天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

戦争体験の書き方

2017-08-11 07:37:26 | 時事

8月10日livedoor'ニュースに次のような記事を見つけた。8月15日近くになれば戦争体験のニュースがまるでスクープのように、トップに躍り出る。

その書き方の特徴を記事を見ながらチェックしていきたいと思う。


《戦争を考える》日本兵による日本兵の殺害を証言した98歳「やり残したことがある」

 沖縄戦経験者の元日本兵、飯田直次郎さん(98)は、昨年ごろから、住民に対し悪行を働いた海軍の軍曹を殺害したことを証言し始めた。日本兵による日本兵の殺害に関する証言は極めて珍しい。



 飯田さんは1944年、東部第六二師団下田部隊に入隊し、沖縄へ向かった。

 それまでは教育部隊に所属、中国戦線に6年半、派兵された。いったん本土へ戻ったときに結婚。半年後に再び派遣されるが、このとき、妻は身ごもっていた。

「いつ召集がくるかわからないから、妻も覚悟のうえだったはず。それが当たり前でした」

 【沖縄戦は、アメリカ軍の本土上陸を遅らせる時間稼ぎの作戦だった。】飯田さんが沖縄に派遣されたのは、アメリカ軍の潜水艦攻撃が激しくなったためだ。

「最初は台湾に行くはずでしたが、途中の下関で船が止まって、別の部隊が台湾へ。そのため、私たちの部隊は沖縄に行くことになったんです」

 このころ、すでに飯田さんは“日本が負ける”と思っていたという。なぜか。

「最後に来た部隊は竹槍(たけやり)を持っていました。銃がないんです。“ああ、これはダメだな”とあきらめました」

 11月末、飯田さんらは那覇に上陸した。識名の守備軍として配備されたが、那覇は10月10日の大空襲ですでに廃墟になっていた。

 その後、飯田さんは沖縄戦最後の激戦地・摩文仁村(現在の糸満市)に移動。ここで「佐々木」という海軍の軍曹を殺害した。いったいどういうことか。


 ’45年6月ごろ、飯田さんは、一緒に逃げてきた日本海軍兵や周辺住民と過ごすなど交流があった。

「食糧が少なく、餓死した人も多い。でも、住民とは仲よくやっていました。部隊には軍から鯨の缶詰の配給がありましたから、それを住民にも配った。私たちは住民からサツマイモなどをもらって。イモの葉っぱは常食でしたよ」

 しかし海軍の軍曹・佐々木は、住民を殺害したり、女性を強姦したり、食料を強奪していた。近くで水が飲めた唯一の井戸を独占している、という話も【住民から聞いた。】

「住民が泣きついてきたんです。佐々木は自分だけ生き延びようとしていた。反感を持たれていました」

 ウワサだけでなく、飯田さん自身も佐々木の【蛮行を目撃する。】もう限界だと思った。

「見て見ぬふりをしている人もいた。佐々木の命令で同じようにしている人もいた。あまりにもひどい。【日本から兵隊が行ったからこそ、沖縄の島民は苦労したというのに」】

 そのため、佐々木を殺害することを思い立つ。

 「佐々木さえいなければ、なんとかしのげて、水も飲めるのに」

 飯田さんは、仲間と一緒に殺害計画を立てた。井戸で住民に嫌がらせをしていた佐々木に近づき、後頭部に銃を突きつけ、引き金を引いたのだ。

 この佐々木殺害の件について、飯田さんは2年前から証言するようになった。

 関係者がほとんど亡くなっているということもあるが、「やり残したこと」として、記録に残すことを決めた。

「本当は誰にも話さず、心に秘めて亡くなろうと思ったんです。日本人同士の争いは恥ではないかと。でも、そのことを知っている人はもう私しかいない」

 飯田さんは戦後2年たって実家へ戻った。その後、これまでに37回、沖縄へ行き慰霊の旅を続けている。

 戦友から寄付を募り、部隊が全滅した場所に慰霊碑も建てた。

 飯田さんはアメリカ軍から逃げる牧港付近で、背後から撃たれた。火炎放射器によって100人ほどいた兵隊はほとんど焼死。生き残った飯田さんは、そのときの銃弾がまだ身体の中にある。傷は、沖縄戦の悲劇を物語り、日本兵による日本兵の殺害は、貴重な証言となっている。

「沖縄ではいろんなことをした。嫌な思い出は残っているけど、いい思い出は何もないよ。戦争は勝っても負けてもよくない」


取材・文/渋井哲也

ジャーナリスト。栃木県那須郡出身。長野日報を経てフリー。いじめや自殺、若者の生きづらさなどについて取材。近著に『命を救えなかった―釜石・鵜住居防災センターの悲劇』(第三書館)

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気になる箇所に【 】を入れた。
戦争体験を記事にする場合、本人の発言を元に、どのような言葉を付け足すかで如何様にも印象操作出来る。基本的に歴史観には触れず、戦争への反省と贖罪意識の啓発の為に日本軍の加害性を強調し、出来る限り残虐な被害を語り、戦争自体の憎悪と恐怖を植付けるのだ。

最初にある【沖縄戦は、アメリカ軍の本土上陸を遅らせる時間稼ぎの作戦だった。】は飯田さんとの関連は沖縄戦だけである。つまり取材者渋井氏がこの取材を通して一番伝えたいことがこれだ。

沖縄戦は本土上陸を遅らせる日本の作戦であるかのようにかいている。これが『沖縄は捨石にさせられた』を形造るキモである。

正しくは、沖縄戦は本土上陸を結果的に遅らせたが時間稼ぎではない。このように反戦のためであれば歴史捏造も許されると言わんばかりに捨石と恣意的に解釈するわけだ。

詳しくは過去ブログ『「沖縄は捨石になった」のデマゴーグ』をご覧いただきたい。




更に飯田さんの発言

【住民から聞いた。】

【蛮行を目撃する。】

【日本から兵隊が行ったからこそ、沖縄の島民は苦労したというのに」】


彼の上官を射殺した根拠が【住民から聞いた。】と【蛮行を目撃する。】であるが、肝心な上官の蛮行に少しも触れておらず、聞いた話と印象で撃ってしまったようにとられてしまう可能性、戦争犯罪人のイメージで飯田さんは見られてしまうリスクが残る。

更には、【日本から兵隊が行ったからこそ、沖縄の島民は苦労したというのに」】との暴論を書くこととなってしまう。

書かなくても良いことを書き、書かなければならないことを書いていないのだ。

敗戦が濃厚で十分な兵力も送れない中、負けを確信したのは彼だけではないだろう。統率力も士気も下がっている中で、日本軍の使命は沖縄県民を守ることであるのは自明の理であり、敵アメリカから守るのだ。

海軍上官の厳しい飲み水や食料の管理の態度が必ずしも間違っているとは言えない。飯田さんの行為は県民を助けるという見方も出来る。

やはり、間違っているのは渋井氏の「時間稼ぎ」の為の捨石、「日本から兵隊が行ったからこそ、沖縄の島民は苦労したというのに」との飯田さんの発言を掲載したことである。

最後にチャンネル桜の水島社長が語る県民の話で終わる。











●沖縄戦のとき、沖縄の人たちは「鉄の嵐」といわれる、地形も変わるほどのものすごい米軍の艦砲射撃の中で、穴倉で兵隊も民間人も閉じ込められていた。
水も食糧も尽きようとしていたとき、一時だけ砲撃が休まったことがあった。その間に人々は穴からはいずり出して、病人を運び、食糧を調達した。
その時、人々が海の方向で見たものは、米戦艦に向かって一機、また一機と突っ込んでいく特攻機の姿だった。沖縄の人々の命を長らえるために、一人一人の特攻隊員が命を捧げて、そのわずかな時間をつくってくれた。沖縄県民たちは、両手を合わせ涙を流した…。
という話を沖縄の手登根安則さんから聞いた。これが日本人である。
     《水島総 チャンネル桜2014/9/26》