“手負いクマ”とは、攻撃を受けて傷を負ったクマで、恐怖や憎悪から必死の反撃に出るので怖い。類語では、“窮鼠猫を噛む”などもあるが、危機の中で何をしでかすか分からないということである。
私は1回だけ、野生のクマに遭遇した時がある。それは自宅から約80キロ離れた東大雪のウペペサンケ山(1,836 m)に行く途中の、登山の時に起こった。登山口の手前の道路を、ノッソ!ノッソ“!と車の前をクマが悠然と横切ったのである。同行の妻が、「登山を止めて帰ろう」と言ったが、そのまま登山してきた思い出がある。
一方、“火事場のバカ力”という諺もある。切迫した状況の中で無意識に想像以上の力を出すというから、現在のようなパンデミックの時には、みんなが火事場のバカ力を出す時でもある。しかしまだ、ワンチームになっていないような気がする。
以下の文章は、表題とやや異なるような気もするが掲げよう。私は9年前に脳出血を罹患したが、最近、やっと話が出来るようになった。そんな第二の人生なので、いろいろと人生について考える時がある。
知人の方で50歳の時、私と同じく脳出血を罹患した人がいる。彼は罹患した経験から、命や心のありようを大切にしているので、大変感銘を受けた2019年4月26日付けブログを再掲する。
「十勝の活性化を考える会」会長
「支えるということは支えられる」ということ
『国連の障害者権利条約は、障害のある人だけに権利を与えたものでなく、障害のある人も障害のない人も、“すべての生活者”に権利を有しています。
現在私は、定期的に医療や福祉サービスを受けています。医療や福祉をはじめとして多くの社会組織には、「施す」側と「受ける」側の存在があります。そこには自ずと、上位にある側と下位にある側との関係があります。医療では、医師と患者。福祉では、支援者と障害当事者といった具合です。
それは意識の根底に、自分が他者に対して何ができるかという、いわば上位に立つ無意識の思い込みが忍び込んでいることもあります。
障害のない人から見て多くの人は、障害があるから「できない」という思い込みは、気づかないうちに行動、言動に表れるもので、私は何回もそういう状況を経験しました。
最近、人が人を世話したり、支えたりすることは一体どのようなことか、そして人として、そこにどのような課題があるのかを考え始めました。このことは、立場が入れ替わったときにはじめて本当に気付くものです。
現在、私は里山に移住し自分が暮らし続けたい場所で豊かな人間関係に囲まれ、社会的役割や自己肯定感をもって生き生きと田舎暮らしをしています。自分を支えてくれる地域は、自分が支える地域でありたいとつくづく思います。
これは、「互酬」(お互いさま)に基づき、私のライフワークとして、誇りと尊厳をもって人間らしく自分らしく生きられる社会を創り出したいと考え、活動の支えになっています。
私は発病以来、多くの人々の支えでここまで来ることができました。とくに心が折れそうになったとき、ある人との出会いで勇気をもらい、そこから“こころのきっかけ”が生まれました。
今度は、中途障害を持ったから気づいたこと、障害があるからこそ果たせる役割があると考え行動しています。私にとってのエンパワメントは、社会的障壁や不均等をもたらす社会的メカニズムの変革を考えています。』
(「十勝の活性化を考える会」ブログ読者)
注) 互酬
互酬は、文化人類学、経済学、社会学などにおいて用いられる概念。人類学においては、義務としての贈与関係や相互扶助関係を意味する。
互酬は、集団の対称性を特徴とする。集団間における財やサービスの運動によってギブ・アンド・テイクを促進し、相互依存の関係を作る。互酬を行う集団は対称的なサブグループを組織するので、3つ以上の集団も参加できる。その場合は相互にではなく、類似の関係にある第3のサブグループとやりとりを行う。
集団において経済組織が分離していない場合は、互酬は親族を中心に行われるため、親族関係が複雑となる。
(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)