昨日のニュースに100メートルの鯉のぼりというのがあった。私の現代美術とかアートというのはこれでいい。
花火もそうだが、人為と自然、大きな空間と時間、子供も大人も楽しませるアート。「アート」という言葉など要らないアート。
アートは、時にアートという言葉を忘れた方がいいのではないか。
**
昨日、浅田彰氏のブログ記事読んだ。「昭和の終わり、平成の終わり」というタイトル。浅田氏はたしか今上天皇とほぼ同じ世代。
***
中野京子著『運命の絵』の最初、マネの「フォリー・ベルジェールのバー」のところを読む。マネとモーパッサンの共通点である梅毒という病や、後者の『ベラミ』の記述を核に話が進む。モデルの女性の内面や生い立ちなどの社会的背景を、巧みな比喩を交え、思い入れを込めて探る。
ただ、この章の最後、マネが印象派展に一度も参加しなかったと何だか強調して締めくくっているようだが、文章内容にあまり必然性が感じられず、ちょっと物足りない。
****
「ダビンチ晩年の肖像画確認英王室所蔵品、公開へ」この記事、<レオナルドが晩年に描いた肖像画>を確認した、ではなく、<晩年のレオナルドの顔を(弟子か誰かが)描いた肖像画>を確認した、の意味らしい。
本屋さんに行ってみると、この間までフェルメールの本がいっぱい並んでいると思ったら、今は仏像の本がいっぱい並んでいた。
*****
今日の読売、北斎の「西瓜図」に関する記事、興味深かった。
北斎の「西瓜図」、近年の研究に敬意を表するが、仮に見立図としての図像内容や作品来歴を知らないままでも、子規と同様、この図のレアリスムや超現実的に思えるモティーフの斬新性に驚く人は多いだろう。
今日の読売、雪舟の「秋冬山水図」についての綿田稔氏談による記事も面白かった。「室町時代の絵を見慣れていなければ、『冬景』の描写は理解しにくいかもしれない。中央を縦に走る筆の線は…」セザンヌ以降の近代西洋画を見慣れた眼では、中央の線は、あたかも空間を裂いているように見えたのだ…
前にもこんなことを書いたことがある。
雪舟の冬景図が原寸大で元旦の読売に出ていた。私は高校生頃まで、あの画面右手上半分を占める岩塊を、岩塊とは捉えず、奇妙な空間の裂け目のようなものとしてみていた。それは私が、雪舟の筆法よりも先にセザンヌのそれに関心を抱いていたためだ。
******
「日本国憲法を守り」と「日本国憲法にのっとり」とでは、微妙に意味が違う、受け取り方が違ってくるという意見がある。その通りだと思う。こういう表現は、あくまでも変えないで、しっかりと「踏襲」していいのではないかと。