村上春樹「騎士団長殺し」からリテラが抜粋したものを抜粋。
➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖
『「日本の歴史に目を向けても、その前後にはいくつかの重要な事件が持ち上がっています。いくつかの致命的な、破局に向けて後戻りすることのできない出来事が。思い当たることはありますか?」
(略)
「盧溝橋事件があったのはその年でしたっけ?」と私は言った。
「それは前の年です」と免色は言った。「一九三七年七月七日に盧溝橋事件が起こり、それをきっかけに日本と中国の戦争が本格化していきます。そしてその年の十二月にはそこから派生した重要な出来事が起こります」
その年の十二月に何があったか?
「南京入城」と私は言った。
いわゆる南京大虐殺事件です。日本軍が激しい戦闘の末に南京市内を占拠し、そこで大量の殺人がおこなわれました。戦闘に関連した殺人があり、戦闘が終わったあとの殺人がありました。日本軍には捕虜を管理する余裕がなかったので、降伏した兵隊や市内の大方を殺害してしまいました。正確に何人が殺害されたか、細部については歴史学者のあいだにも異論がありますが、とにかくおびただしい数の市民が戦闘の巻き添えになって殺されたことは、打ち消しがたい事実です。中国人死者の数を四十万人というものもいれば、十万人というものもいます。しかし四十万人と十万人の違いはいったいどこにあるのでしょう?
もちろん私にもそんなことはわからない。
〈叔父(=継彦)は上官の将校に軍刀を渡され、捕虜の首を切らされた。
(略)
帝国陸軍にあっては、上官の命令は即ち天皇陛下の命令だからな。叔父は震える手でなんとか刀を振るったが、力がある方じゃないし、おまけに大量生産の安物の軍刀だ。人間の首がそんな簡単にすっぱり切り落とせるわけがない。うまくとどめは刺せないし、あたりは血だらけになるし、捕虜は苦痛のためにのたうちまわるし、実に悲惨な光景が展開されることになった。〉
〈叔父(=継彦)はそのあとで吐いた。吐くものが胃の中になくなって胃液を吐いて、胃液もなくなると空気を吐いた。
(略)
上官に軍靴で腹を思い切り蹴飛ばされた。
(略)
結局彼は全部で三度も捕虜の首を切らされたんだ。練習のために、馴れるまでそれをやらされた。〉
しかも、ここで描かれているのは、加害者になることの悲劇だ。雨田具彦も弟・継彦も戦争に深く傷つけられ大きく人生を変えられた。しかし作中、具彦のことも、継彦のことも、戦争の「被害者」という立場だけにとどめることはしない。
それは、継彦の手による殺戮について、継彦の甥である友人・雨田政彦が
〈「(叔父は)ショパンとドビュッシーを美しく弾くために生まれてきた男だ。人の首を刎ねるために生まれてきた人間じゃない」〉
〈いったん軍隊みたいな暴力的なシステムの中に放り込まれ、上官から命令を与えられたら、どんなに筋の通らない命令であれ、非人間的な命令であれ、それに対してはっきりノーと言えるほどおれは強くないかもしれない〉と同情的な姿勢を示したときの反応によく表れている。
〈私〉は、〈「人の首を刎ねるために生まれてきた人間が、どこかにいるのか?」〉と反論し、〈私は自分自身について考えてみた。もし同じような状況に置かれたら、私はどのように行動するだろう?〉と自らに問いかけるのだ。
雨田具彦についても同様だ。ナチスに抵抗しようとした勇敢な日本人がいた、というような書き方はしない。恋人もふくむ同志たちは全員殺害されたが、雨田具彦だけは日本とナチス・ドイツの同盟関係のおかげで生き残った。日本に強制送還されたことは、実質は「救出」だと繰り返し指摘する。
〈その一年半ほど前に日独防共協定が結ばれたばかりで、日本とナチス・ドイツとの結びつきは日を追って強くなっていきました〉
〈一九三六年十一月には日独防共協定が成立し、その結果日本とドイツは歴然とした同盟関係に入っていきます〉
〈ミュンヘン会談でとりあえず戦争は避けられたが、ベルリンと東京の枢軸は強化され、世界はますます危険な方向に向かっていった〉
わたしはドイツ兵のために色彩画を描いている。肖像画なんかを。連中は親戚やら奥さんやら、母親やら子どもたちやらの写真を持ってくる。誰もが肉親を描いた絵を欲しがるんだ。親衛隊員たちは、自分たちの家族のことを感情豊かに、愛情を込めてわたしに説明する。その目の色や髪の色なんかを。そしてわたしはぼやけた白黒の素人写真をもとに、彼らの家族の肖像画を描くのさ。でもな、誰がなんと言おうと、わたしが描きたいのはドイツ人たちの家族なんかじゃない。わたしは〈隔離病棟〉に積み上げられた子供たちを、白黒の絵にしたいんだ。やつらが殺戮した人々の肖像画を描き、それを自宅にもって帰らせ、壁に飾らせたいんだよ。ちくしょうどもめ!」』
➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖
リテラは「歴史学者の中で異論がある、40万とも10万とも言うものがある」と断定はしていない、
これを40万人という数字だけあげて批判し、騒ぐ
百田氏はネトウヨとリテラにしては抜粋もして、正確に分析している。
しかし、問題の南京事件部分は酷く、無責任で不確実な歴史の引用である。
【いわゆる南京大虐殺事件です。
日本軍が激しい戦闘の末に南京市内を占拠し、そこで大量の
"殺人"がおこなわれました。戦闘に関連した
"殺人"があり、戦闘が終わったあとの
"殺人"がありました。
日本軍には捕虜を管理する余裕がなかったので、
《降伏した兵隊や市内の大方を殺害してしまいました。》
正確に何人が殺害されたか、細部については
"歴史学者"のあいだにも異論がありますが、
《とにかくおびただしい数の市民が戦闘の
"巻き添え"になって殺されたことは、打ち消しがたい事実です。》
中国人死者の数を四十万人というものもいれば、十万人というものもいます。しかし四十万人と十万人の違いはいったいどこにあるのでしょう?
もちろん
《私にもそんなことはわからない。》】
"殺人"という言葉を3回も繰り返し、不確実な降伏した兵隊や市内の大方などの曖昧な表現、歴史学者の間では異論があるにもかかわらず、おびただしい数、市民が殺された、と虐殺部分は何度も強調している。
"打ち消し難い事実"を最後に書き、10万〜40万とするところを意図的に40〜10とする事で40を印象付けている。
これでは何も知らない者が読めば『南京事件は40万人近くの無抵抗な兵士と市民を虐殺したことは事実』と読めてしまう恐ろしい文章なのである。