ポーラ美術館の中村彝の作品「泉のほとり」は、ルノワールの影響が濃厚な作品であり、そのため、確認できないルノワール作品の模写と誤解されていたことがあった。
だが、「たましん」所蔵の中村彝「裸婦立像」(1919年作)(下図)は、全くその反対の作品であった。
これは、小さな作品であるが、彝の支援者であり、手紙もよくやり取りしていた伊藤隆三郎がかつて持っていた作品である。画面右上にT.Nakamoura(またはT.Nakamura)の署名があり、左上にはInspiré de R.1919の書き込みがある。
私は、この作品をよく調べもしないで、先入観にとらわれ、この書き込みを単に「ルノワール(Renoir)に刺激を受けた作品」と読んでしまった。従ってルノワール風な作品ではあるが、彝のオリジナルな作品であり、模写の可能性があるなどとは全く考えもしなかった。
おまけに1919年はルノワールの没年でもあるから、彝が彼に捧げた「オマージュ的な作品か」などと余計な推測まで付け加えて、自著(1991年刊)の中の<中村彝年譜>に書き記してしまった。
彝がいくらルノワールの芸術に夢中になっていたとはいえ、ルノワールが亡くなったのはこの年の12月3日であるから、彼はそれほど敏感には反応できなかったかもしれないのに、私は冷静さを欠いていた。(ルノワールの訃報は12月中に日本に届いており、まあ、ありえない話ではなかったのだけれど・・・。)
彝が敬愛した芸術家で、Rがつくのはレンブラント(Rembrandt)、ロダン(Rodin)、ルノワール(Renoir)の3人がいるが、豊満な女性裸体像と印象派風の素早いタッチから、このRがルノワールのRであることは明白と思われた。私の彝年譜を参考にしたか、しないかは分からないが、彝のある画集の作品解説にも、やはりルノワールのRと読んでいるものがあった。
ところがある日、全く無関係な美術の本を読んでいた時、私はプラド美術館にあるルーベンス「三美神」の挿図にふと眼がとまった。これは、有名な作品であり、もともと知っていた画像であるから、ふだんなら珍しくもなくやりすごしたところだったが、その時は、「これだ!」という感じが起こって、その三美神のうち、向かって左側の裸像に眼がひきつけられた。「なんだ、これじゃないか!ルノワールじゃないぞ!」と呟いていた。下図がそのルーベンスである。
私の脳は、彝の「裸婦立像」の画像を記憶していて、その起源を別個に探っていてくれたのだ!だが、その裸像は、ルーベンス作品の一部分であったため、すぐには気がつかなかったのである。
もし、ルーベンス作品の全体像が模写されていたら、いかにそれが印象派風の素早いタッチであったとしても、私はすぐにその源泉を探し出すことできたろうし、私でなくても、誰でもすぐにルーベンスのかなり自由な模写だと美術史を学んだ者なら、気づいたことであろう。
だから、Rの意味ももちろんルーベンス(Rubens)のことだと分かったに違いないのに、こうして画像が分断されてしまうと、容易には元の画像が想像できなくなってしまうのだ。
非常に有名なプラド美術館のルーベンスの「三美神」であったが、彝の小品とは結びつかなくなるのである。
しかし、再び何気なくこの画像に出会ったとき、全体にではなく<部分>にも反応できたのは、脳が無意識的に彝の「裸婦立像」の真の源泉を探っていたからだろう。おそらく、冷静さを欠いて余計な推測まで付け加えていた以前の自分を批判している自分が幸いにもそこにいたからだろう。
※初めてこの<R>の秘密に関する小論を書いた後、私が茨城県つくば美術館で仕事をしている頃、彝が持っていたルーベンスの「三美神」の複製画が、ある人から茨城県近代美術館に寄贈されたことを聞いた。もっと早く彝が持っていたこの複製画の存在が明らかにされていたら、もちろん、この秘密ももっと容易に解けていたろう。しかし、それにしても部分の模写、それもかなり自由な部分の模写となってしまうとなかなかその全体像に思い当たらないのである。
だが、「たましん」所蔵の中村彝「裸婦立像」(1919年作)(下図)は、全くその反対の作品であった。
これは、小さな作品であるが、彝の支援者であり、手紙もよくやり取りしていた伊藤隆三郎がかつて持っていた作品である。画面右上にT.Nakamoura(またはT.Nakamura)の署名があり、左上にはInspiré de R.1919の書き込みがある。
私は、この作品をよく調べもしないで、先入観にとらわれ、この書き込みを単に「ルノワール(Renoir)に刺激を受けた作品」と読んでしまった。従ってルノワール風な作品ではあるが、彝のオリジナルな作品であり、模写の可能性があるなどとは全く考えもしなかった。
おまけに1919年はルノワールの没年でもあるから、彝が彼に捧げた「オマージュ的な作品か」などと余計な推測まで付け加えて、自著(1991年刊)の中の<中村彝年譜>に書き記してしまった。
彝がいくらルノワールの芸術に夢中になっていたとはいえ、ルノワールが亡くなったのはこの年の12月3日であるから、彼はそれほど敏感には反応できなかったかもしれないのに、私は冷静さを欠いていた。(ルノワールの訃報は12月中に日本に届いており、まあ、ありえない話ではなかったのだけれど・・・。)
彝が敬愛した芸術家で、Rがつくのはレンブラント(Rembrandt)、ロダン(Rodin)、ルノワール(Renoir)の3人がいるが、豊満な女性裸体像と印象派風の素早いタッチから、このRがルノワールのRであることは明白と思われた。私の彝年譜を参考にしたか、しないかは分からないが、彝のある画集の作品解説にも、やはりルノワールのRと読んでいるものがあった。
ところがある日、全く無関係な美術の本を読んでいた時、私はプラド美術館にあるルーベンス「三美神」の挿図にふと眼がとまった。これは、有名な作品であり、もともと知っていた画像であるから、ふだんなら珍しくもなくやりすごしたところだったが、その時は、「これだ!」という感じが起こって、その三美神のうち、向かって左側の裸像に眼がひきつけられた。「なんだ、これじゃないか!ルノワールじゃないぞ!」と呟いていた。下図がそのルーベンスである。
私の脳は、彝の「裸婦立像」の画像を記憶していて、その起源を別個に探っていてくれたのだ!だが、その裸像は、ルーベンス作品の一部分であったため、すぐには気がつかなかったのである。
もし、ルーベンス作品の全体像が模写されていたら、いかにそれが印象派風の素早いタッチであったとしても、私はすぐにその源泉を探し出すことできたろうし、私でなくても、誰でもすぐにルーベンスのかなり自由な模写だと美術史を学んだ者なら、気づいたことであろう。
だから、Rの意味ももちろんルーベンス(Rubens)のことだと分かったに違いないのに、こうして画像が分断されてしまうと、容易には元の画像が想像できなくなってしまうのだ。
非常に有名なプラド美術館のルーベンスの「三美神」であったが、彝の小品とは結びつかなくなるのである。
しかし、再び何気なくこの画像に出会ったとき、全体にではなく<部分>にも反応できたのは、脳が無意識的に彝の「裸婦立像」の真の源泉を探っていたからだろう。おそらく、冷静さを欠いて余計な推測まで付け加えていた以前の自分を批判している自分が幸いにもそこにいたからだろう。
※初めてこの<R>の秘密に関する小論を書いた後、私が茨城県つくば美術館で仕事をしている頃、彝が持っていたルーベンスの「三美神」の複製画が、ある人から茨城県近代美術館に寄贈されたことを聞いた。もっと早く彝が持っていたこの複製画の存在が明らかにされていたら、もちろん、この秘密ももっと容易に解けていたろう。しかし、それにしても部分の模写、それもかなり自由な部分の模写となってしまうとなかなかその全体像に思い当たらないのである。