美術の学芸ノート

中村彝などの美術を中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術の他、つぶやきやメモなど。

メナードとポーラの中村彝作品(2)

2015-06-19 01:02:26 | 中村彝
 メナード美術館の中村彝作品は、この画家が熱い思いを寄せた俊子の像3点の油彩画に特徴があり、コレクター側の並々ならぬ熱意と関心が窺われる。これが公立美術館だと「もう俊子像は1点あるのだからいいじゃないか」ということに、たいていはなるだろう。
 
 私立美術館は、こういうところが、経営者なり、あるいは館長なり、収集する側の強い意向が反映されて、しかも、即断して良い作品を比較的安く収集できるメリットがある。

 公立美術館はこうした点がどうしても弱い。当たり障りのない選択で、世界的にあるいは国内的に有名な作家の作品を高いお金を出して買い取るということになりがちなのだ。
 それも一級作品ならよいが、有名作家の作品は、もうすでに二級以下の作品しか残っていないという場合が多い。
 それでも税金を払っている人々の<多様な趣味>を<平等>に満足させようとして、結局は誰にも強い感動を与えることができないような作品を買ってしまうのである。
 こういうメカニズムは、よく知られているところだろうが、「議会が・・・」、「予算が・・・」ということで、本当に買うべき作品が逃げて行ってしまう。なら、議員を説得し、予算を獲得するのは誰の仕事なのか?
 
 それでも高いお金を払って買った作品だから、学芸員はその作品の価値を少しでも高めようとしなければならない。だが、そんな場合、その作家の偉大さやいかに有名かは説明できても、目の前の作品の魅力が語られることは少ない。いや、できないのだ。これは無駄遣いではなかったのか?良心が傷む。
 純粋な子供たちを前にして、この芸術家がいかに偉大であり、いかに有名かなどと話しても、芸術の本質からますます離れていくばかりだろう。 
 
 とは言え、それなら企業の美術品愛好者が良い作品を集められるかというとそうでもない。
 バブルの時代にある会社の会長さんがルノワールの「代表作」をたしか100億円以上で買ったが、実はその作品はルノワールの別ヴァージョンの作品であり、「代表作」と言えるかどうか、人によってもその価値づけは違う作品だった。それは、多くの日本人にとっては、図版でも見たことのないような作品だった。であるから、ルノワールの代表作とはとうてい思えない。
 
 だが、大新聞を含めたマスコミはそう呼んだほうがニュースの価値が上がるからかどうか、そう呼んだ。新聞社の学芸部にだって優秀な書き手がいるだろうに、どうしてそうした人たちの意見を聞かないのだろう?
 確かに同名のルノワールの「代表作」は、オルセー美術館にはあるのだが。そのルノワールを買った人は、それを墓場まで持っていくと公言してひんしゅくも買った。だが、それも実現しなかったようだ。
 
 私立美術館にせよ公立にせよ、作品を収集する者にとって大事なのは、やはり確固たる眼なのだということになる。これは、画商にとってもそうだ。売れればよい作品という考えは、決して長続きしない。信用を重んずる画商ならそう考えるだろう。

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