しばらくぶりに古書店に行った。昔、古書だった本に加え、自分が若かった時代に多数出版された本も、相当な古書となっていた。学術書の著者たちはその分野で懸命に研究し、本まで出したのだろうが、誰ももうこの世にはいない。そうと思うと、見知らぬ著者たちの姿も自ずと想像され、いささか寂しい。
— Riki67 (@tikarato) 2016年9月25日 - 17:51
古書店に行った。学術書の類は価格は高いが、多くの人にとっては、無用、無価値。それらを持っていた人が亡くなると、遅かれ早かれ遺族にとっても、場所ふさぎの迷惑なものになる。だから生きているうちに万感の思いを込めて本人が処分すればよいのだが、それができるひとはやはり少ない。
— Riki67 (@tikarato) 2016年9月25日 - 19:00
本を読むのは時間がかかるし、苦痛なこともあるが、それだけに本は、自分の人格や精神に近いものと見えてきて、なかなか処分することができない。今までの自分の精神や人格をある程度否定し、見っともない自己愛は全て捨てるぐらいの覚悟がないと、本は生きているうちに捨てられないかもしれない。
— Riki67 (@tikarato) 2016年9月25日 - 19:32
@hana238823
— Riki67 (@tikarato) 2016年9月25日 - 19:56
遺族には尊敬する故人の遺品、学者ならその本などをなかなか処分できないという気持ち、よくわかります。単に迷惑な物ではない。だからこそ、その処分の難しさを考えて、生きているうち本人が何とかするということもあるかもしれませんね。
古書店主や骨董屋さんにとって、蔵書者やコレクターよりも、その遺族から本や美術品を買う方が明らかに喜ばしい。90%が価値が無くとも、残り数%に「掘り出し物」があればよいから、遺族から一括で安く買い取る。「掘り出し物」を最初に発見するのは、それを買う人よりも、それを売る方の人だろう。
— Riki67 (@tikarato) 2016年9月25日 - 20:42
銀座の画廊、あまりお客が入っていない様子でよくやっていけるなと思ったことがある。
— Riki67 (@tikarato) 2016年9月25日 - 20:53
だが、考えてみれば、お金もなく、買う気もないお客がわんさと入ってくるよりも、確実に買ってくれるたった1人の顧客がいればよいのだった。