筆者はかつて大学時代に宗教学を少々囓った者であり、縁あって東日本大震災で大きな被害のあった南三陸町と公私にわたり関わりを持つことになった。今回はそのことにより見聞した内容を書き残したい。なお、多分に私見に偏る内容であるため、学問的是非は措いてお読みいただければ幸いである。ようは「少々宗教系の知識が余計にある」が故に、ある「物語」を思いついた次第である。なお、本文中、直接的な個人情報に関わる部分は伏せている。また本稿の主な読者は、筆者の学友を想定していることをお断りしておく。
東日本大震災で、歴史的に何度も大津波による甚大な被害を受けてきた、南三陸町志津川地区をはじめとする町沿岸部は、またしても人類の想像力を超える自然の力の前に、壊滅的な打撃を受けた。
震災翌日の自衛隊ヘリによる空中からの被害状況確認において、志津川地区は当初「壊滅」と伝えられた。
この時点では、町人口約1万8,000人のおよそ半数が「所在確認できず」とされ、一時は同町のみで1万人規模の犠牲も危惧された。
その後、災害救助活動が進み、混乱が収束するとともに、同町の死者数は500人台にとどまることが判明した。悲惨な数ではあるものの、当初危惧された被害規模よりは大幅に少なく、史上最大規模の震災において、町民、関係者の努力、営為が一定の効果を結んだものと考える。
とはいえ、いまだ志津川地区は、沿岸部に集められたがれきの山のほかは荒漠たる風景を成しており、復興といえば津波浸水が及んだやや奥まった場所に、仮設商店街が作られた程度である。多くの住民は町内外の仮設住宅で暮らし、傷の癒えぬ日々を送っている。
南三陸町は、平成の大合併により、北部の旧歌津町と南部の旧志津川町が合併して誕生した。
旧志津川町は、町誌によれば内陸の入谷地区の入谷村に八幡神社が創建されたのが天武天皇朝時代とあり、飛鳥時代以前に、まず内陸部に人が住み始めたことが分かっている。かつての入谷地区の主要な産業は養蚕であり、現在は漁業で有名な同町であるが、沿岸部での漁労による発展は江戸期以降のこととされ、それ以前の沿岸集落は小規模であったと考えられる。
しかし、上記の入谷地区の記述にあるとおり、この地域が歴史に登場するのは古代にまでさかのぼる。古くは北上山系の産金地としても知られ、今でも金採取の遺構が残っている。
また、平安期の貞観年間(859-877)には、沿岸部の袖浜地区にに大和国龍田神社の分霊を勧請し龍田明神社(現:荒澤神社)が創建されている。ちなみに東日本大震災と同規模の津波を引き起こしたとされる「貞観地震」は869年のことである。
当時の南三陸町は安倍氏の支配下にあった。その安倍氏により、隣接する気仙沼市本吉町との境に位置する田束山が霊峰として祀られ、主に修験者による信仰を集めるようになった。以後も田束山は歴代の支配者から神聖視され、信仰の対象として厚く保護されており、本地域の宗教的中心地としての地位を占めている。
同じ平安年間、前九年の役(1062)で安倍貞任が破れ、安倍氏が滅亡。以後当地は出羽清原氏の支配下となるも、後三年の役(1087)にて出羽清原氏も滅し、その後は奥州藤原氏の支配下に入る。藤原秀衡は田束山信仰を引き継ぎつつ、文治年間(1185-89)、志津川町内に素戔嗚尊(牛頭天王)を勧請し、牛頭天王社、現在須賀神社と呼ばれる社がこの地に創建されたと伝えられる。
なお文治の改元は畿内に記録の残る文治地震を契機とする旨の説もある。文治地震は震源や規模等が不明であり、南海トラフ地震の一つであったともいわれる。
牛頭天王信仰はいわゆる「祇園信仰」として知られ、素戔嗚尊との習合については、蘇民将来の説話とともにその期限は古い(奈良時代以前とも言われる)。その謂は、厄災をもたらす神=荒魂を祀ることで、反対に厄災を除けることを目的とした信仰である。
しかし平安末期の動乱において、勧請より程なくして奥州藤原氏は滅亡し、以後、当地は鎌倉幕府直轄領となる。
その後の戦国時代において、当地は葛西氏らの所領となり、最終的には伊達政宗の治める仙台藩に属することとなった。
藤原秀衡建立と伝えられる牛頭天王社であるが、社格としては特筆すべきものはない。しかし代々において地域の厚い信仰に支えられてきたものと思われる。それは、志津川町の天王前、天王山といった地名がこの牛頭天王社に由来するものであることからも窺い知れる。
現在は常在の祭主はおらず、年1回、6月23日の例祭時に神主と氏子が集まり祭祀が執り行われている。なお、須賀神社と称するようになったのは明治の神仏分離以後のことである。
さて、筆者は偶然により、かつて須賀神社の祭主を務めていた家系の者と知己を得ることとなり、許しを得て同家の記録及び祭具等を拝見したことがある。
同家記録によれば、初代当主・音信が牛頭天王社の当院(祭主の謂か)となったのは江戸中期とされる。
音信は寛延四年(徳川9代将軍家重の代)に没しており、それ以前の祭祀は別の者が担っていたとも、無祭主であったとも考えられる。平安から戦国期までに荒廃した社寺は全国に多数あり、その多くは公式・非公式を含め何らかの形で江戸期に新たな祭主を得て再興したことが知られており、志津川牛頭天王社の祭主もこの例に類するものであろうと類推される。
なお明治以降、同家は姓を冠するようになり、第7代当主は町制移行前の本吉村の初代村長を務めている。
以後、同家は志津川の地を離れ、かつての牛頭天王社である須賀神社は、地域の氏子らによる祭祀に委ねられることとなった(ただし同社御神体は旧祭主家の祖先祭祀と同一管理下にあったことから、須賀神社社殿を離れ、現在も旧祭主家により管理されている)。
同社の鎮座する天王山一帯は、元は祭主家の管理下にあったが、同家が志津川を離れるにあたり手放し、昭和期には社有地として氏子らにより管理されていたようである。その一部は、のちに旧志津川町の開発計画により町に売却され、現在の東浜地区(志津川町沼田)となり、志津川町立体育館(ベイサイドアリーナ)や工業団地等が建設・造成され、現在に至る。
また上記の経緯から、同社境内地の一角にはかつて旧祭主家の墓地があった。以前はかつての祭主家による墓参を兼ねた参詣もあったが、その後、国道45号線沿いの小開発により墓地が消失するに至り、以来、旧祭主家では数十年、訪れることがなかったとのことである。なお、このときに参道付近も破壊されており、急峻な斜面に立地する同社は、参拝が困難となった由、伝えられている。
しかし以後も氏子らによる祭礼は欠かさず行われており、細々とながらも信仰が維持されてきた。
その後の経緯を筆者が調べた結果を以下に記す。須賀神社の同時代史として捉えていただければ幸いである。
須賀神社は南三陸町志津川字天王山81に座する。国道45号線沿いの急峻な斜面の中腹にある木造の小さな社殿は、Googleの航空写真、及びストリートビューでも木立に隠れ、それらしき建造物を見つけることはできない。
社殿手前の国道沿いは、さきに記述したとおり開発され建物等も建てられたことから、国道から一見して社殿を仰ぐことも困難であったと思われる。なお、googleの写真でわかるとおり、これらの開発部分は東日本大震災時に発生した津波により破壊されている。
旧祭主家当代当主の姉によれば、昭和期晩年頃の同社は、社寺には珍しく北面しており、参道も北側より回り込むものであったとのことである。社殿北側は南面する急峻な斜面を形成しており、あえて社殿を北面とする地形的な理由は見当たらない。この特異な配置は、おそらく藤原秀衡建立伝承が事実であれば、平泉に本拠を置くかれらの居住地に向くよう配慮されたものであろうと推察される。
最近、筆者は須賀神社の現地調査を行った。googleストリートビューでは、天王山81付近は、津波による瓦礫が体積し、背後に杉木立が見えるばかりであるが、現在、主ながれきは撤去されており、おそらく塩害により枯死したためであろうか、道路沿いの立木も多くが伐採されていた。そのため、平成24年10月現在、国道45号から社殿を拝観することが可能となっている。(下の写真を参照)
須賀神社社殿
地震と津波により倒壊したと思われる鳥居の一部。奥の木立の中に須賀神社社殿がある。このように社殿のすぐそばまで立木の伐採が進んだため、国道側からの見通しは良くなっていた。googleストリートビューと比較されたい。
さきに旧祭主家の証言により、同社は北面する構造であると述べたが、実は現在の社殿は西面、すなわち国道側を向いている。
参道も国道側に向かって築かれているが、途中から津波により破壊されているため、現時点では、どのように参道が形成されていたかは確認することができない。なお、同社鳥居は地震及び津波により倒壊したままであるが、社殿はほぼ完全な状態で残っている。
調査の結果、社殿の向きが変わった理由は以下のような経緯であった。
西暦2000年代の宮城県では、震度6クラスの大きな地震が繰り返し発生していた(平成15年7月26日の宮城県北部連続地震、平成20年6月14日の岩手・宮城内陸地震など)。南三陸町はかつての明治三陸・昭和三陸・チリ地震津波のような被害はなかったものの、北側に山を配し、なおかつ北面していた須賀神社の社殿は、湿気等による腐敗損傷が激しく、社殿が傾いた状態となり、当時発生が恐れられていた次の宮城県沖地震(マグニチュード8クラス)においては、到底持ち堪えられないと判断された。そこで神主と氏子が相談し、鉄筋コンクリート製の土台を新造し、社殿の向きを変えて造営しなおすという大改修工事が行われた。改修工事の決定が平成21年6月であり、同年9月には改修工事を終えている。社殿の向きの変更は、この大改修工事に起因するものであった。またこの工事に要した費用は、上記東浜地区の開発事業に伴う社有地の売却益積立金より捻出したと伝えられる。
それから1年半、須賀神社の氏子らをはじめ、宮城県民の誰もが恐れていた宮城県沖地震は、荒澤神社が勧請された頃の貞観大津波以来とも言われる大規模連動型の巨大地震となり、この地を襲った。
実にマグニチュード9の国内観測史上最大の地震であった。津波被害の凄まじさについては、大きく報道され、記憶にも新しいところであろうから本稿では省略する。既述のとおり、国道45号沿いに津波はこの地まで到達し、社殿前面の建物を破壊・流失させた。なお鳥居は倒壊したものの、笠木、柱等が現地に残っているため、境内地の主要部は浸水を免れたものと推察される。
以上が、志津川の須賀神社に係る現在までの経緯である。
ここまで、事実に基づいた記録として筆を進めてきたが、以後は祇園信仰と東日本大震災に関する「神話的考察」あるいはエッセイとして、筆者の感ずるところを述べることとしたい。
素戔嗚尊信仰=牛頭天王信仰は、災厄をもたらす荒ぶる神を、畏れ、避けるのではなく、逆に信仰の対象とすることで、荒ぶる神の災厄の対象から外れることを祈念したものであることは、すでに述べた。そして、須賀神社を巡る歴史と、東日本大震災前後の大改修についても上記のとおりである。ここから、筆者は以下のように連想、あるいは夢想する。
荒澤神社の勧請も、須賀神社のそれも、この地を繰り返し襲う災厄、すなわち地震と津波を主な契機とし、これらを鎮め、あるいは一族の厄除けを願う意図があったものと推測することは、そう無理ではないように思われる。須賀神社の藤原秀衡勧請説については、北面という特異な配置がこれの傍証であると考える。そうであれば、畿内の文治地震を伝え聞いた秀衡が、貞観津波の再来を恐れ、これを避けるために牛頭天王の勧請に及んだとの想像も、さほど不自然ではなかろう。
藤原一族は、秀衡の願いも空しく「時代」の波にのまれ程なく滅するが、大津波という天変地異の「厄除け」としての祇園信仰のよりどころとして、牛頭天王社は以後も崇敬を集めてきた。それは須賀神社と名称を変えてからも、同様であった。
既述のとおり、須賀神社の祭主家第7代当主は、明治22~25年に、志津川町の前身となる本吉村の初代村長を務める。本吉村は2代目村長の在任時に町制に移行し、明治28年から志津川町となった。そして、明治三陸地震の発生は明治29年6月15日のことであった。当時の町長は、村制時代から引き続き同一人物が務めていた。このように、当地における近現代最初の大津波は、初代村長時代を避けるように起こっている。
そして今般の東日本大震災で、須賀神社の氏子たる人々は、来たるべき大津波を予見したかのように、社殿倒壊前に見事に改修を終えている。その財源となった社有地一部売却の際の資金は、旧志津川町の開発計画からもたらされた。この開発で建設されたベイサイドアリーナは、東日本大震災における最大規模の避難所、及び、流失・壊滅した役場や病院の機能代替施設となる拠点として活用され、以後、この地に仮設役場・診療所が建設され、現在も復興の中心をなしている。
すなわち、未曾有の津波被害を辛うじて逃れ、避難した町民は、牛頭天王社の土地において保護され、復興への第一歩を踏み出した、ということがいえる。
震災・津波という「災厄」それ自体は避けようがない。その被害が最小限となり、生き残った町民の避難場所が確保され、苦しいながらも命をつなぎとめることができるよう、素戔嗚尊=牛頭天王は、町民の信心に応えていたのではないか。その結果が、当初記載のとおり、発災直後に覚悟されたより、はるかに少ない犠牲者数にあらわれているのではないか。
社有地売却をもって実現した東浜地区の開発計画、その売却益による社殿大改修と、東日本大震災において須賀神社が保たれたこと、さらに売却した社有地が、さきの大震災において町民の避難場所となったことは、「荒ぶる神=荒魂」信仰により、以上のような「ひとすじの物語」を形成するのではないか。
それは「現代の神話」のようなできごとではなかったか。筆者には、そう思えてならない。
「此れ即ち天王の御加護なりし哉」
以上は、須賀神社を巡る一連の経緯に触れる機会を得た、一個人の感想にすぎない。須賀神社を現在守っている人々が(あるいはそのうち、どれほどの人が)、同じような感想を抱いているかどうかもわからない。
しかし、おそらくはこのようにして、神話や伝承とともに紡がれていくものが「信仰」の正体ではなかろうか。そして、ヒトである我々には、信心の帰趨を知るすべは無く、ただただ、世の平安を祈り、日々を正しく生きることしかできないのである。
したがって、当地の祇園信仰は、人の営為がある限り、須賀神社とともに、今後も残っていくであろうと、筆者は思う。
無社格の小祠にして、これほどの因縁めいた物語を紡ぎ出す力を有するのであるから。
補記
改修を終えた須賀神社の小さな社殿は、筆者をして、かつて出雲大社拝殿裏で参拝した素鵞社(すがのやしろ、出雲神社)を思い出させる。同社の祭神は素戔嗚尊である。
筆者の参詣は大学時代、宗教学徒であった頃のことである。出雲大社は有名な縁結びの神であるが、拝殿での参拝を済ませた筆者は御籤を引き、「凶」の託宣を得て大いに落胆した。まことに宗教学徒にあるまじき感情の動きである。その後、拝殿裏にある出雲神社に参詣し、この小祠に祀られているのが、かの荒魂である素戔嗚尊であることに、奇妙な感銘を受けた。まつろわぬ神であり、出雲神話の英雄であり、災厄をもたらす神である素戔嗚尊と、孤独癖で、社会になじめない自分とを重ね合わせ、愚かな空想に浸っていたのであろう。ともかく、筆者は特別な感情を抱きつつ、出雲神社に祈りを捧げた。
このときから十余年を経て、須賀神社の旧祭主家に縁があり、当代当主の姉と、筆者は結婚した。
あるいは、良縁なき筆者を素戔嗚尊が憐れんでくださった故かもしれぬとも思う。
上記の「物語」は、このような筆者個人の物語を背景に持つものでもある。
なお、旧祭主家において管理されている須賀神社の御神体についても言及しておきたい。それは、金属製の神像である。
多くの牛頭天王像と同様に、手に斧を持ち座禅を組んだ姿をしている。しかしその造形は特異であり、歴史時代以降の我が国の宗教美術には、管見の限り類例を見ない。
我が国の古代以降の神仏像のほとんどは、シルクロード経由のギリシャ・ローマ美術の流れを汲んだ写実的・具象的なものであるのに対し、旧祭主家蔵牛頭天王像は、四角形で造形された目など、南太平洋諸国、あるいはメソアメリカ、又はアフリカ等のプリミティブ・アートを思わせる抽象性を帯びている。
御神体の由来については資料も伝承もなく、目下のところ手懸かりを持たない。今後も研究を進めることとしたい。
東日本大震災で、歴史的に何度も大津波による甚大な被害を受けてきた、南三陸町志津川地区をはじめとする町沿岸部は、またしても人類の想像力を超える自然の力の前に、壊滅的な打撃を受けた。
震災翌日の自衛隊ヘリによる空中からの被害状況確認において、志津川地区は当初「壊滅」と伝えられた。
この時点では、町人口約1万8,000人のおよそ半数が「所在確認できず」とされ、一時は同町のみで1万人規模の犠牲も危惧された。
その後、災害救助活動が進み、混乱が収束するとともに、同町の死者数は500人台にとどまることが判明した。悲惨な数ではあるものの、当初危惧された被害規模よりは大幅に少なく、史上最大規模の震災において、町民、関係者の努力、営為が一定の効果を結んだものと考える。
とはいえ、いまだ志津川地区は、沿岸部に集められたがれきの山のほかは荒漠たる風景を成しており、復興といえば津波浸水が及んだやや奥まった場所に、仮設商店街が作られた程度である。多くの住民は町内外の仮設住宅で暮らし、傷の癒えぬ日々を送っている。
南三陸町は、平成の大合併により、北部の旧歌津町と南部の旧志津川町が合併して誕生した。
旧志津川町は、町誌によれば内陸の入谷地区の入谷村に八幡神社が創建されたのが天武天皇朝時代とあり、飛鳥時代以前に、まず内陸部に人が住み始めたことが分かっている。かつての入谷地区の主要な産業は養蚕であり、現在は漁業で有名な同町であるが、沿岸部での漁労による発展は江戸期以降のこととされ、それ以前の沿岸集落は小規模であったと考えられる。
しかし、上記の入谷地区の記述にあるとおり、この地域が歴史に登場するのは古代にまでさかのぼる。古くは北上山系の産金地としても知られ、今でも金採取の遺構が残っている。
また、平安期の貞観年間(859-877)には、沿岸部の袖浜地区にに大和国龍田神社の分霊を勧請し龍田明神社(現:荒澤神社)が創建されている。ちなみに東日本大震災と同規模の津波を引き起こしたとされる「貞観地震」は869年のことである。
当時の南三陸町は安倍氏の支配下にあった。その安倍氏により、隣接する気仙沼市本吉町との境に位置する田束山が霊峰として祀られ、主に修験者による信仰を集めるようになった。以後も田束山は歴代の支配者から神聖視され、信仰の対象として厚く保護されており、本地域の宗教的中心地としての地位を占めている。
同じ平安年間、前九年の役(1062)で安倍貞任が破れ、安倍氏が滅亡。以後当地は出羽清原氏の支配下となるも、後三年の役(1087)にて出羽清原氏も滅し、その後は奥州藤原氏の支配下に入る。藤原秀衡は田束山信仰を引き継ぎつつ、文治年間(1185-89)、志津川町内に素戔嗚尊(牛頭天王)を勧請し、牛頭天王社、現在須賀神社と呼ばれる社がこの地に創建されたと伝えられる。
なお文治の改元は畿内に記録の残る文治地震を契機とする旨の説もある。文治地震は震源や規模等が不明であり、南海トラフ地震の一つであったともいわれる。
牛頭天王信仰はいわゆる「祇園信仰」として知られ、素戔嗚尊との習合については、蘇民将来の説話とともにその期限は古い(奈良時代以前とも言われる)。その謂は、厄災をもたらす神=荒魂を祀ることで、反対に厄災を除けることを目的とした信仰である。
しかし平安末期の動乱において、勧請より程なくして奥州藤原氏は滅亡し、以後、当地は鎌倉幕府直轄領となる。
その後の戦国時代において、当地は葛西氏らの所領となり、最終的には伊達政宗の治める仙台藩に属することとなった。
藤原秀衡建立と伝えられる牛頭天王社であるが、社格としては特筆すべきものはない。しかし代々において地域の厚い信仰に支えられてきたものと思われる。それは、志津川町の天王前、天王山といった地名がこの牛頭天王社に由来するものであることからも窺い知れる。
現在は常在の祭主はおらず、年1回、6月23日の例祭時に神主と氏子が集まり祭祀が執り行われている。なお、須賀神社と称するようになったのは明治の神仏分離以後のことである。
さて、筆者は偶然により、かつて須賀神社の祭主を務めていた家系の者と知己を得ることとなり、許しを得て同家の記録及び祭具等を拝見したことがある。
同家記録によれば、初代当主・音信が牛頭天王社の当院(祭主の謂か)となったのは江戸中期とされる。
音信は寛延四年(徳川9代将軍家重の代)に没しており、それ以前の祭祀は別の者が担っていたとも、無祭主であったとも考えられる。平安から戦国期までに荒廃した社寺は全国に多数あり、その多くは公式・非公式を含め何らかの形で江戸期に新たな祭主を得て再興したことが知られており、志津川牛頭天王社の祭主もこの例に類するものであろうと類推される。
なお明治以降、同家は姓を冠するようになり、第7代当主は町制移行前の本吉村の初代村長を務めている。
以後、同家は志津川の地を離れ、かつての牛頭天王社である須賀神社は、地域の氏子らによる祭祀に委ねられることとなった(ただし同社御神体は旧祭主家の祖先祭祀と同一管理下にあったことから、須賀神社社殿を離れ、現在も旧祭主家により管理されている)。
同社の鎮座する天王山一帯は、元は祭主家の管理下にあったが、同家が志津川を離れるにあたり手放し、昭和期には社有地として氏子らにより管理されていたようである。その一部は、のちに旧志津川町の開発計画により町に売却され、現在の東浜地区(志津川町沼田)となり、志津川町立体育館(ベイサイドアリーナ)や工業団地等が建設・造成され、現在に至る。
また上記の経緯から、同社境内地の一角にはかつて旧祭主家の墓地があった。以前はかつての祭主家による墓参を兼ねた参詣もあったが、その後、国道45号線沿いの小開発により墓地が消失するに至り、以来、旧祭主家では数十年、訪れることがなかったとのことである。なお、このときに参道付近も破壊されており、急峻な斜面に立地する同社は、参拝が困難となった由、伝えられている。
しかし以後も氏子らによる祭礼は欠かさず行われており、細々とながらも信仰が維持されてきた。
その後の経緯を筆者が調べた結果を以下に記す。須賀神社の同時代史として捉えていただければ幸いである。
須賀神社は南三陸町志津川字天王山81に座する。国道45号線沿いの急峻な斜面の中腹にある木造の小さな社殿は、Googleの航空写真、及びストリートビューでも木立に隠れ、それらしき建造物を見つけることはできない。
社殿手前の国道沿いは、さきに記述したとおり開発され建物等も建てられたことから、国道から一見して社殿を仰ぐことも困難であったと思われる。なお、googleの写真でわかるとおり、これらの開発部分は東日本大震災時に発生した津波により破壊されている。
旧祭主家当代当主の姉によれば、昭和期晩年頃の同社は、社寺には珍しく北面しており、参道も北側より回り込むものであったとのことである。社殿北側は南面する急峻な斜面を形成しており、あえて社殿を北面とする地形的な理由は見当たらない。この特異な配置は、おそらく藤原秀衡建立伝承が事実であれば、平泉に本拠を置くかれらの居住地に向くよう配慮されたものであろうと推察される。
最近、筆者は須賀神社の現地調査を行った。googleストリートビューでは、天王山81付近は、津波による瓦礫が体積し、背後に杉木立が見えるばかりであるが、現在、主ながれきは撤去されており、おそらく塩害により枯死したためであろうか、道路沿いの立木も多くが伐採されていた。そのため、平成24年10月現在、国道45号から社殿を拝観することが可能となっている。(下の写真を参照)
須賀神社社殿
地震と津波により倒壊したと思われる鳥居の一部。奥の木立の中に須賀神社社殿がある。このように社殿のすぐそばまで立木の伐採が進んだため、国道側からの見通しは良くなっていた。googleストリートビューと比較されたい。
さきに旧祭主家の証言により、同社は北面する構造であると述べたが、実は現在の社殿は西面、すなわち国道側を向いている。
参道も国道側に向かって築かれているが、途中から津波により破壊されているため、現時点では、どのように参道が形成されていたかは確認することができない。なお、同社鳥居は地震及び津波により倒壊したままであるが、社殿はほぼ完全な状態で残っている。
調査の結果、社殿の向きが変わった理由は以下のような経緯であった。
西暦2000年代の宮城県では、震度6クラスの大きな地震が繰り返し発生していた(平成15年7月26日の宮城県北部連続地震、平成20年6月14日の岩手・宮城内陸地震など)。南三陸町はかつての明治三陸・昭和三陸・チリ地震津波のような被害はなかったものの、北側に山を配し、なおかつ北面していた須賀神社の社殿は、湿気等による腐敗損傷が激しく、社殿が傾いた状態となり、当時発生が恐れられていた次の宮城県沖地震(マグニチュード8クラス)においては、到底持ち堪えられないと判断された。そこで神主と氏子が相談し、鉄筋コンクリート製の土台を新造し、社殿の向きを変えて造営しなおすという大改修工事が行われた。改修工事の決定が平成21年6月であり、同年9月には改修工事を終えている。社殿の向きの変更は、この大改修工事に起因するものであった。またこの工事に要した費用は、上記東浜地区の開発事業に伴う社有地の売却益積立金より捻出したと伝えられる。
それから1年半、須賀神社の氏子らをはじめ、宮城県民の誰もが恐れていた宮城県沖地震は、荒澤神社が勧請された頃の貞観大津波以来とも言われる大規模連動型の巨大地震となり、この地を襲った。
実にマグニチュード9の国内観測史上最大の地震であった。津波被害の凄まじさについては、大きく報道され、記憶にも新しいところであろうから本稿では省略する。既述のとおり、国道45号沿いに津波はこの地まで到達し、社殿前面の建物を破壊・流失させた。なお鳥居は倒壊したものの、笠木、柱等が現地に残っているため、境内地の主要部は浸水を免れたものと推察される。
以上が、志津川の須賀神社に係る現在までの経緯である。
ここまで、事実に基づいた記録として筆を進めてきたが、以後は祇園信仰と東日本大震災に関する「神話的考察」あるいはエッセイとして、筆者の感ずるところを述べることとしたい。
素戔嗚尊信仰=牛頭天王信仰は、災厄をもたらす荒ぶる神を、畏れ、避けるのではなく、逆に信仰の対象とすることで、荒ぶる神の災厄の対象から外れることを祈念したものであることは、すでに述べた。そして、須賀神社を巡る歴史と、東日本大震災前後の大改修についても上記のとおりである。ここから、筆者は以下のように連想、あるいは夢想する。
荒澤神社の勧請も、須賀神社のそれも、この地を繰り返し襲う災厄、すなわち地震と津波を主な契機とし、これらを鎮め、あるいは一族の厄除けを願う意図があったものと推測することは、そう無理ではないように思われる。須賀神社の藤原秀衡勧請説については、北面という特異な配置がこれの傍証であると考える。そうであれば、畿内の文治地震を伝え聞いた秀衡が、貞観津波の再来を恐れ、これを避けるために牛頭天王の勧請に及んだとの想像も、さほど不自然ではなかろう。
藤原一族は、秀衡の願いも空しく「時代」の波にのまれ程なく滅するが、大津波という天変地異の「厄除け」としての祇園信仰のよりどころとして、牛頭天王社は以後も崇敬を集めてきた。それは須賀神社と名称を変えてからも、同様であった。
既述のとおり、須賀神社の祭主家第7代当主は、明治22~25年に、志津川町の前身となる本吉村の初代村長を務める。本吉村は2代目村長の在任時に町制に移行し、明治28年から志津川町となった。そして、明治三陸地震の発生は明治29年6月15日のことであった。当時の町長は、村制時代から引き続き同一人物が務めていた。このように、当地における近現代最初の大津波は、初代村長時代を避けるように起こっている。
そして今般の東日本大震災で、須賀神社の氏子たる人々は、来たるべき大津波を予見したかのように、社殿倒壊前に見事に改修を終えている。その財源となった社有地一部売却の際の資金は、旧志津川町の開発計画からもたらされた。この開発で建設されたベイサイドアリーナは、東日本大震災における最大規模の避難所、及び、流失・壊滅した役場や病院の機能代替施設となる拠点として活用され、以後、この地に仮設役場・診療所が建設され、現在も復興の中心をなしている。
すなわち、未曾有の津波被害を辛うじて逃れ、避難した町民は、牛頭天王社の土地において保護され、復興への第一歩を踏み出した、ということがいえる。
震災・津波という「災厄」それ自体は避けようがない。その被害が最小限となり、生き残った町民の避難場所が確保され、苦しいながらも命をつなぎとめることができるよう、素戔嗚尊=牛頭天王は、町民の信心に応えていたのではないか。その結果が、当初記載のとおり、発災直後に覚悟されたより、はるかに少ない犠牲者数にあらわれているのではないか。
社有地売却をもって実現した東浜地区の開発計画、その売却益による社殿大改修と、東日本大震災において須賀神社が保たれたこと、さらに売却した社有地が、さきの大震災において町民の避難場所となったことは、「荒ぶる神=荒魂」信仰により、以上のような「ひとすじの物語」を形成するのではないか。
それは「現代の神話」のようなできごとではなかったか。筆者には、そう思えてならない。
「此れ即ち天王の御加護なりし哉」
以上は、須賀神社を巡る一連の経緯に触れる機会を得た、一個人の感想にすぎない。須賀神社を現在守っている人々が(あるいはそのうち、どれほどの人が)、同じような感想を抱いているかどうかもわからない。
しかし、おそらくはこのようにして、神話や伝承とともに紡がれていくものが「信仰」の正体ではなかろうか。そして、ヒトである我々には、信心の帰趨を知るすべは無く、ただただ、世の平安を祈り、日々を正しく生きることしかできないのである。
したがって、当地の祇園信仰は、人の営為がある限り、須賀神社とともに、今後も残っていくであろうと、筆者は思う。
無社格の小祠にして、これほどの因縁めいた物語を紡ぎ出す力を有するのであるから。
補記
改修を終えた須賀神社の小さな社殿は、筆者をして、かつて出雲大社拝殿裏で参拝した素鵞社(すがのやしろ、出雲神社)を思い出させる。同社の祭神は素戔嗚尊である。
筆者の参詣は大学時代、宗教学徒であった頃のことである。出雲大社は有名な縁結びの神であるが、拝殿での参拝を済ませた筆者は御籤を引き、「凶」の託宣を得て大いに落胆した。まことに宗教学徒にあるまじき感情の動きである。その後、拝殿裏にある出雲神社に参詣し、この小祠に祀られているのが、かの荒魂である素戔嗚尊であることに、奇妙な感銘を受けた。まつろわぬ神であり、出雲神話の英雄であり、災厄をもたらす神である素戔嗚尊と、孤独癖で、社会になじめない自分とを重ね合わせ、愚かな空想に浸っていたのであろう。ともかく、筆者は特別な感情を抱きつつ、出雲神社に祈りを捧げた。
このときから十余年を経て、須賀神社の旧祭主家に縁があり、当代当主の姉と、筆者は結婚した。
あるいは、良縁なき筆者を素戔嗚尊が憐れんでくださった故かもしれぬとも思う。
上記の「物語」は、このような筆者個人の物語を背景に持つものでもある。
なお、旧祭主家において管理されている須賀神社の御神体についても言及しておきたい。それは、金属製の神像である。
多くの牛頭天王像と同様に、手に斧を持ち座禅を組んだ姿をしている。しかしその造形は特異であり、歴史時代以降の我が国の宗教美術には、管見の限り類例を見ない。
我が国の古代以降の神仏像のほとんどは、シルクロード経由のギリシャ・ローマ美術の流れを汲んだ写実的・具象的なものであるのに対し、旧祭主家蔵牛頭天王像は、四角形で造形された目など、南太平洋諸国、あるいはメソアメリカ、又はアフリカ等のプリミティブ・アートを思わせる抽象性を帯びている。
御神体の由来については資料も伝承もなく、目下のところ手懸かりを持たない。今後も研究を進めることとしたい。