると、このようにも考えることができます。
『新古今集』「恋歌」の部には、叙景を通して、そのほかの主題もまた、見られるのではないでしょうか。
『新古今集』の時代は、源平の争乱が終結して、間もない時代です。次には、こうした社会情勢により、叙景の対象となる環境の見え方が、『古今集』の時代からどう変化していたかを示したいと思います。