昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

訃報

2025-01-17 22:40:00 | Weblog
https://blog.goo.ne.jp/tokisaka006/e/49c208800ba078396d7193a96fac8ca0
上記記事で取り上げた新川博氏が亡くなったとのこと。
私が好きだったシティポップの多くをアレンジしていた方である。
誠に残念でならない。
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アンヘドニア

2025-01-06 19:53:20 | ものおもい
 昨年から、特に快楽が得られなくなったと感じている。
 そのせいで、年の後半はほとんど趣味に興ずることができず、時間があると、とにかく眠っていた。そして悪夢を見る。悪夢を見ても眠ることをやめられない。勿論起きてなすべきこともできない。

 しばらくして、当該症状をアンヘドニアと称することを知った。内容は以下ブログを参照。
https://www.utsubiology.com/anhedonia/

 ここで、アンヘドニアに陥りやすいのは「ネバネバベキベキ思考」の人だという記事があり、該当記事を読んでみた。同じブログの別記事である。
https://www.utsubiology.com/nebabeki/

 確かに、自分はネバネバベキベキ思考である。しかし、そのネバベキはブログ主の状況とは全く異なり、他人の視線を意識したものではない。
 前の記事で書いたが、私は思春期頃から「絶対的善性」というものについて考えていて、それがあるとすれば「自己に全く利益がなく、純粋に他者のためのみに行われる行為」であろうと考えるようになった。これは「今自分は苦痛であるが、他者はこの行動により幸福になるからよいのだ」といった自己満足でさえも自己の利益であるから許さないという形になると考えている。つまり、耐えがたい苦痛と絶望の中で行われた行為が、他者の、できれば多くの他者の幸福になる行為であり、その結果(他者の幸福)は、当の行為者には覚知・想像すら、されることがあってはならないというものである。

 幾人かにこうした考えを披歴したことがあるが、一様に当を得ないという反応であった。やむを得まい。このような状況というものを現実のこととしてありありと想像するのは難しい。それに、これは善悪の区別が誰にも付けられない状態で行われた「苦痛を感ずる行為」が、後に(としか言いようがない)他者の幸福につながるものであった、という類の行為であるから「その行為が善であったと判断する主体」は現実には存在しえない形式のものである。それこそを善だ、と言ったところで、意味が分からないというのが自然であろうとも思う。

 そう思っていたが、これも前記事で書いたように、旧約聖書ヨブ記が同じことを指摘していると後に気付いた。ヨブは逸話として最終的に報われるが、むろんこれは話を分かりやすくするためにそうなっているのであり、現実の人間はただ苦痛にのたうち死ぬだけである。しかし、それこそが唯一、善でありうる方法なのだ。「誰かのためになるのなら仕方ない」という言い訳を自分に用意することもまた「快楽」の一種であるのだから、それを求めるという目的は私的なものであるため、純粋さに欠けるのである。ヨブ記の本質はここにある。そして、余計なことだがヤハウェなる神はいない。だから、善は結局、誰にも善と認識されずに、ただひたすら苦行として行われなければならないものなのだ。

 といった極端な思考に基づく価値観は、一歩俯瞰して見れは、非常に強烈なネバネバベキベキ思考であると思われる。しかし、これは他者から言われて私がそう思ったものではない。自分で考えてこうした結論に至り、周囲の誰からも理解を得られていないものである。つまり、他者起源ではあり得ない。私は私の本性に従い、知性を自分なりに駆使した結果、こうした思考を持つに至ったのである。

 さて上記ブログ記事では、こうした思考特性に「タイタイシタイ思考」が対置される。ようは自分の快不快感情に従って行動することである。で、実はこちらが幼少時から徹底した自分の行動原則である。とりわけ「したくない」が優先である。したくないことを避けるためならしたいことを諦める。そのくらい忌避が強い。具体的には集団行動、付和雷同(単なる習慣への盲目的な追従)、ダブルスタンダードの肯定、疑問や思考実験の否定、統一基準により能力等を測られる行為、等々である。

 要するに私は、ヒト一般に求められる集団行動こそが嫌いであり、独自に、いや、得手勝手に行動したいのである。ホモ・サピエンス・サピエンスとしては失格に近い。自分ではオランウータン的な行動様式を持って生まれたのだと感じている。そして、そういう自分が善を考えるときには、上記のような極論を放つようになる(しかし論理的には正しいはず)。つまり、ここにパラドックスがある。「タイタイシタイ思考」を極めた結果、私は「ネバネバベキベキ思考」を他の誰よりも極め、かつアンヘドニアに罹ったのである。

 じゃあ治療法はないじゃないか。そのとおりである。座禅でも組み一足飛びに涅槃に至ることでもない限り、私はおそらくこのままだろう。もっとも不確定性原理からすれば、全く偶発的にアンヘドニアから脱する可能性もありうる。それはそれで何かが狂っている状態のような気もするが。
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旧友との対話

2025-01-01 19:44:02 | Weblog
 昨年、旧友と久々にメールをした。その契機が恩師の死去というのが寂しい限りであるが、旧友が思いのほか来仙し研究室や当時メンバーとの交流を保っていたのを知り、いささかうらやましくもあった。
 メールの内容はほとんどが愚痴になってしまったが、彼我の違いみたいなことを知るという点においては彼にも利があったと信じる。 コミュ強の彼とコミュ障の私とでは社会人としての立ち振る舞いや感じ方において大きく差があることはよく考えればわかることである。そうでなくとも私は極論の人間であるから、公務員のように公という看板を背負う職業に対しては、当然のこととして清廉さを、そして更に価値を上げるためには自己犠牲を求める。もとより、人は正義であろうとすれば自己犠牲をせぬわけにはいかぬのであるというのが私の価値観の一つである。正義は利他性にあり、しかも絶対的な利他性が求められる。なぜなら、ある行為に自己の利益ないし満足が含まれるのであれば、それは言葉の定義上利己的な行為でしかありえないからである。利己的な行為は当たり前のものであり、そこに価値、特に倫理的美的な価値はない。

 こうした考察から考えられる絶対的利他行為というのは、ある行為がひどく自分の尊厳を傷つけ、あるいは肉体的苦痛に満ち、とうていそうしたことが我慢ならないという感情のもとで行われた行為が利他的である場合に限られる。そして、その行為が利他的であったということが当の行為者に認知された場合は「某々の役に立ったのだから仕方ない」といった自己満足感情を惹起させうるものであるため、当該行為が利他性を含むものであったことは、少なくとも当人が死亡するまでは知られてはならない。

 つまり絶対的利他的行為というものは、当該個人にとっては終わりなき絶望と苦痛のもとで行われるものでなければならず、そのこと自体に救いを求めるような倒錯的感情も許さぬ類のものである。
 なお、旧約聖書ヨブ記の内容は、すなわちこうした状況をこそ正義と洞察していると解される。

 閑話休題。私は公務員がまっとうに職業を行う上では、基本的にこうした自己犠牲を求める。それがないのであれば、公務員としては利己的行為しかなしえない、その癖に公権力を他者に行使するという、いわば「特権」を、また同時には理不尽なことを他者に強制するという「罰」を与えられているという自覚をすべきだと考えている。つまり、公務員である以上、絶対に、絶対にだ、自分は偉いのだ、他者よりも価値が高い人間だ、などと考えてはならぬのである。公務員組織において階級が上になるほど、その責任の重圧に常に押しつぶされそうになり、吐きそうになりながら日々の仕事を行うほかない。そういうあり方ができない人は、公務員という職業において組織の上に立つ資格はない。
 
 これは首長や議員については一層そうである。彼らは選挙で選ばれた以上、その任期中は粉骨砕身、無私の働きをせねばならない。それが宿命である。とはいえ、どうせ我々人間にできることは限られ、いくばくかの幸せや私事や満足や利益(議員報酬のこと)がなければ務まらないことは十分承知の上で、やる以上は、そして期間限定である以上は、そこを目指すべきなのである。公務員たるもの高潔たるべし、あるいは自らが高潔でいられないことを十分自覚し、恥じて後悔し生きるべし、である。
 つまり、どのみち公務員という職業を誠実に行おうとすれば、そこには果てしない苦痛しかない。そういうことを受け入れないのであれば、法の範囲内で私的利益を充足し糊口を凌ぐこと、つまり非公務を職業として選択すべきである。

 私のこうした極端な価値観は、彼には理解できても共感はできないらしい。残念である。ただ、よく考えればやむを得ない。おそらくほとんどの人はそんな風に公務員という職業を捉えてはいない。しからば他者との共感性が高い人ほど、かような独自の価値観に共感はすまい。
 しかし、論旨に矛盾がない以上、究極純粋にはそういうものであるべきだし、そうなるものである。思考を突き詰め、物事をとことんまで純化せよ。公務員という職業の本性を十分に自覚せよ。そのうえで、耐えられないのであれば己の弱さ愚かさ無価値さを認め、恥じて務めよ。

 そういう価値観では仕事ができない。人間的でない。当然そうした意見が出ることは理解する。しかし、そうであれば、転職をすべきである。「公」なる概念の束縛は、呪いにも似てかように恐ろしいものであるのだから。

 逆にいえば、群れずに個として生きれば、公という概念に向き合う必要はなくなり、こうした呪いとは無縁でありうる。だから私は個であること、孤独であることを好む。かつ、そういう私から見ると、かなり多くの公務員は、恥知らずであると見えてしまう。換言すれば美しくない。そして、ヒトである以上、真善美の価値を有するのだから、こうした在りようが美しくないことの自覚くらいは最低限持つべきではなかろうか。
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決定論と確率論、認識と実在

2025-01-01 19:32:54 | Weblog
 今日では量子力学により、物質は究極的には確率的存在であると理解されるようになっている。すなわち、古典的決定論(初期値が決まれば以後の物質の運動はすべて物理法則に従うことから、自由の生じる余地はない)は後退している。他方、概略的ではあるが、日常生活レベル・マクロレベルでは多くの事物は決定論的に振舞っているように見える(例えば、確率的に不可能ではないにしても、リンゴをつかもうとする我が手がリンゴをすりぬけてしまい目的を達しないといったことは観察されない)。このことは、確率的に振舞う微粒子がおびただしい数介在することによって、全体としてほとんど決定論的に「見える」という形で説明されることが多いかと思う。
 ただし、決定論的に「見える」というのはヒトの認識であることに留意する必要がある。そもそも我々は、世界に存在するものすべてを認知する能力があるのだろうか?(プラトンのイデア論を想起せよ)
 少なくとも、現時点で我々が認識しているもの―それがクォークであれ超ひもであれ―が世界の存在すべてに該当するならば、答えはイエスであろう。しかし、これはおそらく答えのない問いである。

 個人的には、世界にはもっと混沌とした現象が起きている可能性を考えたい。すなわち因果関係が不明確、又は全くないような事象というものも、ミクロレベルの確率論的な振る舞いに限らず、マクロレベルでも現に起こっていると考えている。ただし、我々ヒトという生物は、そうした現象を知覚する可能性はあっても、ほとんど「認識」しないだろう。なぜなら、こうした偶然的な、換言すれば因果律に則しない現象を知覚したところで、そうした知覚と、その知覚に続いて起こる認識は、そうした知覚ないし認識に基づいて将来の行動を変更するという回路を生成した場合は、そうでない場合に比べ、将来の行動を変更するかどうかといった思惟判断に係る余分なエネルギーを使うことになり、その分、のちの生存に不利に働くと考えられるからである。反対に言えば、完全に偶然的な、因果律に基づかない現象については、たとえ知覚されることがあっても、それを認識のレベルに届かないようシャットアウトする仕組みがあった方が(こうした仕組みは蓋然的でよく、かつ、進化の過程で改良されていき、今に至ると考える)、よほど生存には有利であろう。こうして、世界には実は因果律から逸脱した現象がいくらでも存在するのだが、我々の認識にはほとんど上らないのだ、といった説明は有効と考えられる。

 きわめて雑駁な議論をすれば、幽霊を見るという体験は、幽霊の存在を物理的・因果律的に実証することはない。ただし、偶然、あるヒトに「現にそこに居ないヒトで、すでに死んでおり、以前は確かに存在したヒトの姿が見える」という事象が起きることは排除されない。そして、それが複数のヒトに同時に、あるいは異時的に起こることも排除されない。ただ、そうした「単なる意味のない偶然」の情報は、蓋然性が大局的に支配するこの世界で生きる生命にとってほとんど無意味であるため、存在するかどうかを検証するに値しないのである。かくして、ヒトにおいては、因果律に基づかない事象はほとんど認識されないのだ、と考える方が自然である。
 まとめると、この世のほぼすべての事象は「ヒトの認識の中では」概ね因果律に基づいており、ミクロ的には確率論がそれを支える。しかし、ヒトの認識という制約の外までを考慮に入れた場合、世界には因果律に基づかない事象もそれなりに起こっており、そのほとんどはミクロレベルであるが、マクロレベルの事象も存外多く、ただし、それらは生物進化の結果として認識されようがないのだと結論する。
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メランコリー、苦痛、鬱の存在と宗教的な救い

2025-01-01 19:31:32 | Weblog
 将来を憂う気質は保存されやすい。これはミームというよりも遺伝子における適応と考えられる。将来に関して楽観的で、特に対策を講ずることのないと考えがちなヒト個体は、おそらくそうでないヒト個体よりも生存確率が低くなる。より直接的には、ある事態に対する負の感情が多く存在するほど、その個体は不快を忌避し、自己防衛的な行動を取り、生存確率が高まるであろう。よって、仏教的な四苦八苦の思想や、キリスト教などでいう「原罪」のように、「生にはなぜ苦痛が付きまとうのか」という、古来繰り返されてきた問いの答えは実に簡単である。苦痛を多く感じる個体のほうが生存確率が高く、その苦痛感情がヒトの場合には「自殺をするかしないかギリギリ」の個体が、最も生存確率が高いと考えられるからである。ただし、苦痛とその回避という一連の行動については、相当のストレスが生じ、このストレス自体が身体を弱らせるという側面も認められるため、ヒトにおいては、苦痛をより強く感じる遺伝子と、個体の身体の強靭さとのバランスが最適となる点が、苦痛の感度に関する進化の極致と考えられる。

 宗教における「救い」が、原罪のような極めてペシミティブな価値観を前提としていることの理由も同じである。この世に生きることの苦痛が前提にならない、すなわちより楽観的な世界観に馴染みを覚える個体の生存可能性は一般的に低くなる。したがって、自然淘汰の結果として、生物たるヒトの関心は相当量の苦痛を前提とせざるを得ない。こうした、ヒトにおいて生と一体化する苦痛について形而上学的な意味を付与するような宗教的ミームは、強い苦痛との共存をすすめる上で、ヒト集団の存続に優位に働いたであろう。
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宗教の生物学的基礎

2025-01-01 19:30:33 | Weblog
表題のようなものがあるだろうと考えて研究を始めたが、ピダハンの発見によりどうやらそうではないと考えるようになった。宗教には言語ほどの普遍性はなく、従って強固な生物学的基礎もなさそうである。

さて、宗教は神秘体験や夢と不可分になっていることが多い。神秘体験のうち、特に体外離脱体験は、死後の世界という不可視の世界に関する観念を想起させやすい。この現象は世界中で報告されていることから、体外離脱体験には生物学的基礎がありそうである。これに生物学的基礎があるとすれば、臨死体験は生物進化の過程で人類に備わってきた、すなわち生存に有利だったということになろうと考える。しかし、死に際に体外離脱するというような体験、ましてやその際に幸福感に包まれるというような体験は、進化の上で選択されうるだろうか?体外離脱体験は、死への恐怖を和らげる効果をどうやら持ちそうではあるが、死に際するそうした効果を持つこと自体は、個体の生存に対して特段の優位性をもたらさないであろう。では、体外離脱体験は進化において中立的だったのか?すなわち現生人類において偶然に残ったものなのか?もしそうでないなら、体外離脱体験はむしろ死後の世界を肯定する証拠そのものではないのか?

こうした私的疑問は、ミーム論によっておおむね解決された。体外離脱体験は、現代では脳の血流不足などにより、脳が、自己の身体が空間上のどこにどのように位置しているかを計測する部分が働かなくなることで「宙に浮く」ような感覚が生じるものと説明される。特に、脳機能低下時には視覚が働かなくなる一方で、聴覚は最後まで働いていることが多く、聴覚と不完全な身体同定情報とが交わると、体外離脱したような感覚が生じるようである。つまり、体外離脱体験はいわばヒトの脳のバクのようなものである。
では、そうしたバクがかなり広範囲のヒトに残っているのはなぜか。そのバグはヒトの生存において何か有利な状況をもたらしたのか。それは半分はイエスであり、半分はノーだ。少なくともヒト個体において、体外離脱体験につながる脳のバクは、生存に対して中立的である。そもそも、それは「死にそう」な場面で起きる現象であり、従ってその後のサバイバビリティに影響を及ぼすものではなかろう。
 他方、そうした体験をする個体を含むヒトの群れにおいて、そうした体験に特別な意味づけを行う場合はどうか(そうしたヒト集団は多くみられる)。ヒトは動物である以上死を忌避し、死を恐れる感情を有するが、死後の世界が存在するかもしれないという形で、体外離脱体験に意味づけがなされた場合は、ある場面、集団が危機に瀕し絶滅の瀬戸際にあるような場面において、特定個体の死に対する恐れを薄れさせ、死をいとわぬ形で闘争を繰り広げ、結果として当該ヒト集団の存続確率を高めるように働いたのではないか。

 つまり、体外離脱体験に特定の「意味」=「死の恐怖の緩和・克服」を与えた「文化」が、ヒト集団の中で競争を勝ち抜いた結果、体外離脱体験という脳のバグは、ヒト集団の中で有利に働く結果を招いたのではないか。もっと言えば、体外離脱体験を一つの契機とした一連の観念体系=宗教が、ヒト集団の中でより適応的に(当該観念を持つヒト集団を生き残らせる方向に)働いたということではないか。これが、ほとんどのヒト集団に「宗教」がみられる根本原因ではないか、ということである。
 おそらく、宗教を持つヒトは宗教を持たないヒトよりもサバイバビリティが強い。ヒトという生物においてはそうなのである。(宗教的な行動の痕跡はネアンデルタール人にもみられるものではあるが、もし今後ホモ・サピエンス・サピエンスが違う種になるときは、宗教が存在していないかもしれない。)

 このことは、もし体外離脱体験が選択圧を受けて生き残ったとすれば、それはヒトの個体の生存に直接有利だったからではなく、そのような体験をするヒトを無意味なものとは考えず、むしろ積極的な意味を見出す「文化」において選択圧が働いた結果、体外離脱体験を引き起こす身体的要因をもたらす遺伝子が保存されてきたのであろうということを意味する。つまり、「体外離脱体験」という身体に依存する現象に意味を付与する文化がセットになって生き残ってきたのである。

 なお、宗教現象にみられる、生命体としてのヒトの生存と一見相反する特徴が、むしろ普遍的ですらあるという矛盾は、このようなミーム論においてうまく説明ができる。例えば自爆テロである。自らの命を投げ出すという、生命体としては欠陥に等しい行為を推奨する役割を宗教が果たすことはよく見られる。古くは十字軍。これは、そうした闘争的な面を有する宗教という文化・行動様式が、ヒト集団の中で他の文化・行動様式と競争する上で有利であった結果、このようになっていると思われる。

 もっとも、こうした自殺のような行動が暴走すれば、当然、当該文化を持つヒト集団は滅亡する。したがって、多くの宗教がそうであるように、自殺を動機づけるミームを持つ文化はダブルスタンダードを持っている。逆に言えば、ダブルスタンダードを許さない、論理的に厳格な行動を促す「文化」は、おそらくダブルスタンダードを許容する「文化」より、ヒト集団の生存において劣ったということであろう。
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生命の定義(「構造主義」的な)

2025-01-01 19:28:40 | Weblog
ここでは、地球上の生命に関するものを念頭に置くが、地球外の同様の現象においてもあてはまる可能性があると考えている。

 古来、生命は構造と機能とに分けられて議論されてきた。これはおそらく、死体(構造は保たれているが機能しておらず、構造の分解過程にある状態)に着目した議論であったろう。
 しかし、生化学分野の発展や、遺伝子の解析等により、構造と機能に着目した議論は「止揚」されたと考える。現状、おそらく生命とは以下のように定義できる。

 「一定の環境条件下において、複雑な分子構造物が多種類の相互作用を行いうる形で存在しており、そのような分子構造物の一式が巨視的に一つの単位として振る舞い、外部との相互作用により原子や分子を適宜交換しながら、一定の構造を維持し、一つの単位については複製を行うことがみられる状態にあること」

 この定義において、重要なのは機能よりも構造である。というのは、きわめて一般的にいえば、常温下で特に一定の塩分濃度の水を媒質として存在する分子構造物は、分子間力等により自然に集まり、一連の過程によって代謝と呼ばれる回路的な機能を示すことが明らかであるからである。要するにそのエネルギーは電子の作用による。

 死には多数のレベルがあるが、一つにはこうした分子間力を中心とした回路的な機能が動かなくなる状態を指す。それは生命体内の恒常性と呼ばれる一定環境を保つ力が失われることにより生ずるが、その在り方は様々である。しかし、地球上の生命に関していえば、一つの単位を細胞として、その細胞が回路的な機能を果たせなくなることが死の第一定義である。より巨視的な単位がある場合(多細胞生物)では、そうした細胞単位が交換されることによって依然としてより巨視的な構造を維持し、機能を果たしている場合があるが、この場合は、細胞単位の機能消失が一定程度進むことにより、多細胞からなる巨視的な単位の構造維持や機能継続が失われた状態が死であると考えられる。

 重要なのは、この場合の「機能」は、一定の環境下で、一定の分子化合物が一式そろうことにより、必ず動き出すという点である。それは分子構造物における電位差や、分子構造物の形状によって起こる分子吸着作用などが基礎となっている。それらを秩序付ける、あるいは機能をスタートさせるという過程は考慮を要しない。ある条件下でそれら分子構造物一式が揃うことにより、ある種の過程は自然に進む。あえて言えば、そのエネルギー源は電磁気力及び温度(熱)である。

 ウイルスは結晶化するような単純な物質であり、単独で自己複製能力を有しないことから、かねて生物か否かという議論がなされてきた。本稿の定義においては、ウイルスは生物と言って差し支えない。一定の条件下が「細胞内やウイルス内といった、他の分子構造物一式」という点が、細胞からなる生物とのほぼ唯一の違いであるからである。また、ウイルスの場合は細胞やウイルスなどの外においては、(詳細を省けば)紫外線等により分子構造が壊れるまで活性を有するが、こうした活性を有する状態であれば「生きている」と呼んで差し支えないものと考える。なぜなら、こうしたあり方は細胞から成る生物と基本的に変わらないからである。細胞の場合も、適切な温度湿度になるまで休眠する場合があり、基本的には、構造に対して一定の環境があれば機能が生じるという点では同様であり、ウイルスと分けて考える必要は認められない。

 要するに生命とは、ある時間内に、電磁気力を基礎とする一連の過程が起きることにより、自己の構造を保存・複製するような振る舞いを行う分子構造物一式であると考えてよい。地球においては、当該分構造物は基本的にタンパク質から成る。また、この定義における生命の肝は「構造」であるため、かつて議論されていた「遺伝子粘土鋳型説」などもなお有効と考える。

 こうした分子構造物一式が生じた理由は、一定期間の試行錯誤において偶然生じたものが次第に複雑化する進化過程を経たと考えれば、特に不可解な点はない。現在進行形で、同様な過程による偶然の「生命」の発生が見られない理由は、より進化適応した同様の構造からなる系がすでに成立しているため、そうした系に各種反応物質が成立済みの系に取り込まれてしまうという理由が考えられる。また、原初の何億年かの試行錯誤を行うためには、おそらく惑星規模の広さと環境の多様さが必要なのだと思われる。そして、こうした多様な環境は地球上においては、生物と環境の相互作用により既に失われている類のものである。

 さて、「生命」に関するこのようなあり方は、古典を借りて端的に言えば「よどみに浮かぶうたかた」に相違ない。あるいは、鳴門海峡に生じている渦のようなものである。これらはほぼ同一箇所で、構成する分子を変えながら、相似形を保っている。しかし、種々の条件が変化したときに、その構造は崩壊するであろう。こうした現象がずっと複雑な形で起こっているものが、我々が生命と呼ぶものの正体に相違ない。
「生命は精密な機械と同等の存在か」という古典的な問いに関しては「YES」と答えることになる。我々の工学的技術によって同様の仕組みが再現できるか否かに関わらず、複雑かつ多種類の高分子の構造が、ある種の溶媒に存在することで自己の構造を保存し複製する、そのためのエネルギーが化学的に得られるという系は、まさしく精密な機械と同じものである。我々はそれ以上の何かではない。
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