東日本大震災以降、何が変わってきたのか
あまり意識されていないようですが、京都市での「大文字焼き」で、なぜか被災した個所の木材を排斥するということから始まって、最近は福島県の業者が造ったという花火の打ち上げの中止までに追い込まれる。
これには京都市は、日本の宗教界でも格別な位置付けがあり、宗教的というか一つの思想体系の原点を形成してきた、そこから発せられた情報であったことに、もっともっと深く注目すべきだと考えています。
イベントの主催者側は、災害地の方々を応援したいという心で、かつ誰もが応援し支援してくれて、反対はしないだろ考えていたことで、根強い反対論の強さにつぶされてきたと考えます。
この経過を見ていると、宗教界に根強い、理性では対処できない部分の話になってきたと感じています。
大阪府での橋梁工事に使われる構造物が、ただただ福島県内で製造されたものだというだけで、放射能汚染移管する公式資料があっても、ダメなものはダメとして使わせないという排除の論理で、皆様もびっくりされたと思います。
今まで日本では天災は忘れたころにやってくるが、それは「一過性だよ」「すぐ忘れることができる」という日本人に特に顕著とされる深層心理が働いていると感じてきました。
しかし、放射性のセシウムもストロンチュウムもが30年で、半減期がとか言われ、なかには数千年単位でかかるものもあるとかいわれるようになると、必然的に一過性なことではなくなります。
原子力の本質は、一度解放されると半減期が30年とか数千年とかいう、仏教の根源で言うまさに永遠の時間軸と重なります。
今までの一過性とされる自然災害とは異なり、人類が生み出した未知な災害です。そこが分かってきて、にわかに宗教的な角度からも反発が生じだしているという事が考えられます。
情報の公開性がきちんとされているのか、それが問題とされる昨今、いよいよ難しい段階に来たと感じています。
それは、男の今までの論理に添った社会構造では気が付かない部分があって、それが、子供や幼児の命に直結する問題だと分かってきたからです。
しかしここ2,3日だけでも都内の若い女性たちとの会話で、がっくりすることが続いています。 「千葉の、関東の、東北の」食べ物は買わない。これが常識だという話。小さな子供を抱えたお母さんや、妊娠中の女性はまさにぴりぴりしていてそれに対しての唯一に近い対応策が、食べ物の選択と、居住地の選択にあると。皆さんは、ほとんど確信をもって聞かされます。同時にそれは早く早く遠隔地の北海道や関西以西に移り住みたいと、父親にせがむのだそうです。
そして同時に地域に対しての、新たな根強い差別意識の発生となって浮かび上がってきつつあるように感じるのは私だけかもしれませんが。ても重苦しい気持ちです
私の個人的に存じている、「渡り鳥の仲間たち」研究者の多くの若者が、妻や子供たちが実質北海道や九州に家族単位で避難をすでに行っています。えきる人は静かに着実に移転を終えています。
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