天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

4.靖国神社と天皇陛下

2017-05-18 15:24:59 | 時事


靖国神社の英霊のことを良く太平洋戦争の戦没者達は「天皇陛下の為に死んだ」と言われる。

それは「天皇陛下万歳」と叫びながら突っ込んで行ったからというイメージからくるものであり、
一緒に「無駄死に」「犬死に」「餓死」等の陰惨な言葉と併記して国家神道をカルト宗教の様に印象付ける。

戦争を放棄し二度と繰り返さない為の反省として行われてきたことであり、仕方の無いことかも知れないが、「戦争」「靖国」「天皇」があまりにも同列に扱われすぎタブー視されることで遠ざけ過ぎて来たのではないだろうか。

国民主権とは西欧諸国の王政を国民が倒して得られる権利であり、日本の君民一体ではあり得ない言葉である。

つまり、国民は国と天皇を守るため天皇は国民、と国を守る為に戦ったのであり、天皇は国民と国を守る為にポツダム宣言を受け入れ、国民はその条件に天皇を守ることとしたのである。

そして國體は護持された。

いや、護持されたのだろうか、それさえ曖昧に國體という言葉を占領軍が奪ったから護持しておきながら日本国民にはチョコレートの様に国民主権を配ったのだ。

靖国は解体されずに残った。

戦争を放棄した国民に何故靖国神社が必要なのか、この答えこそ難しい。そしてその答えは何故天皇が必要なのか、と同じであるようにも思える。

『この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれいは深し』

天皇陛下、少なくとも昭和天皇は崩御される寸前まで靖国のことを心配されておられたことが御製から読み取れる。

その心配は靖国が無くなりはしまいか、との御心配である。

以前に書いたが、靖国は広島の原爆ドームの14万人、その20倍近くの英霊が祀られている。
ドームと同じ平和へのモニュメントの役割も靖国は果たしている。

しかし、靖国は逆に戦争を想起させ或いは戦争をしたいから、戦犯も祀るから、単なる宗教法人だから、とドックレース場でも作るかの勢いで問題化されてきた。

皇室はどうだろうか、天皇陛下万歳は右翼のイメージとして避けられ、国旗すら満足に掲げない、
そして、女性宮家を創設しようとする勢力。

もう一度言う、國體は護持されたのだ。

3.富田メモの意味

2017-05-18 13:03:07 | 時事



前回の富田メモの解釈で昭和天皇は少なくとも松岡、白鳥以外の所謂A級戦犯に対してはそれ程不快感を現しておられない、寧ろ合祀によって御親拝が中断され、再開する兆しの見えない事への不快感であると記したが、では何故秦氏等は「昭和天皇戦犯合祀に不快感」との発表をしたのであろうか。

今回は人々の英霊と戦犯に対する気持を考え、昭和天皇が戦犯に不快感と解釈した目的と疑問に迫りたい。


靖国神社に所謂A級戦犯が合祀されていることに不満の声を上げる者は国内と国外に其々存在する。
日本では戦争責任者と呼び、中国では戦犯の事を戦争発動者と呼んでいる。


日中友好協会の副会長談

「戦死者の家族が参拝できる場所を望むのは理解できるが、内閣や政治家が靖国神社を参拝するのは問題である。戦犯を祀るというのは相応しくないこと、祀られている人たちは一度も靖国神社を訪れたことがないのだから。」


よく分からないが要するに戦争発動者を祀ってある場所に政府関係者、内閣や政治家が参拝するのは問題で、他の戦没者と一緒に祀ったから我々は声をあげているのであり、靖国神社や他の英霊を戦没者の家族が参拝することは何ら問題ではない、ということだ。

つまり、如何なる理由があれ現政府や政治家は靖国神社並びに三ヶ根山の殉国七士廟に行くのは問題である。甚だしい内政干渉である。

また、戦犯が問題で靖国神社には何ら問題がない、とも言っている。

一方国内では如何だろうか、国内の反対派は実は中国よりも強硬で現在では下火となった戦犯を分祀しろ、更に靖国神社自体にも反対している。

この日本国内の反応は所謂A級戦犯は昭和殉難者として処刑された者は執行とともに罪は消え、服役中の死亡も同様である。

従って日本国内には戦犯や責任者は存在しないのであり、中国と同じ主張は出来ないのでその分靖国神社自体の歴史、本質、宗教、等や戦没者の家族が減少している現実もあって神社を否定するしかなくなったというのが現状だろう。

もう少し要約すれば国外からは参拝という行為、国内からは靖国神社という施設に対して異論の声があるのだ。これは近年の特徴であり、国家護持法案、分祀論が消えてからのことである。

要するに冒頭中国の『戦死者の家族が参拝できる場所を望むのは理解できるが』と国内世論の『靖国反対』は当初同じであったものが変化してきたことがわかる。

つまり、国内の反対派と中国の反対派がかならずしも連動しなくなっており、左派に根強い新たな追悼施設建設がこれらを再強化する為の暴論であることを証明している。

従って昭和63年の富田メモが平成18年に発表された『昭和天皇戦犯合祀に不快感』は戦犯を貶め分祀論を通すためのナベツネを中心とするグループの姑息な曲解であったと言えよう。

岡崎体育と宮崎駿

2017-05-18 10:23:09 | 映画
音楽とアニメ映画というジャンルが違うものの両者は天才的という意味では非常に似ているのでないかと思う。
始めに断っておくが、あくまでも宮崎氏が政治的主張をしなければ、という注釈を付けての話である。

宮崎氏が作画と演出、体育氏が歌と演者、演出という意味では遥かに宮崎氏を凌駕しているとも言える。

収益という下世話な話も置いておくが、両者は何がウケるのかに対して非常にたけており、視聴する側の需要に対して絶妙なタイミングで供給しているとも言える。

つまり椀子そばの給仕にも似た供給過剰にあわせて客が操られついつい食べ過ぎてしまうが、お椀を伏せることで食べ終わる客とそれを阻止する様に素早く蕎麦を投げ込む攻防で成立する世界である。

これを可能にするには見る者の気持ちや視点になり何を望んでいるか、何が観たいのかを承知していないと話にならない。ただ自分がやりたい事だけを最高の技術で作っているだけでは駄目なのだ。

純真無垢な子供の視点、多少の差別や偏見も合わせ持つ自由な子供の目線を持った者が天才になり得る素質だろう。

宮崎氏は引退しており、安易に比較することは出来ないが、そう言う意味では政治的な事を語らない体育氏の方が前途洋々だろう。

全然違う、比べるな、とお叱りの声が宮崎ファンから届きそうだが、体育氏を持ち上げすぎたとも自省している。