昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

アアアヤッパリソウデスカ

2006-04-28 22:00:58 | Weblog
 
 最近更新されていないようですが、こちらのページ

 「首都大学東京」スタート時のあれこれを書いておられます。
 職業柄、色々と思うところもあるのですが、次の部分に引っかかりました。(以下引用)

 8月の怒涛の資料集めと提出文書の作成の嵐の最中に、新学長の「開学の挨拶」が回覧されました。
 これがもの凄く内容が理解しにくい文章です。
 ためしに意味不明箇所に赤線を入れていくと、それだけで真っ赤になってしまいました。
 (中略)
 心ある係長や課長は、事務側で直さないと出せる文章ではないと忠告をしたようです。
 管理本部の担当部署もさすがにマズイと思ったらしく、電話などで内容の訂正を行いました。
 現在出ている「学長挨拶」はそうしてできあがった文章です。それでも文句を言いたい方はたくさんいるかもしれません。
 確かに文章の下手な研究者の方もいらっしゃいます。
 しかし今回の場合、根本的な問題は、文章の上手下手ではなく中身でした。
 最初の文章と、公開された学長挨拶を見てわかるのは、事務方が直そうとして苦労した挙句、結局失敗していることです。

  http://www.tmu.ac.jp/university/messages/president.html

 「学長挨拶」というのは、大学のこれから目指すべきもの、理想などを示す文章です。
 事務方がそれを直そうとして、結局到達できなかったのは、元の文章に全く中身がないせいでした。
(中略)
 しかし仮にも東北大学総長や岩手県立大学長をしたらっしゃった方が、全く新大学の未来を語れない文章しか書けないなんて実に悲しいことです。
(中略) 
西澤学長が、東北大や岩手県立で同じようだったとは思いません。おそらく今は大学の未来を語るだけの情熱を失ってらっしゃるのでしょう。
(引用ここまで)

 わたくしが学生してましたころ、研究室に総長挨拶がまわってきました。この方の。
 いちおう郷土の誇りなわけですよ。わたくし、もと理系ですし。尊敬もしておりました。
 ほんで、読んでみました。

「?」
「?」
「??????」

 なにかいてるか、皆目わかりません。
 研究室助手のMさんに、「この文はないっすよねぇ」なハナシをしたところ、Mさんは苦笑しながら、
「まあ、忙しい人だから、だれか代筆してノーチェックなんじゃないの?」とのたまっておられました。
 あれから十余年が経ちますが、上の文章を読んで、ああ、あのときの総長挨拶は「直筆」であったのか、と確信するに到りました。
 ちなみに、首都大学東京のあいさつは、まだすっごくマシです。だって、日本語として読めるもの。
 ところで、えーと、わが母校のGMやさんは、だれもチェックしなかったの?ネェネェ
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トンデモは身近にありて、あらびっくり

2006-04-26 22:44:45 | Weblog
と学会、設立当初からのファンです。と学会関係の本も大抵揃えています。
(山本会長、皆神氏、植木氏、眠田氏がお気に入り)
ところで、先日、父の遺品を整理していたら、名刺入れの中に、異なものを発見しました。

『私説アルプスの少女ハイジその後』
 
 作家 阿部照雄

 ○○市××

 なぬ?『トンデモ本の世界S』他で紹介されていた、「波動を測定されるハイジ」を書いた、あの方ですか!
 
 ええと、想像するにですね、父は生前、広告美術業を営んでおりまして、講演会等の垂れ幕やステージ用の看板なんかを製作するということをしておりました。ので、作家・阿部照雄先生の出版記念パーティーか何かの、そういったブツの製作を依頼されていたのではないかと思われます。
 父が亡くなってしまった今となっては、真相は薮の中・・・残念。
 え?名刺があるなら、阿部センセイに電話して聞いてみたらって?
 でも、すげー電話かけづらくないすか?
 RRRRR...
 「(ガチャ)はい、阿部です」
 「突然すみません。トキと申します。あの、実は父の遺品に先生の名刺を見つけまして、先生と父はどのようなご縁があったのかと・・・」
 「ええ、それはかくかくしかじか。で、なぜそんなことに興味を?
 答えられます?そこのアナタ。あっしにゃあ無理です。ですんで、本件、薮の中でいいっす。
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分岐点

2006-04-26 21:32:08 | Weblog
前回にひきつづき、ライブドアブログの紹介です・・・gooさんスマン。偶然なのよ。
 こちらのブログ、最近知ったのですが、個人的に大変親近感を抱いております。
というのは、読書歴が、たいへん似通っているのです。(おそらく同年代とお見受けしました)

・「学研まんがひみつシリーズ」で理科・社会知識を蓄積
・「ゲームセンターあらし」にBASICを学ぶ
   ※私が小学校高学年の頃、世は低価格パソコンブームでした。その後ファミコンの登場で廃れますが・・・。
・「小山田いく」作品を愛読

 フラスコさんは、小山田作品の影響で天文部に入り(「星のローカス」でしょう)、全寮制高校にあこがれたり(「ぶるうピーター」ですね)され、ついには研究者・教員になられました。すばらしい!
「学研まんが」を暗記するくらい読んでいましたから、私もどちらかというと理系志向でした。コドモの頃は。
 小学校の卒業文集にも、学者になるとか書いた覚えがあります。
 中学以降も、廃刊まで「科学朝日」なんかを愛読していました。
 それで、フラスコさんは研究者となり、私は何を間違ったか、昼行灯をしている、という訳です。
 はて、何が違ったのか?というと、「算数」。
 私、算数、ダメなんです。テストでは絶対計算間違いをするんです。
 おかげで、中学以降の数学の成績はボロボロでした・・・。理屈はわかるんですけどね。答えがあわない。
 「計算なんて練習ですよ」って?ええわかってますとも、でも私、昼行灯なんです。好きなことしかしたくないんです。
 国語・理科・社会なんて、高校まで学研まんがの知識で乗り切りましたよ。(つまり、学研まんがに書いてあったことは、改めて覚える必要がなかった)
 学校も嫌いでしたし、勉強もきらいでした。高校進学すら渋っていたくらいです。
 ただ、面白いもので、理系人間だった私は、中学当時、宇宙論経由で哲学に興味を持ったのですね。結局これがきっかけで、理系から文系に転びました。
 それで、いろいろ悪あがきをした末に、大学では文学部に入り、哲学ならぬ宗教学を学んで、昼行灯に磨きをかけ、今に至る、というオチ。

 嗚呼、同じ読書歴にして、かたやあくがれの研究者、かたや昼行灯。
 あ、昼行灯なのは最初からか・・・じゃ、生まれたときじゃん、分岐点。
(´・ω・`)ショボーン

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ロッキータン(・∀・)イイ!

2006-04-26 21:14:31 | Weblog
えー宣伝です。こちらのブログをごらんください。
ご存知のかたもおられるでしょうが、宮城県で自然保護員をされている武田さんが、ニホンカモシカの赤ちゃん「ロッキー」を救護し、野生に返すまでの2年間を追った日本テレビ系列『ドキュメント'05 ロッキーへの手紙』(制作:ミヤギテレビ)という番組があります。
そこで、武田さんの献身的な保護活動が、全国に知られるところとなりました。
(先日(4月20日)には、「奇跡体験!アンビリバボー」でも取り上げられていました。)
私もこの番組で武田さんのことを知り、感動した一人です。

でも、それじゃダメだったんです。ええ。

わたくし、前の職場は、こういうことと縁の深いところでした。なのに、このハナシぜんぜん知らなかった・・・orz

とにかく、赤ちゃんロッキーの可愛さにやられます。興味のある方は本も出ていますので、ぜひお買い求めください。
なお、宮城県にはは野生鳥獣の救護施設がないそうで、武田さんはNPOを立ち上げ、民間主導で建設に向けてがんばっておられます。

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ドラえもん

2006-04-26 21:03:53 | Weblog
声優陣が交代したのは、もう1年も前のことになるが、とても気に入っている。
なぜって、絵ですよ、絵。原作に近くなったじゃないですか。
TV放映が始まったのが、私が小1のときですから、かれこれ30年くらいになるわけですが、当時から「絵が原作と違う!」のが、とても不満だったのです。
放送開始時の業界レベルではそれもやむなしですが、その後、スキルが上がってくるにつれ、もう忸怩たる思いでおりました。しかも、キャラクター物はもうアニメの絵のほうがスタンダードになってる始末。納得できませなんだ。
 それが、物議を醸した声優交代に伴い、やってくれたじゃないですか。ストーリーもちゃんと原作テイストを再現しているし。
(関係ないけど、BJもよくやってますよね。線の太さまで再現してる作画監督さんまで居たりするし)
 藤子F先生をSFの師と仰ぐ私としては、たいへん満足しております。
 しかし、TVから入ったヒトたち(例:うちの奥さん)には、新生ドラはすこぶる評判が悪い・・・。その大半が声についての違和感ですが。
 私的には、声なんてどうでもいいっす。もともとコロコロコミックで読んでたわけだし。
 ところで、なぜ映画版では、さらに絵柄を変えているんですかね?マーケティングなのかなぁ。

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終末医療に思う。

2006-04-26 00:31:55 | Weblog
 朝日新聞で、終末医療のあり方を特集していた。要は「人工呼吸器をいつどうやって外すか」あるいは「ずっと外さないのか」ってことで、外す自由を認めよから、外す時点で本人の意思が分からないなら最大限生かしてやれまで色々。
 どうするべきかなんて、分からないが、いい機会なので父の思い出を書いておく。
 昨年末、父を亡くした。亡くなる直前の父は、人工呼吸器は付けていなかったが、酸素吸入器と脈拍モニタを付けていた。
 その日、真夜中に病院から呼び出しがあった。父は、ベッドのマットレスを2枚並べたうえに、奇妙に傾いた格好で寝かされていた。目は見開き、視線は宙をさまよっていた。涙がゼリー状に固まっているように見えた。呼吸に伴い、胸が不自然なくらい上下していた。必死で、息をしているようにも、機械で無理に動かされているようにも見えた。
 「夕方までは体動がひどく、ベッドから落ちそうだったのでこうするしかなかった」と看護師から説明があった。
 兄が、冷たくなった父の手を握り話しかけた。「反応があるよ。」と促され、私も握った。たしかに、握り返してきた、2度、3度。そして、見開いたままの目線が、たまにこちらを向いた。そしてまた、宙を舞った。私と兄は、父から教わったこと、父が頑張ってきたこと、自分たちが到らなかったこと、さまざまな事を語り続けた。
 父の手や目の反応は、しだいに少なくなっていった。言葉もどれほど理解しているかは、もう、わからなかった。
 父は肝不全の末期だった。腹水がひどくなり救急車で運ばれた。「安定するか急変するかは分からない。肝機能の回復は見込めないので、腎臓がまずだめになり、尿毒症で意識混濁となり死に到る。一週間持たないかもしれないし、3ヶ月持つかもしれない」主治医にそう説明された。最初の2週間は、利尿剤で腹水も抜けつつあった。退院の手続きを始めるとも言われた。一人暮らしはさせられないが、私も兄も同居はできない。それで、病院付けのソーシャルワーカーに、転院先を当たってもらったが、色よい返事はなかったようだ。正直、対応に困っていたが、その後、病院からは、退院についての連絡が来なくなった。そのまま、一週間ほど過ぎた。
 ある朝、父から電話があった。バス停でバスを待っているときだった。「同室の患者から、肝臓移植を勧められた。血液型があうのはお前だが、兄から厚生労働省へ頼んで手配してはもらえないか」と。
 入院当初、主治医から「アルコール性肝不全は生活習慣病で本人の責任が大きい。生体肝移植ができる設備、資源は限られており、生活習慣病の患者に資源を回すことは道義上できない」という説明があった。正直なところ、移植リスクを負うことも同意しかねた。色々問題があり、決して
うまくは行っていない親子だ。「そんなに簡単じゃないよ。兄貴もそこまでの力はない」と簡単に答えた。「そうか・・・」と、父は力なくつぶやいた。バスが来たので、その時はそれで電話を切った。後に、兄にこの電話のことをメールした。「様子がおかしい」とも。兄からは「夢でも見ていたのかも。死にたくないのでしょう」との返事が来た。
 翌日、主治医に接見を求められた。「芳しくない」との話だった。しばらくして看護師から「個室に移った。おむつと清浄綿を準備してほしい」と電話があった。買い物をして、病室を訪れると、指先に点滴を刺した父が、震える手で携帯電話を操作していた。「短縮ダイヤルで、兄に電話する方法を忘れてしまった」と言った。「こうすればいい」と教えたが、父はちゃんと覚えられない。ボタンもうまく押せない。「手順をこれに書いてくれ」と、メモ帳を渡された。言われたとおり書いたが、そのとおりの操作はやはり出来なかった。「俺も耄碌したのかな」父がつぶやいた。すでに末期の症状が出ていた、膝が自然に曲がってしまい、寝巻きがはだけてしまう。何度も直したが、同じだった。
 1時間もそうしていただろうか。「そろそろ帰るね。また来るよ」というと「いいよ。じゃあ」と言って父は背を向け横になった。そんな時だけは、受け答えがしっかりしている。弱味は見せたくないのだろうな、と思った。そして、結果的にそれが、最後に父と交わした言葉になった。病院から呼び出しがあったのは、その2日後のことだ。

 父はいま、明らかに命を終えようとしている。兄弟で考えた末、母を呼んだ。数年前から別居状態にあったが、入院してからも会わせなかった。最期も兄弟のみで看取るつもりだったが、この時間なら、会いたくない親戚や知人も来ないだろう。本当は、意思の疎通が出来るときに会わせたかったが、どうせ喧嘩になってしまう。父にとっては、言いたいことが言えない状態での再会になってしまった。可哀相だが、仕方がない。
 母は泣いた。「こんな風にさせたくなかったから言っていたのに」と言って、父の額をなぜた。私も、とうとう泣いた。どうしようもないことが、どうしようもなく悲しかった。兄は、このときはまだ泣かなかった(理由はあるが書かない)。「もう眠ったら。頑張っても苦しいだけだよ」と母が言った。父は、決して、まばたきすらしようとはしなかった。「目を閉じたら最期だ」と、強い意志で開けられたままであるようだ。そう母は言った。私には、父が瞼を、閉じないのか、閉じられないのか、それすら、分からなかった。
 夜が明けた。窓の外は、はじめての本格的な雪だった。公園の池には、白鳥がいる。時折、風が強くなった。冬の荒天は、暖かい日差しと冷たい風、雪。病院の中はうそのように暖かい。父にはおそらく、もう、この景色が見えていない。
 8時間ほど、そうして病室で過ごした。そういえば、家族4人がそろうのは何年ぶりだろう。
 父は、しばらく動いていない。ときおり、うなるような声を出しているが、その言葉は、此岸には届かない。それをどうすることも、もはや、出来なかった。
 ふと、父と関係ない話題を母としていたら、父の目が、数時間ぶりにこちらを向いているのに気がついた。
 「ああ、ごめんごめん、関係ない話してて」そう言って、父の額に手を当てた。ほどなくして、父が、ようやく目を閉じた。やっと眠れるようになったのか、と思った瞬間、宿直医と看護師がなだれ込んできた。瞳孔や脈拍を確認し、吸引機で口の中を吸った。一瞬、父が、眉をしかめて苦しそうな表情をした。看護師が抱えていた父の頭を下ろし、再度口中を吸引した。父の顔はもう、動かなかった。
 
 母の言葉が真実ならば、父は最後まで死に抵抗していたのだろう。こちらに目線を向けたのは、お別れの挨拶だったのか、助けを求めていたのか、わからない。もし、人工呼吸器で生命維持をしている状態だったら、どうしただろうか。息子たちだけなら、きっと外してくれと言っていただろう。母なら、外さない選択をしたであろう。本人の意思は・・・?わからない。わからないが、きっと、母が正解なのだと思う。

 そんなことぐらいしか、言えない。死については、一般化ができない。その時、その時で、個々の死に様があり、周囲のヒトがいるだけだ。そして皆で迷い、悩み、苦しみ、後悔するしかないのだ。そうしなくて済むとすれば、それは、ただ幸運なだけなのだ。
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農業:BSEは簡単だ。

2006-04-25 23:59:24 | Weblog
 BSEが心配で、日本は牛を食肉として出荷する前に全頭検査しているよね。それで、アメリカといろいろあったりして、全頭検査じゃなくてもいいとか、いやダメ、とかやってるけど、すごく意味がないと思う。
 だって、牛肉食べなくても、いまの日本じゃ生きていけるじゃない。心配なヒトは食べなきゃいいじゃん。こんなこというと肉牛育ててるヒトとかに文句言われるかもしれないけどさ。
 BSEに起因するvCJDは確かに発症したら怖い病気だし、いかに罹患リスクが少ないといっても、自分がそれに当たりたくはないよね?でもさ、いまは「検出限界」があって、100%の排除がそもそも無理なんだから、「絶対イヤ」なら食べないしかないじゃん、ていうか、食べなきゃ済むんだから、全部検査とかいうよりそのほうが簡単じゃん。
 ある会議で、保健行政関係のヒトが言ってたよ。「アメリカ人はアメリカの牛を気にしないでじゃんじゃん食べてるけど、vCJDのヒトがじゃんじゃん出てたりしないよ。あと、隠してるとか心配するかもしれないけど、向こうのマスコミに隠せるもんじゃないよ」って。そういやそうだよね。アメリカ人って肥満のヒトとか多いけどさ、健康ブームってあの国から来たじゃん。だったらそういう問題に関心あるヒトも多いってことだし、何かあれば騒ぎになるよね。
 あと、BSE牛食べてvCJDになるよりさ、お酒やタバコや食べすぎで成人病になる確率のほうが高いでしょ?そっち改善するのが先じゃない?そっちはよくてこっちはダメなの?なんで?成人病は怖くない?vCJDは怖い?どっちも苦しんで死ぬんだよ?怖いじゃん。
 だからさ、けっきょく「牛に共食いさせてたのが気持ち悪い」んじゃないの?「そんなぶきみなことするからヘンな病気が出るんだ」って。たしかに、そうしなければこんな病気、問題になるほど増えてないんだろうけどさ、原因と結果と予防方法がわかってんだから怖くないじゃん。「牛肉食えなきゃシヌ!」ってほど好き?単純に食う量減らせばリスク減るよ?3ヶ月にいっぺんとかにすりゃいいじゃん。
 なんでもめてるのか、税金使ってるのか、ぜんぜんわからない。えさに肉骨粉まぜるのやめて、特定危険部位の除去だけやればいいんじゃないの?たぶん、それだけでいいよ。

 そうだ、牛肉のかわりに大豆をたべよう。でも外国産は農薬とか遺伝子組み換えとか心配だ。じゃあ国産大豆製品にしよう。でも、食べ過ぎるとイソフラボンが女性ホルモン様の働きをするよ?じゃあ何食べればいいのって?だからさ、バランスよく食べるしかないんだって。
 自分の健康は「誰かに害される以外ない」と思ってない?でも、たいがい害してるのは自分自身だよね。食事でいちばんだいじなのはけっきょく「偏食しない」ことと「食べ過ぎない」ことと「規則正しく食べる」ことでしかないさ。シンプルに行こうよ。考え過ぎはよくない。
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安全・安心っていうけどさ

2006-04-25 23:58:18 | Weblog
 よく、「安全・安心な農作物」として、無農薬・無化学肥料栽培がもてはやされるけど、これって、第一に「農家」にとって安全なだけだよね。だって、農家は農薬を直接扱うんだから、暴露量はいちばん多くなるじゃない。次に安全・安心になるのは、農地周辺の生き物。もちろん害虫・害獣も含む。最後に消費者だけど、要はごくわずかな残留成分があるかないかで違うだけ。ほとんど変わらないと思う。だって、いまどきの農薬はたいがいすぐ分解されるし、毒性もひところに比べてずいぶん低くなっているし。(過敏症とかのヒトは別ね)
 そうして、農家の皆さんや田畑のいきものたちの「安全・安心」のために、消費者は「無農薬・無化学肥料」を求める。
 ほんとうは、「環境」を買っているんだよ。でも、どれほどのヒトがそう思っているかなぁ?「自分のため」だと思ってない?
 ううん、欲しがるのはいいんだよ。だって、「環境にやさしい」のはホントだもの。素晴らしいことじゃない。でもそれは、「あなたにやさしい」のではないの。これ大事。でも、それをちゃんと分かったうえで、そこにお金を落としてほしい。いま、あなたがそれを食べるときには関係なくても、めぐりめぐってくることだから。
 え?「本当に農家がちゃんと残留しないように農薬を使っているか信用できない」って?じゃあ、あなたが買った無農薬の野菜だってそうじゃない?それに、たとえば無農薬栽培だって、種子の消毒は認められているんだよ?そこまで、ちゃんと調べて買ってる?
 そんなに他人が信用できないなら、自給自足すればいいじゃない。でも、それはイヤなんでしょ?「あれもイヤ、これもイヤ」「リスクは絶対拒否、メリットは最大限享受」なんて、ワガママもいいとこだよ。
 あとさ、無農薬・無化学肥料栽培は、確かにいいこともあるよ。でも、そうすることで、農産物の生産量は確実に落ちる。化学物質(って言い方はヘンなんだけど、あえて解説しないよ)を拒否して、生産量が不足して飢え死にしたら、単なるアホでしょ?それでいいの?ってこと。
 それに、農家のヒトは健康リスクが減る分、労働が大変になる。だって、農薬を使わないってことは、雑草や害虫は手で取ることになるんだから。病気なんて防ぎようがないしさ。それと、病気にかかりにくい農産物は、要するに農薬に相当する成分なり作用を、自前で持ってるってこと。農薬の成分だって、天然物質と同じものを利用しているのが多い。そのへんは、グレガリナさんのHPでも読んで勉強してね。
 結論。だから、結局はバランスで、それなりのリスクを受け入れながら生活するしかないじゃない。がんばったって150歳まで生きられるわけじゃなし。150歳のヨボヨボの人生がいいとも思えないでしょ?トキがいいたいのは、そういうこと。
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農業:団塊世代の活用について

2006-04-25 23:52:22 | Weblog
 退職した団塊の世代を、農業者として受け入れようという動きがある。これでも農業者の高齢化は一向に解決しないが、こうできれば面白いと思う。
 農地は、いわゆる農家から離す。いや、持っていてもいいが、農業で食えないヒトや、自作しきれないヒトは、一定の農地を退職団塊世代向けに強制的に貸すようにする。退職者のうち本格志向の者は担い手農家になればいい。そこまで行かないが農業で食いたいヒトは、集団で農業をする。維持管理作業もやる。生態系調査とかだけをやるヒトがいてもいい。収益は労働に応じて分配する。ルールはそれぞれ決めればいい。いわゆる集落営農の団塊世代版だ。10年もするころには、それもリタイアするヒトが出る。そうしたら、新しい退職者を受け入れればいい。べつに、若い就農者を受け入れたってよい。でも、若いヒトは若いヒト同士でもっと収益性なんかを追求すべきだろう。群れるのがいやなヒトは、頑張って単独で担い手になる規模でやるか(難しいと思うけど)、家庭菜園的にやればいい。そして、集落営農はこの型だけでいい。旧来の小規模農家で、採算が取れないヒトは、たぶん集落営農を始めても、採算が取れるようにならない。経営にこだわるヒト、技術にこだわるヒトは、もう自立できている。そうでないヒトは、いくら集まっても、いままでどおりに勝手にやろうとして失敗するだろう。そうじゃないなら、すぐにでも法人化できるはずだ。だから、できないヒトは、いつまで経ってもできない。それが分かりきっているのに、補助金を配る方法を考える必要はないと思う。そういうヒトは、自給分は赤字を出して作ればいいが、ムダな土地はとりあえず貸してもらう。そこで得られる地代を赤字補填にすればいいだろう。
 暴論を承知で言えば、効率的に経営できない農地は、資源の無駄遣いだ。日本農業にそんな余裕はない。農業したくて出来ないヒトを余らせておく余裕もない。なぜ無駄が生じるのかというと、農地と農家の関係が固定しているからだ。だから、この制度のポイントは「農地は農業経営資源として常に活用させるために、所有はさせない」ことにある。そうすれば、農地という経営資源の上を、10年かけて農業者が働き、そして去ってゆく。そこには、次の退職者が農業者としてやってくる。短いサイクルだが、この方法なら農業者はつねに更新される。後継者不足、高齢化の問題はクリアされる
 ただ、そういう退職者を中心としたヒトは、農業はやりたくても、農村の暮らしやしきたりに縛られたくはないだろう。だから、この方法は「オフィス街」のイメージだ。農村は基本的に働く場で、そこで生活し、そこの習慣を受け入れることはもはや必要とされない。つまり、古くからの農村は解体する。それが担っていた機能は、別の方法で代替させる。心理的に抵抗があるヒトや、農村の暮らし、縛りも受け入れるというヒトは、そういうヒトで固まってやればいいし、別に住んだって構わない。そして体に無理がきかなくなったら、都会に戻ればいい。
 農業と農村と農地は、もうばらそう。そのほうがいいよ。
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職場のことなど

2006-04-25 23:21:38 | Weblog
私の職場、だいたい3年で異動となります。
異動すると、たいてい、それまでと全く関連のない仕事をすることになります。
もちろん、仕事の進め方などのルールは共通ですが、たいていは一から覚えていく必要があります。
現在の仕事に就いて、今年で12年目になります。その間担当したのは、順番に、「農業→税→自然保護→農業」。「農業」は2度目ですが、前回と今回は全く違う内容です。
最初のはどちらかというと土木系。内容はセールスマン。あのころは、気も狂わんばかりの予算があった時代で、ひたすら仕事してました。
いまは御存知のとおり、ひたすら緊縮型です。怒られるかもしれませんが、私の財布も緊縮型です。それでも、量的には当時より余裕があるせいか、色々と見えて来ることがあります。ほんとうは組織として言いたいのですが、そうするにはあまりにも偏りがあるので言えないことなどを、次回から語ってみたいと思います。
なお、「大雑把なひとりごと」ですから、細かい間違いなどは目をつぶってください。
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