昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

アンヘドニア

2025-01-06 19:53:20 | ものおもい
 昨年から、特に快楽が得られなくなったと感じている。
 そのせいで、年の後半はほとんど趣味に興ずることができず、時間があると、とにかく眠っていた。そして悪夢を見る。悪夢を見ても眠ることをやめられない。勿論起きてなすべきこともできない。

 しばらくして、当該症状をアンヘドニアと称することを知った。内容は以下ブログを参照。
https://www.utsubiology.com/anhedonia/

 ここで、アンヘドニアに陥りやすいのは「ネバネバベキベキ思考」の人だという記事があり、該当記事を読んでみた。同じブログの別記事である。
https://www.utsubiology.com/nebabeki/

 確かに、自分はネバネバベキベキ思考である。しかし、そのネバベキはブログ主の状況とは全く異なり、他人の視線を意識したものではない。
 前の記事で書いたが、私は思春期頃から「絶対的善性」というものについて考えていて、それがあるとすれば「自己に全く利益がなく、純粋に他者のためのみに行われる行為」であろうと考えるようになった。これは「今自分は苦痛であるが、他者はこの行動により幸福になるからよいのだ」といった自己満足でさえも自己の利益であるから許さないという形になると考えている。つまり、耐えがたい苦痛と絶望の中で行われた行為が、他者の、できれば多くの他者の幸福になる行為であり、その結果(他者の幸福)は、当の行為者には覚知・想像すら、されることがあってはならないというものである。

 幾人かにこうした考えを披歴したことがあるが、一様に当を得ないという反応であった。やむを得まい。このような状況というものを現実のこととしてありありと想像するのは難しい。それに、これは善悪の区別が誰にも付けられない状態で行われた「苦痛を感ずる行為」が、後に(としか言いようがない)他者の幸福につながるものであった、という類の行為であるから「その行為が善であったと判断する主体」は現実には存在しえない形式のものである。それこそを善だ、と言ったところで、意味が分からないというのが自然であろうとも思う。

 そう思っていたが、これも前記事で書いたように、旧約聖書ヨブ記が同じことを指摘していると後に気付いた。ヨブは逸話として最終的に報われるが、むろんこれは話を分かりやすくするためにそうなっているのであり、現実の人間はただ苦痛にのたうち死ぬだけである。しかし、それこそが唯一、善でありうる方法なのだ。「誰かのためになるのなら仕方ない」という言い訳を自分に用意することもまた「快楽」の一種であるのだから、それを求めるという目的は私的なものであるため、純粋さに欠けるのである。ヨブ記の本質はここにある。そして、余計なことだがヤハウェなる神はいない。だから、善は結局、誰にも善と認識されずに、ただひたすら苦行として行われなければならないものなのだ。

 といった極端な思考に基づく価値観は、一歩俯瞰して見れは、非常に強烈なネバネバベキベキ思考であると思われる。しかし、これは他者から言われて私がそう思ったものではない。自分で考えてこうした結論に至り、周囲の誰からも理解を得られていないものである。つまり、他者起源ではあり得ない。私は私の本性に従い、知性を自分なりに駆使した結果、こうした思考を持つに至ったのである。

 さて上記ブログ記事では、こうした思考特性に「タイタイシタイ思考」が対置される。ようは自分の快不快感情に従って行動することである。で、実はこちらが幼少時から徹底した自分の行動原則である。とりわけ「したくない」が優先である。したくないことを避けるためならしたいことを諦める。そのくらい忌避が強い。具体的には集団行動、付和雷同(単なる習慣への盲目的な追従)、ダブルスタンダードの肯定、疑問や思考実験の否定、統一基準により能力等を測られる行為、等々である。

 要するに私は、ヒト一般に求められる集団行動こそが嫌いであり、独自に、いや、得手勝手に行動したいのである。ホモ・サピエンス・サピエンスとしては失格に近い。自分ではオランウータン的な行動様式を持って生まれたのだと感じている。そして、そういう自分が善を考えるときには、上記のような極論を放つようになる(しかし論理的には正しいはず)。つまり、ここにパラドックスがある。「タイタイシタイ思考」を極めた結果、私は「ネバネバベキベキ思考」を他の誰よりも極め、かつアンヘドニアに罹ったのである。

 じゃあ治療法はないじゃないか。そのとおりである。座禅でも組み一足飛びに涅槃に至ることでもない限り、私はおそらくこのままだろう。もっとも不確定性原理からすれば、全く偶発的にアンヘドニアから脱する可能性もありうる。それはそれで何かが狂っている状態のような気もするが。
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メメントモリ

2017-10-12 05:32:29 | ものおもい
寝付けない日々が続いている。
昨晩遅くに帰宅し食事。入浴後服薬し就寝。
いつもなら効いてくるマイスリーが効かない。

眠れないので、頑張ってる自分を心の中で褒めてみた。
まったく実感が伴わない。
ネガティブな自己否定をしてみた。
鉛を飲み込んだように胸が苦しくなる。
そして腑に落ちる。

つまり、自分の実感、本音はやはり自己否定なのだ。
頑張っても無駄だしどうせ失敗する。それでも頑張らざるを得ない状況に追い込まれる。苦労だけしてリターンはない。というか頑張りに比例し事態が悪化する。
体調もだんだん悪化する。家族のケアも満足に出来ない。休日は眠ってばかり。ここ最近少し遠出してみたが疲れただけ。気晴らしにもならない。誰かのためにとやったことは主に生理的嫌悪の対象となる。世界は理不尽でありその理不尽がここに吹き溜まっている。

そういう人生は、意味があるか?
やはり鬱は治っていない。
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シンゴジラ

2016-09-14 20:05:30 | ものおもい
怪獣映画にはディザスタームービーを求める自分的にはドンピシャのはずだが、イマイチ乗れなかった。
分析するに
・3.11描写が身近すぎて逆に映画世界にハマれない。ビオゴジ冒頭で一気に作品世界に引き込まれるのと好対照
・被災者目線のカットやドラマが少なく感情移入できない。クローバーフィールドと好対照

要するに自分は、クローバーフィールド的にゴジラを作ってくれると嬉しいらしい。
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きょうは会社休みますた

2015-01-15 17:56:55 | ものおもい
薬が無くなりそうなので、かかりつけ医を受診した。
昨日も明日も予定があり、休めるのは今日しかなかった。
そこそこ忙しい(はず)のだが、それでも1日休んでしまった。

年明けから心を入れ替えて仕事を頑張ろうと思い、最初の一週間はそこそこ頑張ったのだが、やはりというか、2日目から息切れ。
金曜日はガス欠。連休明けの火曜日はエンスト。

年明けくらいから、仕事の溜まり具合に正常な反応ができない自分が居る。
気がつくと、別口の収入を確保して仕事を辞めている妄想をする自分。
貯金に余裕が無いのに散財したくなる自分。
どうも、現実を正常に受け止める能力が落ちているらしい。このままだとやばいと考える。
しかし、戦慄の感情は沸かない。これがいけない。危機感を感じないのだ。
思考と感情が噛み合ないと、ヒトはまともに生きることができない。

調子が悪いことを医師に伝えると、薬が増えた。
意欲の出る薬と、睡眠薬ロヒプノールが追加された。
少しはよくなるのだろうか?という考えと、やはり正常ではないということかという残念な思い。
独り身なら、仕事やめていたかもしれない。妻やペットがいて、家族の生活維持が必要なので、今の状態がある。
自分だけなら、ほんとうにただ寝て、寝て、寝て、連絡も取らないで、繭に閉じこもる様にしているのだろう。

きょうはほとんど寝ていた。
趣味のプラモデル作りもせず(目の前には作りかけのジオングがある)。
一時間ごとにうっすら目覚め、次第に暗くなる部屋を見ながら、何故か家の明かりが点かない夢を見る。
ブレーカーが下がっているのかと思い至り、ブレーカーを上げる。
そして、また暗くなった部屋で目覚めるところから繰り返す。
その他、もろもろ不愉快な夢を見ていた。生理的に不愉快な夢。なぜそんなものを見るのか?
そして、そんな夢を見続けているのに、なぜ眠ることをやめないのか。
テレビもつけず、溜まったHDDの録画も消化せず。

プラモデルもただ漫然と作っているだけで、カタルシスは無い。
だから、ジオングを作り終えたら当分休止しようと思っている。
趣味にすら意欲がない。
子供の頃に夢中だったことをなぞっているだけ。読書もそう。新しい事に興味が沸かない。

金曜日、本屋で1時間ほど時間つぶしをした。
宇宙論のコーナーを見て、昔はこういうテーマに食いついていたのに、と悲しくなった。
今更、複雑な宇宙論の最新動向を追いかける気にはなれない。頭がついていかない。
ヒトは衰えるのだ。いや、私は衰えたのだ。
色々衰えて、色々なことが楽しめなくなった。
そうして、常に薄灰色の世界で、身体をすくめている。




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ピダハンの事例はある種の比較宗教学や宗教現象学の終焉を意味するか?

2014-10-23 22:34:25 | ものおもい
ピダハンの言語及び文化についてはネット上にも既に多くの論評がある。
ので、今更な感じもなくはないが、一応書き留めておく。

彼らの精神生活は,エヴェレットの報告にあるように,(特に一神教的な)神観念を含む抽象概念に乏しいことはおそらく真実だろう。
だとすれば,私が宗教学研究に当たり前提としていた下記の仮説は誤りだったことになる。

(仮説)
宗教は言語と類似している。類似点は以下。
・どちらもすべての人類集団で観察される。
・どちらも理性での探求に限界がある。
・どちらの研究も自己言及的にならざるをえず,パラドックスを免れない。
・その中核部分に存在する仕組み(恐らくは脳の)は,言語化が困難である。

ところが,ピダハンには西洋的な「神」観念がないばかりか,関心を示さないらしい。
彼らの関心は「今ここ」に集中している。過去のことは直接伝聞できる範囲(せいぜい祖父母から直接聞いた話まで)しか意識しない。
「イエスという2000年前の男の言ったことがどうして真実と分かるのか?」というのが彼らの言い分。
エヴェレット渾身の信仰告白(義母の自殺を契機とする)を一笑に付す。「自分を殺すなんて。ピダハンは自分を殺したりしない。」
つまり彼らには,何らかの超自然的存在に仮託することによって,宗教を有している文化に暮らす人々が何とか耐えている恐怖や悲しみ,不安といったものへの共感がない。なぜなら,彼らはそれらを持ち合わせていないから。
宗教に近い観念として,精霊や夢への言及はあるらしい。しかしピダハンにとってそれらは「実際に見聞きしたもの」であるため,我々が抱くような神秘的なものとしての把握はないらしい。ヌミノーゼがないといえばよいか。

さて,(我々が最大公約数的に理解しているところの、しかし未だ曖昧な)宗教が人類に普遍的でないとすれば,それは完全に後天的・文化的な産物だということになる。
このことから,それらは恐らくある時ある人間集団に発生し,しかるのちに伝播,拡散していったのだろうと推察できる(例えば石器づくりのように)。
ということは,宗教研究はある意味、伝播主義や進化主義の時代に戻ることになるのかもしれない。
おそらくは「ヒト集団」におけるミームの適者生存の過程の研究として。

もっとも,進化論的な説明には陥穽があって,それは現在の状況をさかのぼって説明するのに都合がよいが,そのこと自体は後だしジャンケンのようなもので,なぜ現在観察される現象がこのようなことかの説明としては弱い、ということだ。
したがって、もし,宗教が上記のような,ヒトという生物に普遍的な属性でないとすれば,その研究は神学的研究と地誌学的研究に2分されてしまうだろう。比較宗教学や、20世紀的な意味での(私が大学生時代に学んだような)宗教現象学といった分野は,博物誌としての意味しかもたなくなるかもしれない。

うーん,本も読まずにこんなことを考えたり書いたりするのってどうなのだろう?やっぱり「ピダハン」買ったほういいかなあ。難しい本を読むのはツラいのだけど。
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あの漫画の件

2014-05-10 02:18:05 | ものおもい
中村由真の「dang-dang気になる」は名曲。
それはさておき、これ、始めから逆張りを狙っているのだとしたら、結構効くかも。
いまごろになって、こんな呆れてどうしようもない主張を、代表作で行う。
当然、世間に批判が起こる。
その騒ぎの中で、作中の描写が現実離れしていてお話にならないという「知識」が、届かなかった人にも届く。
そうして、なんとなくこの騒ぎの沈静化とともに、福島への偏見も沈静化して(無くなりはしないだろうが)いく。
作者はそうした意図を明かさずに、作中通りの主張を貫徹する。
で、終わってみれば、あれが転機だった、となる。

そこまで仕組まれていたなら、うまくいけばよいと思うだけなのだか。真相や如何に。
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なんだかとてつもなくツイてないよう。

2014-05-01 23:06:58 | ものおもい
想定外のトラブルが起こりまくりなのです。
体調も至極宜しくないのです。
後厄終了とか何とかもはや一切何もありません。
ひょっとして、こんな風にヒドい状態がわたくしの平常運転なのでせうか。
人生ハードモードすぎ。
せめて深く眠らせてほしい。もうイヤです。
もう色々と限界です。(ケムール人風に)

そういえばえんどコイチ原作、大野リーダー主演の「死神くん」を見ているのですが、
第1話にはウルトラゾーンのタカダ・リホ隊員が出ておりましたな。
えんど氏のお名前は「ついでにとんちんかん」でメジャーになる前に「アノアロとんがらし」という漫画のタイトルと共に、
少年チャンピオンコミックスの宣伝欄に載っていたことを良く覚えています。
たぶん作者名が面白かったからだと思います。
そのタイトルの漫画に興味は持ったけれど、手に取ることはなく、
フレッシュジャンプに連載されていた死神くんに先に出会うことになります。
絵はヘタですよね。昔から。でもストーリーは引き込まれました。
フレッシュジャンプ廃刊と共に、同誌連載者を追うことはなくなったので、
その後、月刊ジャンプ掲載話分については知りません。
あと、テレビ版で桐谷美玲が演じているカラス役が粗暴でドSでちっともかわいくなくて、
いい味出してます。

何の話をしているのかわからなくなりましたが、微妙に前回から少年チャンピオン出身作家の話で
繋がっていたりします。
録画してあるジョジョみなくちゃ。ああ時間がほしい。
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文章が書きたい。

2014-04-08 01:22:00 | ものおもい
が、書く暇がない。
仕事で文章を書くだけで手一杯だ。
それじゃストレス解消にならんのだ。
同じ様にキーボードを打ち、のたくる黒線を液晶画面に連ねていっても、何かが違うのだ。

寝よう。眠ろう。脳を休めよう。
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日本史を勉強したいが・・・。

2014-02-09 22:01:36 | ものおもい
私は日本史に疎い。
ただし元々、先史考古学に即する分野には興味を抱いていた。すなわち日本列島における石器時代文明の最古の時代(旧石器捏造事件で根本から瓦解したアレだ)から、奈良時代くらいまでの伝説と史実が入り交じった時代である。
しかし最近、平安時代末期から戦国時代にかけての動向にも興味が沸いてきた。おもに「新小児科医のつぶやき」様の記事によるところが大きい。
ただ自分は、高校では世界史を選択したこともあり、どうも国内の動勢には背景知識が欠けている。なんとかしたいといくつかの本を読んだりしていはいるが、中世から戦国にかけての書物には手が中々出ない。神話時代の日本史に関するものばかりを入手してしまう。
そもそも仕事で相当のパワーを消費してしまっているので、余力でできることは限られている。
なかなかに、趣味を続けるというのも難しいと感じる。
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宗教学徒にあるまじき「後厄終了宣言」と「年始」

2014-01-01 10:23:38 | ものおもい
いきなりで何ですが、去年までほんっっと最悪でした。
いろいろ書いていたような不調の連鎖と促進。
仕事では全く成果を出せず、ただひたすらに忙しく。
そこに起こった東日本大震災。
個人的な日常生活は通常に戻ったけれど、社会人としては勿論今でも影響ありまくり。
鬱治療を本格的に開始して2年半くらいでしょうか。昨年後半は、思いがけず効いた睡眠薬の効果から、回復期に転ずるも、また別の問題発生。

繰り返しになるけれども「努力すればするほど逆効果になる」というのが、ここ数年の経験により得た結論。
鬱が酷い頃は「努力する」こと自体があまり出来ずにいたから「逆効果」の方も控えめだったけれど、最近は鬱の回復傾向の所為で、「努力」できてしまいます。
すると、努力した分だけ状況が悪化します。いや、仕事とかだと、きちんと成果に繋がってはいるのですが、その成果が新たな仕事を増やしていき、個人の仕事量が頑張れば頑張るほど増えるという「負の連鎖」になってしまっています。
うちの会社、ノルマ達成とかで報酬変わるシステムじゃないので、こういうのは結局、損です。
仕事は上手くいったほうが、モチベーションは上がりますが、生活クオリティが反比例して下がっていき、結局のところ何を目的に仕事をしているのやら分からなくなってきたり。

怖いのは今、そういう客観的状況を自己認識していても、仕事で「手を抜く」ことが出来ないこと。
前回記事のアンドレアに少し自分を重ねてしまいます。
今の多忙化促進サイクル、辛いんですよ。辛いんですけど、ある程度やれてしまうのです。何なのでしょうこれは。
これ、薬の効果なのでしょうか、それとも個人的な資質(鬱サイクル)の所為なのでしょうか(いやそれは主治医に相談しろよ俺)。
結果として、折角鬱から回復に転じたというのに、2013年はワーストの年でした(主に仕事の所為で)。

ということで、年も明けたことですし、今年こそは「昼行灯」に戻りたいです。
スーダラに生きられるように、ほどほどにします、色々と。
それが外部的に実現しないかなあという願いが「後厄終了宣言」の趣旨です。ほんともう勘弁して今年は。
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