二 「鬼」の表現をめぐって、死生観を探る
⑶ 中古の時代の死生観――和歌における自然物の感じ方
この章では、輪廻転生を教義とする仏教思想と、本来相容れないはずの魂魄の思想(本考3)が、和歌説話において共存していたこと、日本文学では、死霊ではなく生霊が、遊離魂としてはたらきかけると構想されるようになり、和歌に詠まれる愛の世界を支えるようになったことを述べます。
まず、魂魄の思想が、和歌の解釈に援用されるようになった例を挙げましょう。
『万葉集』に、次のような歌があります。現代語訳については、新編古典文学全集『俊頼髄脳』(1111-1115年の間に成立)の校注訳者、橋本不美男氏の現代語訳どおりに引用します。
〈3076 わすれ草かきもしみみに植ゑたれど鬼のしこぐさなほおひにけり〉
現代語訳
〈忘れ草を垣根いっぱいに植えたのだが、あの人を忘れられない。やはり忘れ草ではなく鬼の醜草がいっそう生えたのだ。〉
この歌には、後代、『俊頼髄脳』において「わすれ草VS鬼のしこぐさ」の故事が添えられました。
〈鬼のしこ草といへるは、むかし、人の親、子を二人もたりけり。親うせたるのち、恋ひ悲しぶこと、年をふれども忘らるることなし。兄の男、(中略)「ただにては、思ひなぐさむべきやうもなし。萱草(わすれぐさ)という草こそ、人の思ひをば忘らかすなれ」とて、萱草を、その塚のほとりに植ゑつ。〉〈この弟の男、(中略)「我は忘れ申さじ」とて、「紫苑といへる草こそ、心におぼゆることは忘れざなれ」とて、紫苑を、塚のほとりに植ゑてみければ、いよいよ忘るる事なくて、日をへてしあるきしけるを見て、塚のうちに声ありて、「我は、そこのかばねをまもる鬼なり。ねがはくはおそるる事なかれ。君をまもらむと思ふ。」と言ひければ、おそりながら聞き居りければ、「君は親に孝ある事、年月を送れども、かはる事なし。兄のぬしは、おなじく恋ひ悲しみて見えしかど、思ひ忘れ草を植ゑて、そのしるしを得たり。そこは、紫苑を植ゑて、またそのしるしを得たり。心ざしねんごろにして、あはれぶ所すくなからず。我、鬼のかたちを得たれども、物をあはれぶ心あり。また、日のうちの事を、さとる事あり。見えむ所あらば、夢をもちて示さむ」と言ひて、声やみ、またそののち、日のうちにあるべき事を、夢に見ることおこたりなし。〉(『俊頼髄脳』新編古典文学全集)
大意 鬼のしこ草のいわれというのは、こうである。昔、子を二人持った親が、亡くなった。二人とも、亡くなった親を恋い悲しみ、年月が経っても忘れることがない。兄は、忘れ草を墓のそばに植えて、悲しみを忘れようとした。弟は、「私はお忘れいたすまい」といって、「紫苑という草が、心に思うことを忘れさせない草であった」といって、紫苑を墓のそばに植えてみたところ、ますます忘れることがなくなって、毎日墓参を欠かさない。それを見て、墓の中から声がした。「私はあなたの親の屍をまもる鬼である。怖がらないでほしい。あなたを守ろうと思う。」というので、恐る恐る聞いていると、「あなたの親孝行は、年月を経ても変わらない。お兄さんも、あなたと同じように悲しんで、悲しみを忘れようとしてわすれ草を植えて、願いがかなった。あなたは、紫苑を植えて、またその願いがかなった。あなたの亡き親への思いの深さは、まことに行き届いて、少なからず心を動かされる。私は鬼の身ではあるが、物事に感動する心を持っている。それに、その日のうちに起こることを予知できる。わかることがあれば、あなたに、夢で知らせよう」といって、声はやみ、それから弟は、その日に起こることを夢に見るようになった。
ここでの鬼は、「屍をまもる鬼」。つまり、死者の霊のうち、「魄」のほうです。
本考3で述べたように、古代の中国の人々は、人が死ぬと、その霊体は魂と魄とに分離して、魂は天に昇り、魄は屍のそばに残って屍を守ると考えました。ここでの「鬼」は、まことに死者の霊というかたちで登場し、そしてこの鬼は、自分語りに「物をあわれぶ心」、物事に感動する心があるといいます。
この鬼の自分語りは、傍線部に『古今和歌集』「仮名序」の〈目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ〉のくだりを、想起させます。
『俊頼髄脳』が「わすれ草VS鬼のしこぐさ」の故事をどこから持ってきたのか詳らかではありませんが、『俊頼髄脳』と同時代の『今昔物語集』巻31第27では、この和歌説話を出典とし、「物をあはれぶ心」を「慈悲」という仏教語に置き換えることで仏教化しています。
「魂魄」といえば、「長恨歌」に次のようなくだりがあります。
「長恨歌」は、806年、唐の詩人、白居易の作。楊貴妃が没し、白居易は、愛する女性に死なれた玄宗皇帝の悲しみを、長編の漢詩に詠みました。その一節です。
〈
夕殿蛍飛思悄然
孤灯挑尽未成眠
遅遅鐘鼓初長夜
耿耿星河欲曙天
鴛鴦瓦冷霜華重
翡翠衾寒誰与共
悠悠生死別経年
魂魄不曾来入夢
〉
大意
夕殿に蛍が飛ぶと、思いは悲しみに沈んでゆきます。
灯はもうこの部屋一つだけとなり、燃やしても燃やしても、まだ眠ることができずにいます。
時を告げる鐘鼓がゆっくりと響くようになった夜長の秋に、
光り輝いていた天の川は、はや、明けてゆく朝の光に、のまれようとしています。
おしどりを形どった瓦に冷たい霜がきらきらと重なり、
かわせみが描かれた寝具は、共寝するあなたがいなくて、寒いものです。
あなたが亡くなって、あの世とこの世に隔たった、はるかなお別れをして、すっかり年月が経ちました。
あなたの身も心も、まだ一度も、私の夢に入ってきてはくれません。
私はここに、『伊勢物語』45段を想起しました。
まず、『新校注 伊勢物語』(和泉書院。著者 片桐洋一、田中まき)から本文を引用し、大意を次のようにまとめました。連番は算用数字にして、歌の冒頭に付け替えています。
〈昔、男有りけり。人のむすめのかしづく、いかで、この男に物言はむと思ひけり。うち出でむこと、かたくやありけむ、物病みになりて、死ぬべき時に、「かくこそ思ひしか」と言ひけるを、親聞きつけて、泣く泣く告げたりければ、まどひ来たりけれど、死にければ、つれづれとこもりをりけり。時は水無月のつごもり、いと暑きころほひに、宵はあそびをりて、夜ふけて、やや涼しき風吹きけり。蛍、高く飛び上がる。この男、見臥せりて、
84 ゆく蛍雲のうへまで去ぬべくは秋風ふくと雁に告げこせ〉
85 暮れがたき夏の日ぐらしながむればそのこととなく物ぞ悲しき〉
大意 昔、あるところに、一人の男がおりました。両親に大切に育てられた良家の娘が、その男を好きになり、片思いのまま言い出せずに思い詰めて、とうとう病気になりました。臨終の際、あの人を、私こんなに好きだったのと、誰かに話したのを両親が聞きつけ、泣きながら、男にそれを告げ知らせました。男は、我を忘れて女のもとに駆けつけますが、女は、すでに息絶えていました。そして男は、死の穢れに触れてか、女の家で、することもなく喪に服しておりました。時は六月の末日、とても暑い頃で、夜には鎮魂の音楽を奏でるのが聴こえてきます。夜が深まり、少し涼しくなって、蛍が高く飛びあがりました。男は、横になったまま飛び交う蛍を見上げて、歌を詠みました。
84 飛んでゆく蛍よ。雲の上までゆけるのだったら、地上は秋風が吹いて涼しくなったよ、だから、帰っておいでと伝えてくれないか。
85 なかなか暮れきらない夏の日を、一日何もしないでぼんやりしていると、あなたのことだというのではないが、悲しい気持ちになってしかたがないよ。
片桐洋一氏、田中まき氏による同書には、〈雁は死者の世界から飛び来るものと考えられていた〉とあります。秋山虔氏の「ゆく蛍」の校注(新大系『伊勢物語』)では、〈雁は秋に飛来する渡り鳥だが、亡き女の霊魂をも暗示する。〉〈うち明けられぬ片思いの果てに病み死んでいった女のために喪屋に籠る男の目に、闇のなかを飛び交う蛍は女の霊魂といった印象。その蛍への呼びかけは、異界の亡き女からの雁信の願いをこめている。〉と述べられます。
蛍飛、孤灯、星河。徐々に天を仰いでいくこの目線は、『伊勢物語』の男が横になったまま蛍を目で追いかけた目線と、その動きが重なります。そして鴛鴦瓦、翡翠衾と、下がってきた目線は、屋内、さらに内面へ。蛍は天を飛翔しても私の寝床、夢の中まで来てはくれない。「蛍」には、亡き楊貴妃の「魂魄」が重ねられています。
平安時代の貴族に好んで朗詠された詩歌を集めたソングブック、『和漢朗詠集』には、「長恨歌」を始め白居易の作品がきわめて多数収められています。『伊勢物語』45段が「長恨歌」を踏まえたことは容易に想像され、飛び交う「蛍」という自然物に、亡くなった女の霊を見ていることは、疑いがないでしょう。『伊勢物語』では、ここにさらに、雁という飛来する自然物をも重ねています。この雁もまた、天へ昇ってしまった女の霊、そのものではありませんか。
そこで私は、このように考えてしまうのです。
「魂魄」の「魂」は、霊体のうち、天へ到達し、「魄」は、身体を離れないといいます。
『伊勢物語』45段の作者は、「長恨歌」の「魂魄」という表現を発展させたのではないでしょうか。すなわち雁に、天上に到達した女の「魂」を、そして蛍に、屍を離れずにただよう女の「魄」ーーなきがらに寄り添う生命の揺曳を、見立てたのではないでしょうか。
「蛍」に限らず、『伊勢物語』には、魂が肉体を離れて遊離することを思わせる段が、他にもあります。59段がそうです。いったん死んだ男が蘇生して、その遊離魂が天の河までいちどは昇ったことを示す歌を詠みます。110段にも、女を思うあまり、男の魂が抜けだしたことを示す歌があります。(参考:「國語國文」一〇六七号「《毘沙門の本地》をめぐって」出雲路修著)
『古今和歌集』で、遊離魂が描かれているのは、恋歌二にある、次のような歌。
〈570 恋しきにわびて魂まどひなば空しきからの名にや残らむ よみ人しらず〉
大意 恋しさのあまり、思い悩んで魂がさまよい出てしまったら、恋のために身を空っぽの抜けがらにしたという評判だけが残るのでしょうね。
生きた身から魂がさまよい出るという思想は、『伊勢物語』にも『古今和歌集』にも、すでに存在しますが、ここでは魂がさまよい出てしまった身を「むなしきから」として、中空から見下ろすような視線を注いでいます。
後代では、『後拾遺集』(1086年)の、著名な歌を挙げましょう。
〈1162 もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る 和泉式部〉
大意 男に忘れられて、ここに来ています。沢(ここでは御手洗川。貴船神社に男の心変わりのを訴えた折の詠歌。)の蛍を見ても、私の体からさまよい出てしまった魂かと思えてきます。それほどまでに思い悩んでいるのです。
同時代、紫式部が『源氏物語』に、女の、愛ゆえの生霊の跋扈を描いています。霊魂は、生きたままでも身体を離れうるものとして積極的に描かれるようになりますが、『源氏物語』では、生霊がたださまようだけでなく、人を殺めるまでになります。生霊が取り憑けば、誰彼を殺しうるというとらえ方に至ったのは、非常に新鮮な進展であるように思います。
その出典を明確にたどれないとしても、平安時代末期の『俊頼髄脳』では、「わすれ草VS鬼のしこくさ」の万葉歌の背景に、「魂魄の思想」をみました。万葉集3076番を古例とした場合、『古今和歌集』570番、『伊勢物語』45段、『後拾遺集』1162番のように、生きたままの身体から分離する遊離魂の思想として、発展的に継承されたと見るべきではないでしょうか。
霊体が身体から分離するという思想が、仏教思想と矛盾しない感じさせ方で、和歌や和歌説話(和歌物語)に発展したのは、なぜでしょう。
それは、死霊ではなく、生霊というかたちをとらせるようになったからではないでしょうか。
つまり遊離した魂に、帰っていく肉体を存在せしめ、日常への帰還を可能にしたことで、物語の進行上のつじつまを合わせられるからでしょう。
その一方で、詩歌は、あらかじめ説明がつくものを扱うジャンルではありません。
和歌が生まれるとき必要なのは、他者への説明がつくことではなく、対象に実体的な感覚を持ち得ることでありましょう。つまり、魂であれ魄であれ、膚身に感じられてこそなのです。
たとえ説明がつかなくても、そのように感じられるときに、言葉にすることでそのものを在らしめるのが、詩歌でありましょう。(本考1)
古人は、恋焦がれて、生ける身から離れてしまう「たましい」を、実際に感じていたのでしょう。
だからこそ、歌が生まれたのでしょう。
『古事記』の次の記述を挙げます。
〈又食物乞大氣津比賣神、爾大氣都比賣、自鼻口及尻、種種味物取出而、種種作具而進時、速須佐之男命、立伺其態、爲穢汚而奉進、乃殺其大宜津比賣神。故、所殺神於身生物者、於頭生蠶、於二目生稻種、於二耳生粟、於鼻生小豆、於陰生麥、於尻生大豆。故是神產巢日御祖命、令取茲、成種。〉(『古事記』上巻三)
記紀では、死後のイザナミの腹の上に雷が発生したり(本考2)、オオゲツヒメの死体からさまざまな穀物が生まれたり、死によって自然物が創造され生長するというかたちがありました。前者の雷は、妻のイザナミに代わって夫のイザナキを追いかけますし、後者のオオゲツヒメは死後、食物神であることの本質を変えずして、五穀豊穣の女神へと発展する説話であると見られます。
要するに、私たちは、ずいぶん古代から、単にその死によってその本質を損なうことないと考えつつ、生命は、その死後、自然物によって何らかの形で代理・代弁されたり、引き継がれたりすることが可能だと、とらえていたのではないでしょうか。
あらためて、奥村恆哉氏の解説(新潮日本古典集成『古今和歌集』)を引用しておきます。
〈ほかならぬ『古今集』仮名序は、日本の歌人、紀貫之の言葉であるというところが肝心なのだ。貫之の思想を、単純に中国思想に還元し、それで万事畢ったと考えては、重大な見落としが出ることになるだろう。〉
〈仮名序の書き出しは、和歌の本質にかかわった重要な箇所であるが、細かく見ると、「花に鳴く鶯」「水にすむ蛙」という言い方には、的確な出典は見当たらない。ここには明らかに、古い日本の汎神論的思考を読みとることができる。〉
また奥村氏は、『古今和歌集』「仮名序」の〈力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、男女の中をもやわらげ、猛きもののふの心を慰むるは歌なり。〉のくだりについても、同解説中で、次のように述べます。(本稿の序文に引用した箇所と重なります。)
〈語としては、漢語「鬼神」と大和言葉「おにがみ」とが、中身まで同じだと考えては性急にすぎるのだ。前者は死者の霊であり、後者は記紀の神話に出てくる、名も記されなかった諸々の「かみ」である。漢語「鬼神」を、「おにがみ」と訓むところで、意味深長な日本化が行われたのである。〉
奥村氏の〈意味深長な日本化〉という言葉に、『古今和歌集』の意図の絶妙さが、見え隠れします。『古今和歌集』は、「日本文化とは、日本の歌とは何か」を目がけた国書です。『古今和歌集』の意図とは、いったん取り入れた中国の文化を排除してしまおうとの意図ではなく、外的な環境からさまざまに影響を受けながら成り立ってきたことを認め、日本の詩歌、日本の自然と人間のありようから、日本化できるものを日本のものとし、アイデンティファイする、その意図だったでしょう。
さて、その『古今和歌集』において、「古い日本の汎神論的思考」とは、どのようなものだったでしょうか。
〈849 時鳥今朝なく声におどろけば君に別れしときにぞありける 紀貫之〉
〈855 なき人の宿にかよはば時鳥かけて音にのみ泣くと告げなむ よみ人知らず〉
大意
849 今朝、ホトトギスの鳴く声を耳にして、はっとしましたよ。去年のきょう、あなたは亡くなられたのでした。
855 亡くなったあの人の、冥途の宿に通うというホトトギスよ。私が、ずっと心から忘れないで、泣いてばかりいると、あの人に伝えてくださいな。
「巻第十六 哀傷歌」から引きました。
これらの歌について、同書の校注に奥村氏は、〈時鳥が現世と冥途とを行き来するという『十王経』の考え方を踏まえる。〉としています。
ホトトギスは、キョッキョッキョッ……という鳴き声。しかも、鳴き止まないという鳥で、昼間だけでなく夜通しでも鳴くことから、夏の部には、なぜそうまでして鳴くのかと、観入する歌が多く見られます。『古今和歌集』は、日文研の和歌データべースで全1111首中、「ほとときす」のヒット52件。全体の4.68%に、ホトトギスが詠まれています。ちなみに『万葉集』では全4516首中、3.38%。『古今和歌集』ではその夏の部で、全34首中なんと28首がホトトギスの歌、82%です。『万葉集』でも『古今和歌集』でも、描かれた自然物のなかで、「ホトトギス」の愛されようは、飛び抜けた件数の多さです。
『十王経』は、唐代の中国や平安時代の日本で作られた経です。ここでは、日本で作られた『地蔵菩薩発心因縁十王経』の国書データベース(国文学資料館)に当たってみます。(原文中の句点、引用符、注記は筆者。■★は筆者無学につき不明字。★★は「カンロウ」の読み仮名あり。)
〈至門閞樹下。樹有荊棘■(うかんむりに「死」)如■(かねへんにはつがしらに似た部分の下に「手」)刃、二鳥栖掌。一名無常鳥。二名抜目鳥。我汝旧里化成★★示怪語、鳴別都頓宜寿。此鳥近呉語其祈家命鳴。我汝旧里化成烏鳥示怪語、鳴阿和薩加。此鳥遠呉語病来将命尽。〉
冥界の門に生える棘のある樹に二種類の鳥が棲みついており、それが、死者の罪業に対して責め苦を与える霊鳥であるそうです。一つめの鳥は無常鳥と名付けられ「別都頓宜寿(ホトトギス)」と鳴き、死者の生前、身近なところ(旧里)にも、カンロウの姿をして出現しています。二つめの鳥は目抜鳥と名付けられ、カラスの姿をしています。
中国の古典では、霊獣はたいてい空想上の産物であり、現実離れしたファンタジックな姿形を持つのに対し、日本の古典では、実生活のなかで身近に目にする生き物を、その姿を変えずに霊獣としてあてがうのです。このことが、注目すべきポイントではないでしょうか。
さて、部立「哀傷歌」は、全34首中、貫之の作が5首という多さ。この部立に、貫之の思い入れが感じられます。そして、壬生忠岑4首、紀友則2首を、この部立に入集。友則は『古今和歌集』の完成を待たずに、送られる側ともなり、貫之5首、忠岑4首のなかから哀傷を受けています。親友でもあった友則への貫之の哀傷は、こころが奔りやまぬという詠みぶりで、次のようなものです。
〈839 明日知らぬわが身と思へど暮れぬ間の今日は人こそ悲しかりけれ 紀貫之〉
大意 あすは自分がどうなるともわからないのだが、今日はまだ生きている。その今日のうちは、亡くなってしまった友のことが、ただただ悲しくてならない。〉
さきのホトトギスの849番と比べてみましょう。849番は、前出した藤原基経という要人の弟が亡くなって、一年経ったというその日の歌。貫之は、ホトトギスは冥途とこの世を結ぶという霊獣なだけあって、亡き人に代わってその命日を告げ知らせたと詠みました。架空の生物ではなく、現実のホトトギスをそのまま霊獣として受け止めています。「悲しかりけれ」と叫ばずにいられない839番と比べれば、ホトトギスの849番は、言葉のあっせんに十二分に理知がはたらいていますから、ここでなされているのは、感情に突き動かされての詩的飛躍ではないでしょう。つまり、ホトトギスが冥途の使い、霊獣であることは、当時の社会通念ともなっていたのでしょう。
「哀傷歌」にある、他の歌も見ていきましょう。
〈853 君が植ゑしひとむらすすき虫の音のしげき野辺ともなりにけるかな 御春有助〉
大意 住む人がいなくなった邸は荒れ果てて、お庭に植えられた一むらのすすきが茂りに茂って、虫たちが思う存分に鳴いていますよ。
この歌は、荒れ果てた庭で、虫たちが鎮魂の音楽をさかんに奏でているとも受け取れますし、オーケストラを奏でることで、虫たちが、庭のさまを痛ましく思う作者の悲しい気持ちを代弁しているとも受け取れます。
〈831 空蝉は殻を見つつもなぐさめつ 深草のやま 煙だに立て 僧都勝延〉
〈832 深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け 上野岑雄〉
大意
831 はかない蝉の抜け殻でも、あればその殻を見ながら、お姿を思い出して心が慰められもするのに、深草の山に埋葬してしまったので、何も残りはしない。山よ、せめて形見の煙ぐらい、立ててみせなさいよ。
832 深草の野辺の桜の木よ。もし、おまえに心があるならば、今年の春だけは、墨染めに花を咲かせてほしい。私と同じ、悲しい気持ちでいてほしいのです。
831・832番は、いずれも当時の摂政・関白、藤原基経が亡くなったのを受けての歌。
831番は、蝉の抜け殻を、現代人はどう見るでしょう。茶色くてかさかさして、風が吹いただけでくしゃりと潰れてしまいそうで、気持ちがわるいと思う人のほうが多いかもしれません。しかし、その壊れやすさを、この時代の人々は、美質として愛しました。抜け殻に生命の名残を見て、いとおしいと感じたのです。
832番は、モノクロームの桜、実際には存在し得ないものの像を、作者は幻視しました。死という非日常が招きよせる「墨染めの桜」は、悲しみ極まるところの、ばけものでしょう。そのような怪異をひきおこしたいと願ってしまうほど、悲しいというのです。
こうした、はかないもののなかでもはかない自然物への観入、そのような自然物に一体的なることへの希求こそが、「古い日本の汎神論的思考」として、古代人に、鮮烈に持たれていたのではないでしょうか。
『古今和歌集』巻二十「神遊びの歌」から、その詞書「ひるめの歌(天照大神を祭る歌)」を一首、紹介しておきます。
〈1080 ささのくま 檜隈川に 駒とめて しばし水かへ かげをだに見む〉
大意 ささのくまの檜隈川に、馬をとめて、馬に、しばらく水を飲ませてやってくださいな。天照大神様、せめて、水にうつるあなたのお姿を、そのあいだ、私に拝ませてやってください。
この歌は、『万葉集』の〈3097 さひのくま 檜隈川に馬とどめ馬に水かへ我よそに見む〉が伝承され、神遊びの歌となったものです。本文訳に、そのように明示はされないのですが、この大意では、「かげ」を、水にうつる太陽神としました。奥村氏の解説によると、水に映ったものの影は、〈『古今集』の特別な嗜好〉であるとのこと。太陽神の「かげ」を拝ませてくださいという歌です。しかし、目を焼かれるため、太陽を直接に見ることはできません。ですので、水かがみをとおして、馬に水を飲ませるあいだ、そっと、拝んでいるのではないでしょうか。
『万葉集』での部立は「寄物陳思」。「寄物陳思」という部立から、伝承されるうち天照大神を祭る歌として、「神遊びの歌」の部立に移行しています。「寄物陳思」は、「物に寄せて思いを陳べる」意。自然物に託して思いが陳べる、この様式が、伝承を経て洗練され、異界や死生観を表出しうる様式となっていったように思われます。
・
⑶ 中古の時代の死生観――和歌における自然物の感じ方
この章では、輪廻転生を教義とする仏教思想と、本来相容れないはずの魂魄の思想(本考3)が、和歌説話において共存していたこと、日本文学では、死霊ではなく生霊が、遊離魂としてはたらきかけると構想されるようになり、和歌に詠まれる愛の世界を支えるようになったことを述べます。
まず、魂魄の思想が、和歌の解釈に援用されるようになった例を挙げましょう。
『万葉集』に、次のような歌があります。現代語訳については、新編古典文学全集『俊頼髄脳』(1111-1115年の間に成立)の校注訳者、橋本不美男氏の現代語訳どおりに引用します。
〈3076 わすれ草かきもしみみに植ゑたれど鬼のしこぐさなほおひにけり〉
現代語訳
〈忘れ草を垣根いっぱいに植えたのだが、あの人を忘れられない。やはり忘れ草ではなく鬼の醜草がいっそう生えたのだ。〉
この歌には、後代、『俊頼髄脳』において「わすれ草VS鬼のしこぐさ」の故事が添えられました。
〈鬼のしこ草といへるは、むかし、人の親、子を二人もたりけり。親うせたるのち、恋ひ悲しぶこと、年をふれども忘らるることなし。兄の男、(中略)「ただにては、思ひなぐさむべきやうもなし。萱草(わすれぐさ)という草こそ、人の思ひをば忘らかすなれ」とて、萱草を、その塚のほとりに植ゑつ。〉〈この弟の男、(中略)「我は忘れ申さじ」とて、「紫苑といへる草こそ、心におぼゆることは忘れざなれ」とて、紫苑を、塚のほとりに植ゑてみければ、いよいよ忘るる事なくて、日をへてしあるきしけるを見て、塚のうちに声ありて、「我は、そこのかばねをまもる鬼なり。ねがはくはおそるる事なかれ。君をまもらむと思ふ。」と言ひければ、おそりながら聞き居りければ、「君は親に孝ある事、年月を送れども、かはる事なし。兄のぬしは、おなじく恋ひ悲しみて見えしかど、思ひ忘れ草を植ゑて、そのしるしを得たり。そこは、紫苑を植ゑて、またそのしるしを得たり。心ざしねんごろにして、あはれぶ所すくなからず。我、鬼のかたちを得たれども、物をあはれぶ心あり。また、日のうちの事を、さとる事あり。見えむ所あらば、夢をもちて示さむ」と言ひて、声やみ、またそののち、日のうちにあるべき事を、夢に見ることおこたりなし。〉(『俊頼髄脳』新編古典文学全集)
大意 鬼のしこ草のいわれというのは、こうである。昔、子を二人持った親が、亡くなった。二人とも、亡くなった親を恋い悲しみ、年月が経っても忘れることがない。兄は、忘れ草を墓のそばに植えて、悲しみを忘れようとした。弟は、「私はお忘れいたすまい」といって、「紫苑という草が、心に思うことを忘れさせない草であった」といって、紫苑を墓のそばに植えてみたところ、ますます忘れることがなくなって、毎日墓参を欠かさない。それを見て、墓の中から声がした。「私はあなたの親の屍をまもる鬼である。怖がらないでほしい。あなたを守ろうと思う。」というので、恐る恐る聞いていると、「あなたの親孝行は、年月を経ても変わらない。お兄さんも、あなたと同じように悲しんで、悲しみを忘れようとしてわすれ草を植えて、願いがかなった。あなたは、紫苑を植えて、またその願いがかなった。あなたの亡き親への思いの深さは、まことに行き届いて、少なからず心を動かされる。私は鬼の身ではあるが、物事に感動する心を持っている。それに、その日のうちに起こることを予知できる。わかることがあれば、あなたに、夢で知らせよう」といって、声はやみ、それから弟は、その日に起こることを夢に見るようになった。
ここでの鬼は、「屍をまもる鬼」。つまり、死者の霊のうち、「魄」のほうです。
本考3で述べたように、古代の中国の人々は、人が死ぬと、その霊体は魂と魄とに分離して、魂は天に昇り、魄は屍のそばに残って屍を守ると考えました。ここでの「鬼」は、まことに死者の霊というかたちで登場し、そしてこの鬼は、自分語りに「物をあわれぶ心」、物事に感動する心があるといいます。
この鬼の自分語りは、傍線部に『古今和歌集』「仮名序」の〈目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ〉のくだりを、想起させます。
『俊頼髄脳』が「わすれ草VS鬼のしこぐさ」の故事をどこから持ってきたのか詳らかではありませんが、『俊頼髄脳』と同時代の『今昔物語集』巻31第27では、この和歌説話を出典とし、「物をあはれぶ心」を「慈悲」という仏教語に置き換えることで仏教化しています。
「魂魄」といえば、「長恨歌」に次のようなくだりがあります。
「長恨歌」は、806年、唐の詩人、白居易の作。楊貴妃が没し、白居易は、愛する女性に死なれた玄宗皇帝の悲しみを、長編の漢詩に詠みました。その一節です。
〈
夕殿蛍飛思悄然
孤灯挑尽未成眠
遅遅鐘鼓初長夜
耿耿星河欲曙天
鴛鴦瓦冷霜華重
翡翠衾寒誰与共
悠悠生死別経年
魂魄不曾来入夢
〉
大意
夕殿に蛍が飛ぶと、思いは悲しみに沈んでゆきます。
灯はもうこの部屋一つだけとなり、燃やしても燃やしても、まだ眠ることができずにいます。
時を告げる鐘鼓がゆっくりと響くようになった夜長の秋に、
光り輝いていた天の川は、はや、明けてゆく朝の光に、のまれようとしています。
おしどりを形どった瓦に冷たい霜がきらきらと重なり、
かわせみが描かれた寝具は、共寝するあなたがいなくて、寒いものです。
あなたが亡くなって、あの世とこの世に隔たった、はるかなお別れをして、すっかり年月が経ちました。
あなたの身も心も、まだ一度も、私の夢に入ってきてはくれません。
私はここに、『伊勢物語』45段を想起しました。
まず、『新校注 伊勢物語』(和泉書院。著者 片桐洋一、田中まき)から本文を引用し、大意を次のようにまとめました。連番は算用数字にして、歌の冒頭に付け替えています。
〈昔、男有りけり。人のむすめのかしづく、いかで、この男に物言はむと思ひけり。うち出でむこと、かたくやありけむ、物病みになりて、死ぬべき時に、「かくこそ思ひしか」と言ひけるを、親聞きつけて、泣く泣く告げたりければ、まどひ来たりけれど、死にければ、つれづれとこもりをりけり。時は水無月のつごもり、いと暑きころほひに、宵はあそびをりて、夜ふけて、やや涼しき風吹きけり。蛍、高く飛び上がる。この男、見臥せりて、
84 ゆく蛍雲のうへまで去ぬべくは秋風ふくと雁に告げこせ〉
85 暮れがたき夏の日ぐらしながむればそのこととなく物ぞ悲しき〉
大意 昔、あるところに、一人の男がおりました。両親に大切に育てられた良家の娘が、その男を好きになり、片思いのまま言い出せずに思い詰めて、とうとう病気になりました。臨終の際、あの人を、私こんなに好きだったのと、誰かに話したのを両親が聞きつけ、泣きながら、男にそれを告げ知らせました。男は、我を忘れて女のもとに駆けつけますが、女は、すでに息絶えていました。そして男は、死の穢れに触れてか、女の家で、することもなく喪に服しておりました。時は六月の末日、とても暑い頃で、夜には鎮魂の音楽を奏でるのが聴こえてきます。夜が深まり、少し涼しくなって、蛍が高く飛びあがりました。男は、横になったまま飛び交う蛍を見上げて、歌を詠みました。
84 飛んでゆく蛍よ。雲の上までゆけるのだったら、地上は秋風が吹いて涼しくなったよ、だから、帰っておいでと伝えてくれないか。
85 なかなか暮れきらない夏の日を、一日何もしないでぼんやりしていると、あなたのことだというのではないが、悲しい気持ちになってしかたがないよ。
片桐洋一氏、田中まき氏による同書には、〈雁は死者の世界から飛び来るものと考えられていた〉とあります。秋山虔氏の「ゆく蛍」の校注(新大系『伊勢物語』)では、〈雁は秋に飛来する渡り鳥だが、亡き女の霊魂をも暗示する。〉〈うち明けられぬ片思いの果てに病み死んでいった女のために喪屋に籠る男の目に、闇のなかを飛び交う蛍は女の霊魂といった印象。その蛍への呼びかけは、異界の亡き女からの雁信の願いをこめている。〉と述べられます。
蛍飛、孤灯、星河。徐々に天を仰いでいくこの目線は、『伊勢物語』の男が横になったまま蛍を目で追いかけた目線と、その動きが重なります。そして鴛鴦瓦、翡翠衾と、下がってきた目線は、屋内、さらに内面へ。蛍は天を飛翔しても私の寝床、夢の中まで来てはくれない。「蛍」には、亡き楊貴妃の「魂魄」が重ねられています。
平安時代の貴族に好んで朗詠された詩歌を集めたソングブック、『和漢朗詠集』には、「長恨歌」を始め白居易の作品がきわめて多数収められています。『伊勢物語』45段が「長恨歌」を踏まえたことは容易に想像され、飛び交う「蛍」という自然物に、亡くなった女の霊を見ていることは、疑いがないでしょう。『伊勢物語』では、ここにさらに、雁という飛来する自然物をも重ねています。この雁もまた、天へ昇ってしまった女の霊、そのものではありませんか。
そこで私は、このように考えてしまうのです。
「魂魄」の「魂」は、霊体のうち、天へ到達し、「魄」は、身体を離れないといいます。
『伊勢物語』45段の作者は、「長恨歌」の「魂魄」という表現を発展させたのではないでしょうか。すなわち雁に、天上に到達した女の「魂」を、そして蛍に、屍を離れずにただよう女の「魄」ーーなきがらに寄り添う生命の揺曳を、見立てたのではないでしょうか。
「蛍」に限らず、『伊勢物語』には、魂が肉体を離れて遊離することを思わせる段が、他にもあります。59段がそうです。いったん死んだ男が蘇生して、その遊離魂が天の河までいちどは昇ったことを示す歌を詠みます。110段にも、女を思うあまり、男の魂が抜けだしたことを示す歌があります。(参考:「國語國文」一〇六七号「《毘沙門の本地》をめぐって」出雲路修著)
『古今和歌集』で、遊離魂が描かれているのは、恋歌二にある、次のような歌。
〈570 恋しきにわびて魂まどひなば空しきからの名にや残らむ よみ人しらず〉
大意 恋しさのあまり、思い悩んで魂がさまよい出てしまったら、恋のために身を空っぽの抜けがらにしたという評判だけが残るのでしょうね。
生きた身から魂がさまよい出るという思想は、『伊勢物語』にも『古今和歌集』にも、すでに存在しますが、ここでは魂がさまよい出てしまった身を「むなしきから」として、中空から見下ろすような視線を注いでいます。
後代では、『後拾遺集』(1086年)の、著名な歌を挙げましょう。
〈1162 もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る 和泉式部〉
大意 男に忘れられて、ここに来ています。沢(ここでは御手洗川。貴船神社に男の心変わりのを訴えた折の詠歌。)の蛍を見ても、私の体からさまよい出てしまった魂かと思えてきます。それほどまでに思い悩んでいるのです。
同時代、紫式部が『源氏物語』に、女の、愛ゆえの生霊の跋扈を描いています。霊魂は、生きたままでも身体を離れうるものとして積極的に描かれるようになりますが、『源氏物語』では、生霊がたださまようだけでなく、人を殺めるまでになります。生霊が取り憑けば、誰彼を殺しうるというとらえ方に至ったのは、非常に新鮮な進展であるように思います。
その出典を明確にたどれないとしても、平安時代末期の『俊頼髄脳』では、「わすれ草VS鬼のしこくさ」の万葉歌の背景に、「魂魄の思想」をみました。万葉集3076番を古例とした場合、『古今和歌集』570番、『伊勢物語』45段、『後拾遺集』1162番のように、生きたままの身体から分離する遊離魂の思想として、発展的に継承されたと見るべきではないでしょうか。
霊体が身体から分離するという思想が、仏教思想と矛盾しない感じさせ方で、和歌や和歌説話(和歌物語)に発展したのは、なぜでしょう。
それは、死霊ではなく、生霊というかたちをとらせるようになったからではないでしょうか。
つまり遊離した魂に、帰っていく肉体を存在せしめ、日常への帰還を可能にしたことで、物語の進行上のつじつまを合わせられるからでしょう。
その一方で、詩歌は、あらかじめ説明がつくものを扱うジャンルではありません。
和歌が生まれるとき必要なのは、他者への説明がつくことではなく、対象に実体的な感覚を持ち得ることでありましょう。つまり、魂であれ魄であれ、膚身に感じられてこそなのです。
たとえ説明がつかなくても、そのように感じられるときに、言葉にすることでそのものを在らしめるのが、詩歌でありましょう。(本考1)
古人は、恋焦がれて、生ける身から離れてしまう「たましい」を、実際に感じていたのでしょう。
だからこそ、歌が生まれたのでしょう。
『古事記』の次の記述を挙げます。
〈又食物乞大氣津比賣神、爾大氣都比賣、自鼻口及尻、種種味物取出而、種種作具而進時、速須佐之男命、立伺其態、爲穢汚而奉進、乃殺其大宜津比賣神。故、所殺神於身生物者、於頭生蠶、於二目生稻種、於二耳生粟、於鼻生小豆、於陰生麥、於尻生大豆。故是神產巢日御祖命、令取茲、成種。〉(『古事記』上巻三)
記紀では、死後のイザナミの腹の上に雷が発生したり(本考2)、オオゲツヒメの死体からさまざまな穀物が生まれたり、死によって自然物が創造され生長するというかたちがありました。前者の雷は、妻のイザナミに代わって夫のイザナキを追いかけますし、後者のオオゲツヒメは死後、食物神であることの本質を変えずして、五穀豊穣の女神へと発展する説話であると見られます。
要するに、私たちは、ずいぶん古代から、単にその死によってその本質を損なうことないと考えつつ、生命は、その死後、自然物によって何らかの形で代理・代弁されたり、引き継がれたりすることが可能だと、とらえていたのではないでしょうか。
あらためて、奥村恆哉氏の解説(新潮日本古典集成『古今和歌集』)を引用しておきます。
〈ほかならぬ『古今集』仮名序は、日本の歌人、紀貫之の言葉であるというところが肝心なのだ。貫之の思想を、単純に中国思想に還元し、それで万事畢ったと考えては、重大な見落としが出ることになるだろう。〉
〈仮名序の書き出しは、和歌の本質にかかわった重要な箇所であるが、細かく見ると、「花に鳴く鶯」「水にすむ蛙」という言い方には、的確な出典は見当たらない。ここには明らかに、古い日本の汎神論的思考を読みとることができる。〉
また奥村氏は、『古今和歌集』「仮名序」の〈力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、男女の中をもやわらげ、猛きもののふの心を慰むるは歌なり。〉のくだりについても、同解説中で、次のように述べます。(本稿の序文に引用した箇所と重なります。)
〈語としては、漢語「鬼神」と大和言葉「おにがみ」とが、中身まで同じだと考えては性急にすぎるのだ。前者は死者の霊であり、後者は記紀の神話に出てくる、名も記されなかった諸々の「かみ」である。漢語「鬼神」を、「おにがみ」と訓むところで、意味深長な日本化が行われたのである。〉
奥村氏の〈意味深長な日本化〉という言葉に、『古今和歌集』の意図の絶妙さが、見え隠れします。『古今和歌集』は、「日本文化とは、日本の歌とは何か」を目がけた国書です。『古今和歌集』の意図とは、いったん取り入れた中国の文化を排除してしまおうとの意図ではなく、外的な環境からさまざまに影響を受けながら成り立ってきたことを認め、日本の詩歌、日本の自然と人間のありようから、日本化できるものを日本のものとし、アイデンティファイする、その意図だったでしょう。
さて、その『古今和歌集』において、「古い日本の汎神論的思考」とは、どのようなものだったでしょうか。
〈849 時鳥今朝なく声におどろけば君に別れしときにぞありける 紀貫之〉
〈855 なき人の宿にかよはば時鳥かけて音にのみ泣くと告げなむ よみ人知らず〉
大意
849 今朝、ホトトギスの鳴く声を耳にして、はっとしましたよ。去年のきょう、あなたは亡くなられたのでした。
855 亡くなったあの人の、冥途の宿に通うというホトトギスよ。私が、ずっと心から忘れないで、泣いてばかりいると、あの人に伝えてくださいな。
「巻第十六 哀傷歌」から引きました。
これらの歌について、同書の校注に奥村氏は、〈時鳥が現世と冥途とを行き来するという『十王経』の考え方を踏まえる。〉としています。
ホトトギスは、キョッキョッキョッ……という鳴き声。しかも、鳴き止まないという鳥で、昼間だけでなく夜通しでも鳴くことから、夏の部には、なぜそうまでして鳴くのかと、観入する歌が多く見られます。『古今和歌集』は、日文研の和歌データべースで全1111首中、「ほとときす」のヒット52件。全体の4.68%に、ホトトギスが詠まれています。ちなみに『万葉集』では全4516首中、3.38%。『古今和歌集』ではその夏の部で、全34首中なんと28首がホトトギスの歌、82%です。『万葉集』でも『古今和歌集』でも、描かれた自然物のなかで、「ホトトギス」の愛されようは、飛び抜けた件数の多さです。
『十王経』は、唐代の中国や平安時代の日本で作られた経です。ここでは、日本で作られた『地蔵菩薩発心因縁十王経』の国書データベース(国文学資料館)に当たってみます。(原文中の句点、引用符、注記は筆者。■★は筆者無学につき不明字。★★は「カンロウ」の読み仮名あり。)
〈至門閞樹下。樹有荊棘■(うかんむりに「死」)如■(かねへんにはつがしらに似た部分の下に「手」)刃、二鳥栖掌。一名無常鳥。二名抜目鳥。我汝旧里化成★★示怪語、鳴別都頓宜寿。此鳥近呉語其祈家命鳴。我汝旧里化成烏鳥示怪語、鳴阿和薩加。此鳥遠呉語病来将命尽。〉
冥界の門に生える棘のある樹に二種類の鳥が棲みついており、それが、死者の罪業に対して責め苦を与える霊鳥であるそうです。一つめの鳥は無常鳥と名付けられ「別都頓宜寿(ホトトギス)」と鳴き、死者の生前、身近なところ(旧里)にも、カンロウの姿をして出現しています。二つめの鳥は目抜鳥と名付けられ、カラスの姿をしています。
中国の古典では、霊獣はたいてい空想上の産物であり、現実離れしたファンタジックな姿形を持つのに対し、日本の古典では、実生活のなかで身近に目にする生き物を、その姿を変えずに霊獣としてあてがうのです。このことが、注目すべきポイントではないでしょうか。
さて、部立「哀傷歌」は、全34首中、貫之の作が5首という多さ。この部立に、貫之の思い入れが感じられます。そして、壬生忠岑4首、紀友則2首を、この部立に入集。友則は『古今和歌集』の完成を待たずに、送られる側ともなり、貫之5首、忠岑4首のなかから哀傷を受けています。親友でもあった友則への貫之の哀傷は、こころが奔りやまぬという詠みぶりで、次のようなものです。
〈839 明日知らぬわが身と思へど暮れぬ間の今日は人こそ悲しかりけれ 紀貫之〉
大意 あすは自分がどうなるともわからないのだが、今日はまだ生きている。その今日のうちは、亡くなってしまった友のことが、ただただ悲しくてならない。〉
さきのホトトギスの849番と比べてみましょう。849番は、前出した藤原基経という要人の弟が亡くなって、一年経ったというその日の歌。貫之は、ホトトギスは冥途とこの世を結ぶという霊獣なだけあって、亡き人に代わってその命日を告げ知らせたと詠みました。架空の生物ではなく、現実のホトトギスをそのまま霊獣として受け止めています。「悲しかりけれ」と叫ばずにいられない839番と比べれば、ホトトギスの849番は、言葉のあっせんに十二分に理知がはたらいていますから、ここでなされているのは、感情に突き動かされての詩的飛躍ではないでしょう。つまり、ホトトギスが冥途の使い、霊獣であることは、当時の社会通念ともなっていたのでしょう。
「哀傷歌」にある、他の歌も見ていきましょう。
〈853 君が植ゑしひとむらすすき虫の音のしげき野辺ともなりにけるかな 御春有助〉
大意 住む人がいなくなった邸は荒れ果てて、お庭に植えられた一むらのすすきが茂りに茂って、虫たちが思う存分に鳴いていますよ。
この歌は、荒れ果てた庭で、虫たちが鎮魂の音楽をさかんに奏でているとも受け取れますし、オーケストラを奏でることで、虫たちが、庭のさまを痛ましく思う作者の悲しい気持ちを代弁しているとも受け取れます。
〈831 空蝉は殻を見つつもなぐさめつ 深草のやま 煙だに立て 僧都勝延〉
〈832 深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け 上野岑雄〉
大意
831 はかない蝉の抜け殻でも、あればその殻を見ながら、お姿を思い出して心が慰められもするのに、深草の山に埋葬してしまったので、何も残りはしない。山よ、せめて形見の煙ぐらい、立ててみせなさいよ。
832 深草の野辺の桜の木よ。もし、おまえに心があるならば、今年の春だけは、墨染めに花を咲かせてほしい。私と同じ、悲しい気持ちでいてほしいのです。
831・832番は、いずれも当時の摂政・関白、藤原基経が亡くなったのを受けての歌。
831番は、蝉の抜け殻を、現代人はどう見るでしょう。茶色くてかさかさして、風が吹いただけでくしゃりと潰れてしまいそうで、気持ちがわるいと思う人のほうが多いかもしれません。しかし、その壊れやすさを、この時代の人々は、美質として愛しました。抜け殻に生命の名残を見て、いとおしいと感じたのです。
832番は、モノクロームの桜、実際には存在し得ないものの像を、作者は幻視しました。死という非日常が招きよせる「墨染めの桜」は、悲しみ極まるところの、ばけものでしょう。そのような怪異をひきおこしたいと願ってしまうほど、悲しいというのです。
こうした、はかないもののなかでもはかない自然物への観入、そのような自然物に一体的なることへの希求こそが、「古い日本の汎神論的思考」として、古代人に、鮮烈に持たれていたのではないでしょうか。
『古今和歌集』巻二十「神遊びの歌」から、その詞書「ひるめの歌(天照大神を祭る歌)」を一首、紹介しておきます。
〈1080 ささのくま 檜隈川に 駒とめて しばし水かへ かげをだに見む〉
大意 ささのくまの檜隈川に、馬をとめて、馬に、しばらく水を飲ませてやってくださいな。天照大神様、せめて、水にうつるあなたのお姿を、そのあいだ、私に拝ませてやってください。
この歌は、『万葉集』の〈3097 さひのくま 檜隈川に馬とどめ馬に水かへ我よそに見む〉が伝承され、神遊びの歌となったものです。本文訳に、そのように明示はされないのですが、この大意では、「かげ」を、水にうつる太陽神としました。奥村氏の解説によると、水に映ったものの影は、〈『古今集』の特別な嗜好〉であるとのこと。太陽神の「かげ」を拝ませてくださいという歌です。しかし、目を焼かれるため、太陽を直接に見ることはできません。ですので、水かがみをとおして、馬に水を飲ませるあいだ、そっと、拝んでいるのではないでしょうか。
『万葉集』での部立は「寄物陳思」。「寄物陳思」という部立から、伝承されるうち天照大神を祭る歌として、「神遊びの歌」の部立に移行しています。「寄物陳思」は、「物に寄せて思いを陳べる」意。自然物に託して思いが陳べる、この様式が、伝承を経て洗練され、異界や死生観を表出しうる様式となっていったように思われます。
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