田川市石炭・歴史博物館のブログ

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田川の『歴史のひとコマ』 田川農林高校から

2016年10月10日 | 日記

皆さん、こんにちは。

さて、田川市と香春町のちょうど境に『鎮西公園』という公園があります。
ここから東の香春町にかけての一帯は「鎮西原【ちんぜいばる】」と呼ばれ、香春町内の鎮西原には、福岡県立田川農林高等学校の跡地があります。
この学校は、明治42年、農業の科学化や食糧増産のための人材を育てるために田川郡立田川農林学校として発足し、平成19年に福岡県立田川科学技術高等学校に統合という形で閉校しました。

98年間で12411人の卒業生が巣立ち、地元を始め各界を支える多くの人材を輩出したこの学校の跡地には、『鎮西原為朝屋敷』と彫られた碑が立っています。



平安時代末期、源頼朝と平清盛との源平合戦の少し前の時代、この地に源頼朝・義経兄弟の叔父で、強弓を引く大男の武者として恐れられ有名な「源為朝【みなもとのためとも】」通称「鎮西八郎為朝【ちんぜいはちろうためとも】」の館があったというものです。

為朝は、源為義の八男であり、頼朝、義経の父である義朝の弟として1139年に生まれました(八郎の由来は八男のため)。
七尺(約2m10cm)の身長と怪力を持ち、数人がかりで弦を張るような強い弓を使う、傍若無人の乱暴者で、13歳のとき勘当され、九州(鎮西)豊後国(現在の大分県)に追放されますが、その後も大人しくはならず、各地に戦を仕掛け3年のうちに九州を事実上支配するようになります。

碑の隣にある案内板によると、この地に移り屋敷を構えて2年弱住んだとあります。
その理由は、当時の田川が九州の交通の要地であったからだと思われます。

為朝は自分を「鎮西総追捕使【ちんぜいそうついぶし】」と自称し、「鎮西八郎為朝」と呼ばれるのを好んだそうです。
そのことからこの辺りの土地は「鎮西原」と呼ばれるようになりました。
現在は、古代の寺院跡である「天台寺」の遺構(上伊田廃寺)のある所が「鎮西公園」になっており、田川農林高校跡地の東側の田畑になっている低地は当時の堀の跡ともいわれています。

為朝のその後について触れておきます。

朝廷は、為朝の行動を問題とし呼び戻すため、父為義の官職を罷免します。
数え17歳のときに、鎮西武士の強者28騎の部下とともに都に戻った為朝は、翌年、崇徳上皇と後白川法王の権力争いである保元の乱に巻き込まれ、父為義に従い崇徳上皇方に就き、後白川法王方に就いた兄義朝との間で奮戦しますが敗北。

父と他の兄弟は兄義朝の手で斬首になりましたが、武勇を惜しまれた為朝は弓を使えないように肘を外されて伊豆大島に流刑にされました。
しかしその後、肘の傷を癒し復活したあとは、伊豆七島を支配するようになったため、ついに朝廷の討伐を受け自害したとされています。
このとき為朝32歳、保元の乱では、義朝側にいた600人の平清盛軍を敗走させ、強弓により一矢で敵二人を仕留めたり、自害のときには押し寄せた船を矢で沈めたなど、今なお伝説の武者です。

このような、伝説に満ちた魅力的な歴史的人物も、田川に深い縁があるのです。

同じ香春町には「鶴岡八幡神社」があります。

この神社は、為朝が源氏の守り神である鎌倉の「鶴岡八幡宮」から勧請【かんじょう/神霊を分霊し他の神社に移すこと】したといわれ、毎年10月には為朝にちなむ流鏑馬【やぶさめ】が行われています。



今回は、為朝の館跡の伝承についてご説明しました。
博物館にお立ち寄りの際は、ぜひ、その『歴史のひとコマ』を感じに現地にもお立ち寄りください。