歌人・辰巳泰子の公式ブログ

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(未定稿)鬼さん考 6

2024-06-30 20:53:36 | 月鞠の会
三 超自然の鬼から実体を持つ鬼へ(仮題)


⑴ 心の鬼

平安時代の和歌や日記には、女性の作品を中心に、「心の鬼」という言葉がしばしば使われるようになります。この言葉は連語で、小型のでも、古語辞典の見出し語にある言葉です。それなのに、仏教語辞典の見出し語には、ありません。
その辞書義は、①疑心暗鬼、②良心の呵責、あるいは通俗的な意味合いで、煩悩や迷いの意味を持たせる場合もあるようです。用例は『蜻蛉日記』(974年頃)、『一条摂政集』(992年頃)、『枕草子』(1001年頃)、『源氏物語』(1008年頃)、『紫式部集』、『浜松中納言物語』(1052年頃)などに見られます。(※成立年代は、「国史大辞典」のほか「ベネッセ全訳古語辞典」による。)
そもそも「鬼」は、死霊を意味する漢字ですから、仏教語辞典で「鬼」を引けば、その項目は必ずあります。しかし、「心の鬼」は、仏教との関係も薄いようで、「古語大辞典 コンパクト版」(小学館。編者:中田祝夫 和田利政 北原保雄)には「平安時代の物語や歌に散見する語であるが、出典は未詳。列子説符口義に「諺曰疑心暗鬼」とあり、天台軌範に「心迷生暗鬼」と関係あるか。」と記載されます。列子説符口義は、道教の書『列子』「説符」(春秋戦国時代)の注釈書で、時代は南宋。平安時代よりも後ですから、関係があるとしても、「心の鬼」の由来とまではいえません。

古語辞典の用例をヒントに、原文に当たっていきましょう。

  〈心の鬼は、もし、ここ近きところに障りありて、帰されてやあらむと思ふに、人はさりげなけれど、うちとけずこそ思ひ明かしつれ。〉(『蜻蛉日記』新潮日本古典集成)


大意 疑心暗鬼で思うことには、もし、(いま突然訪ねてきたあの人が)、ここに近い別な女に通って、何か障りがあって帰されて私のところに寄ったのかしらと思うと、あの人はしれっとしていても、私はこだわりが解けずに考えこんで朝になってしまった。

「あの人」とは通い婚の夫、兼家。夫が別な女性に心を移して、すっかり離れたかと思ったら、戻ってきたりもして、疑心暗鬼の募るさまを、「心の鬼」と表現しました。


  〈絵に、物の怪つきたる女のみにくきかたかきたるうしろに、鬼になりたるもとの妻を、小法師のしばりたるかたかきて、男は経読みて物の怪せめたるところを見て
  
   亡き人にかごとをかけてわずらふもおのが心の鬼にやはあらぬ〉
    返し
   ことわりや君が心の闇なれば鬼の影とはしるく見ゆらむ〉(『紫式部集』新潮日本古典集成)


大意 絵に、物の怪のついた今の妻の醜い姿を書いた背後に、鬼の姿になった前の妻を小法師が縛っているさまを描いて、男はお経を読んで、物の怪を退散させようとしているのを見て
  今の妻についた物の怪を亡くなった前の妻のせいにして、苦しめられているというのも、結局は、自分自身の疑心暗鬼に苦しめられているということではないかしら。
   返し
  もっともです。あなたさまのお心が闇でいらっしゃるから、その鬼の姿を、しかとお認めになられるのでしょう。


死霊の祟りを信じる人が、絵に描かれています。紫式部は、その絵を指しつつ、祟られたと思いこむ人の疑心暗鬼を、心の鬼として抉り出します。この歌に付いた返しを、校注者、山本利達氏は侍女からの返しであろうと推察します。ここで、宮中の女たちが精神世界に関心を持ち、自覚的であったことに驚かされるのです。『蜻蛉日記』でも『紫式部集』でも、実人生に根ざした苦悩を生きている女人の面差しが、言葉の背後に、浮かび上がってくるようです。

『源氏物語』にも「心の鬼」が出現します。六条御息所の生霊に取り憑かれて、光源氏の正妻、葵の上の苦しむさまを描いています。


  〈里におはするほどなりければ、忍びて見たまひて、ほのめかしたる気色を心の鬼にしるく見たまひて、さればよと思すもいといみじ。〉(『源氏物語』新編古典文学全集)


大意 御息所は私邸にいらっしゃるときだったので、(源氏からのやんわりお断りのお手紙を)こっそりご覧になって、その本意を、(生霊となった)心のやましさゆえにはっきりとご理解になられて、そうだろうなあとお思いになるのも、まことに情けない。

六条御息所は、光源氏の正妻、葵の上に取り憑いて苦しめ、愛人ゆえの屈辱を晴らそうとしました。しかし「心の鬼」は、怨霊ではありません。良心の呵責の意味です。
このように、「心の鬼」は、超自然現象でも霊体でもなく、日常生活における、ごく普通の人間の、ネガティブではあっても、ごく普通の思考そのものを指していたのです。
超自然現象や逸脱者を表した「おに」が、日常生活の思考そのものを指す連語に採り入れられたのは、なぜだったのでしょうか。
つまり、平安時代の人々は、何を見て、どのように、人の心のなかに鬼のひそむのを、感じるようになったのでしょうか。
「心の鬼」が、直接に仏典に由来しなくとも、仏教が日常生活に浸透していたことが、やはり、ヒントになるように思います。たとえば、次に挙げる「毘沙門天王功徳経」のなかでは、人間の悪業煩悩を、「鬼」と呼んでいます。


  〈そのときに阿難一心に掌を合わせて仏に白して言さく、なんの因縁を以て此毘沙門天王は身に金甲を被し、左の手に宝塔を捧げ、右の手に如意宝珠を取りて捧げ、左右の足下に羅刹毘闍舎鬼(らせつびしゃじゃき)を趺むや。〉

  〈仏阿難に告げてのたまわく、此毘沙門天王は、七万八千億の諸仏の護持仏法之兵の士なり。左の手に宝塔を捧ぐるは、普集功徳微妙(ふしゅうくどくびみょう)と名づく宝塔之内には八万四千の法蔵十二部経の文義を具し、然して見る者の無量の智慧を得る。右の手に如意宝珠を取りて棒ぐるは、震多摩尼珠宝(しんたまにしゅほう)と名づく飲食衣服無量の財宝を涌出す。身に金甲を被(ひ)するは、四魔之軍を除く為なり。両毘は悪業煩悩(あくごうぼんのう)を降伏せんが為に趺む所なり。 〉(「仏説毘沙門天王功徳経 : 訓点」より。国立国会図書館デジタルコレクション)


当時、観音信仰がまず広まり、京都の鞍馬寺を発祥地として、770年頃から毘沙門信仰が広まるようになりました。平安時代の半ばともなりますと、鞍馬寺は、『枕草子』にも登場する人気のお寺です。観音信仰に次いで、毘沙門信仰はポピュラーなものとなっていましたから、毘沙門天が煩悩を鬼として踏みつけている御形を見ては、煩悩は心のなかにあるなぁと、胸に手を当てるのが、参詣の人々の、自然な物の思いようではなかったでしょうか。

また、『蜻蛉日記』に先立つ頃、庚申信仰が広がり始めていました。天台宗の僧侶、浄蔵貴所による八坂庚申堂の建立は、900年代の半ば。山上憶良が挙げていた『抱朴子』に、庚申信仰の三尸について記載があります。


  〈又言身中有三尸。三尸之為物雖無形而実霊鬼神之屬也。欲使一早死。此尸當得作鬼自放縦遊行饗人祭酧。是以毎到庚申之日輙上天白司令道人所為過失。又月晦之夜竈神亦上天白人罪状。〉 (抱朴子内篇 第六微旨)


抱朴子は言います。「身中に三尸がいる。三尸に形は無いが、霊体であり鬼神の仲間である。その人を早死にさせようとして、欲望や本能をほしいままにさせる」、つまり、「身中の鬼」が、『蜻蛉日記』に先立つ頃、信仰対象として広まりつつあったのです。「身」に鬼がいるとなれば「心」にはどうかと考えの向かうのが、これもまた、自然な物の思いようではないでしょうか。

「心の鬼」は、やはり人々が、信仰生活を持つゆえに自らを内観し、先行作品に依拠せずして、おのずから醸成された言葉ではないかと、見当をつけられそうです。








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