昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

「ニセ科学」についての断片的な戯れ言

2008-01-27 13:40:48 | ものおもい
仕事が出来ない。求められている処理能力が私にはない。帰宅しても今後の仕事でつまづくポイントが気になる。私には解決策が見出せないし、他人に聞くことも出来ない。第一、独力で解決して当然だと思われているフシがある。小心者の私にはそれが重圧になる。

以上、前置き。

そういう精神状態だから、まとまった長い論考が書けない。たとえばapjさん他が「ニセ科学批判批判」について色々と書いている。私も断片的に思うところがあるが、思いつきに域を脱しないので、記事に成らない。
ならいっそ、断片をそのまま書いてしまえ。そう思った次第である。

1)実は私は、抽象的議論を好む。偏見で言えば文系的傾向かもしれない。だから、apjさん他の「メタ議論はやめて具体に指摘せよ」は、耳が痛い。文系的には、「こういう見方もあるぞ」という言辞には「おお、なるほど」位は言ってほしいものである。しかし、理系のヒトにこれを言うと「で?そのことにどれだけ意味があるの?」と返されることになる。

2)ニセ科学批判批判は、ニセ科学という言葉でくくれる内容が今のところない(総称するにはそれぞれの独立性が強すぎる)から、「ニセ科学批判批判」は存在しえない(今のところ)、というのがapjさんの言である。
私は単純に「科学でない」^「科学を装う」(記号これで合ってる?)を指摘出来れば「ニセ科学批判」になると思う。
ニセ科学批判批判者がよく口にする「ニセ科学」という名称は蔑称である」という見解が、おおむね妥当だと思うからである。
もっとも、蔑称の意図でなくこの言葉を用いるヒトもいるだろうことを私は認める。
また、「ニセ科学」とされる個別具体例を見れば、それが「蔑称」のニュアンスを含んでも致し方ないとも思う。

3)ところで、「ニセ科学批判批判」としてapjさんが妥当と考える議論はどのようなものだろう。
おそらくは「科学である」か、または「科学を装っていない」のどちらかを主張するものであろう。
最近のコメント欄などで「科学を装っていない」かどうかの判断基準として「通常人が接した場合、科学であると誤認するか否か」という基準が浮かび上がってきた。ここまでくると、確かに法的な内容に近づいて来る。いっぽう、「科学である」との主張には、おおむね「科学的手続きで検証され確からしいとされている」ことを述べる必要が生ずる。水クラスターとかEMなんかはこの例かもしれない。血液型性格診断やある種の占いも広義には含んでよかろう。

4)つまり、「科学である」なら科学にそれなりに精通することが必要だし、「科学を装っていない」なら、今これを主張するとすれば、それなりに法的な知識ないし考え方の訓練が必要になろう。両者の特徴は「精緻に考える」「過去の検証例を蔑ろにしない」ということだと私は考える。

5)それで、問題となるのは、「ニセ科学批判批判」をするヒトは「科学でないかどうか」の議論には乗りたがらないだろう、ということだ。彼らの多くは、信頼を得ている今の科学の方法論やその成果を否定する。あるいはそれを「超えた」ものがありうると主張する。具体のニセ科学支持者であれば、自らが支持するニセ科学こそが「超えたもの」だと主張するだろう。

6)そんな彼らが「科学であると主張せよ」と言われても「土俵が違う」ということになる。だから議論が平行線にしかならない。

7)もっとも、土俵に乗る場合もある。それは科学者系ビリーバーさんが単純な間違いなどに気づかずにトンデモ説を発表する場合や、血液型性格診断と心理学や統計学による根拠を持つと論じたり、反進化論を論じたりする場合である。しかし、これまでの議論では、残念ながら明白な誤り、矛盾、あるいは現在の科学的通説に存在する小さな矛盾や疑問の指摘にとどまり、より妥当と思える対論を提出出来ていないといった事例しかない。

8)話が飛ぶが、ニセ科学批判批判はあり得ないかもしれないが、ニセ科学批判批判批判は十分あり得ると思う。ニセ科学を擁護しその批判を批判する行為は、管見の限りではおおむね下記のパターンに大別される。すなわち「総称として語れる」対象であると思えるからである。

A単純ビリーバー型
 とにかく信じている。現代科学の成果その他とも矛盾しないと思っている。多くは素朴な感情的共感を根拠とするか、単純な誤謬によりミスリードされた結果である。このタイプが行うニセ科学批判批判は「俺の説の方が正しい」に尽きる。誤解が解ければあっさり転向するのがこのタイプではないかと思う。
B自尊心型
 このタイプは、これまでの科学の成果や、ヒト的誤謬を防ぐ為の方法論的な工夫といった部分は考慮しない。このタイプのヒトにとって、科学的手法及びその成果は「権威」のように映る。そして、自分自身はそこから疎外されていると思っている。だから、オルタナティブな価値観として、科学的手法への信頼以外のオプションを持っていたいと考えている。
 具体的には、科学という手法とその成果を肯定するだけでは、自尊心が満足しない。だから、「科学以外の何か」あるいは「現代科学が否定している何か」がその地位にとって代わることを期待し、そこに「保険を掛けている」のがこのタイプである。
 多額の保険料を払うヒトは、特定のニセ科学が「現代科学が理解できない高みに到達したもの」「いずれ現代科学が追いつくべきもの」であると主張する。どんなに勝利の確率が低くても、彼らはその自尊心を満足させうる可能性を残すために、見込みのないチャンスに「賭ける」しかない。
 そして、このタイプにとって「ニセ科学批判」は、「お前が手にしているクジはハズレ確定だ」という主張に他ならない。だから、必死になって否定する。その主張に屈してしまえば、自らを卑小な存在と認めざるを得なくなるからである。
 小額の保険料で済ませるヒトは、「相対主義」の立場を取る。存命中に科学に取って代わる何かが出現すれば「俺はそれを予見していた!」と声高に叫べば良い。もしそうでなくても「より偏見のない公平な視野を保つことが重要だ。科学の成果を強調する者はその点で俺に劣る」と言っておけばいいという寸法である。どちらにしても、「自尊心」だけは勝手に満たせる。ただし、他人に主張しても取り合ってもらえない類いのものである。
 もっとも「自尊心」が動機であるということは、自分が優れていること、多くは「現代科学」よりも優れているのだということを、「他人に認めてもらいたい」と、本音では思っているのである。だから、このタイプは、ブログのコメント欄などでしつこくヒトに絡んで来る。
 このタイプのヒトにとっての「ニセ科学批判」は、それをどんな形でもよいから批判することにより、自尊心を満足させることが(本人にとっては)できるという「アイテム」、又は「エサ」のようなものだ。勿論、結論は「俺の勝ち」で決まっている。自尊心の問題だからである。
 そして、ニセ科学批判に対する共通の本音は「俺の自尊心を崩すような野暮なことは言うな」というものであろう。メタ議論に持ち込むことが多いのもおそらくはこのタイプである。
C商売型
 このタイプは、ニセ科学を持ち出して価値のない者を高額商品と詐称して売り込むヒト達である。全く分かってやっている場合はありていに言って詐欺師である。まじないと見分けがつかないモノは「ニセ科学」の要件のうち「科学を装う」が微妙になるので別立てで論ずる必要があるかもしれない。ともあれ、動機は「金儲け」であるから、このタイプのヒトにとっての「ニセ科学批判」は「商売のジャマ」という位置づけになる。このタイプが行うニセ科学批判批判の方は、「科学を装う」姿勢を堅持しつつ「他人の悪口を言うな」という、道徳感情に訴えたものとなりがちである。そして、なりふりかまわず言論封殺を試みる場合も多い。なにせ金が絡んでいる。最も訴訟リスクが高いタイプであろう。

9)上記A~Cは互いに対立するものではなく、AかつB、AかつC、BかつC、ABC全部、というどのパターンも取りうる。おそらくは、混在しているものがほとんどだろう。単独要素のみのものとしては、おそらくCが一番多いのではないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なんでそんなことを考えているのか。

2008-01-20 23:00:40 | Weblog
前回の話だが、実は、そう考えるに到ったのは、それの前にこんなことを考えていたからだ。

よく、30~50代のオジサンとかが、万引きやら痴漢やらをやらかして捕まる。公僕などであれば大変な騒ぎになる。ところで、「じつは常習だった」というケースは別にして、「真面目な人でそんなことするようには見えなかったのに」という場合がままある。本人も「なぜ、そんなことをしたのか分からない」と言っていたりする。

また、酒に酔った状態で、というのもよくあることだ。

私がいま疑っているのは、「加齢による前頭葉機能低下」である。
つまり、本人が「盗もう」とか「触ろう」と「明瞭に」意図しているのではないが、何かの拍子に欲求が沸いたときに、それを制御する回路のほうがやられていて働かなくなっている、という可能性だ。

で、私も善良な市民のつもりだが、ひょっとしたら気質的な理由でこんなことがヒトゴトでなくなるのではないか、と恐れていたりするのだ。

そういった「器質的理由」からの奇行、というのが頭にあったので、前回記事のようなことを連想した、という次第。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちょっと思ったのだが。

2008-01-20 22:53:32 | Weblog
前回、ブログのコメント欄や掲示板等での議論を揶揄したのだけれど。
あれから、他のブログ等も見ててさらに思ったのが、まあ、議論の前提が噛み合なくていちいち擦り合わせをすることが必要な人が結構居る。

で、前回の記事で取り上げた方々がそうだ、というのではない。
そうではないのであるが、掲示板やらブログやらでそういう議論をしなきゃならん人のうちには、隠れ発達障害だったりする人が居るのではないか、ということを、ふと思いついた。
念のため書くが、いいとか悪いとか、そういうことではない。
私自身、周囲の空気が読めなくて苦労する。観察を続けないと、その場の雰囲気や流れが読み取れない。読み取れず仕舞いなことも多い。それの程度が進むと、本当に噛み合ない議論になる。

こういう議論の一方に対する「釣り?」という疑問もむべなるかな、ではあるが、私が思うに「共感」とか「暗黙の了解」みたいな部分が苦手な人の中には、一定数発達障害の人が居るのであろう。とくに、我々の年代が少年期にあったころは、この障害についての理解はあまり進んでいなかった。自らがそうだということを知らずに大人になっている人も多いと思われる。で、ネット上のコミュニケーションは、全く「文字」しか手がかりがないわけで、空気を読む他の材料に乏しい。それで、実生活以上に話が噛み合なくなる、ということもあるのではないか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見苦しい議論が多いね。

2008-01-16 02:29:11 | ものおもい
昨年末の安井至先生のブログで暴れていたあららさんや、NATROM先生のところでのpingu何とかさんのように、しつこく噛み付いてきてどうしようもないヒトが目立つ。で、共通点があるなーと思ったのが、何か「反論」できそうな論拠をひとつ見つけ、それだけを武器にひたすら「攻撃」する、という点についてである。あららさん等はごく初期に自らその姿勢を明らかにしているが、要するにこういうヒトは議論を重ねて何らかの達成点に到ろうという気が最初からない。
あららさんであれば「安井先生は本を読まずに本を批判している。けしからん」が、言いたいことのすべてである。その他環境問題に関する持論もお持ちのようだし、それに対する賛同者も見られるが、本人がそれが主眼でないと表明している以上、実のところそれらは枝葉末節でしかない。(反論は面倒なので書かないが、一連の議論は要するに両者の前提の違いに起因するものであり、あららさんの批判はおおむね的外れであると私は考える。バレーボールの試合でハンドボールをしようとするようなものだ)
で、その本筋の批判については、まあそう言えなくもない。しかし、「そう言えなくもない」程度のことで鬼の首を取ったようにはしゃいで挑発を繰り返すのは、端から見ていてみっともない。だから諌めるヒトが出て来る。すると「注目されている」と勘違いし調子に乗る。本人はさぞ楽しかろう。

NATROM先生のところのpinguさんも同じ。かの人の論拠は「最初にクレームをつけてきたお婆さんが、ことさらに正義感を振りかざし他人を非難していい気分に浸っているようなはた迷惑なヒトであるかもしれない。そうであれば愛煙家の挑発的な言辞も非難に値しないとも言えるのであって、その可能性を考慮せず愛煙家の態度を批判するのは失当だ」というだけである。これも「可能性だけならそうだろうね」という話にすぎず、頑強に主張しつづけるほどのことでもあるまい。(御本人に同様の苦い経験があるから、なのかもしれないが)

思うに、これらのヒトは「批判」に敏感である。そして『批判」に対する「反批判」をすることが、何と言うか「正義だ」と考えているやに思える。一般的に多様な意見を許すことは重要なことだから、それも故なしとはしないのだが、それでも議論というものはおおむね妥当な線に集束していくものである。
それに異を唱えるのならば、もう少し本質的な部分での異見であってほしいものだが、上記のごときものは「異を唱える事自体」がその価値のほとんどであるように見えるし、その価値も要するにコメントする本人の自尊心にとっての価値でしかない。

以上のように、こういうヒトたちがしつこくコメントするのは、ブログ主が表明した見解に対し異を唱える事によって、多くの注目を集める論者の「上を行った」ように(当人の主観のうえで)感じること、その事によって自尊心を満足させることを目的としているのではないかと疑う。しかも、得てしてこういう議論における論拠は「まあ、そうも言えるよね」という程度の妥当性にすぎず、にもかかわらず議論の文脈上の重要性を無視して、そのことを指摘したことをもって「勝利宣言」をする、という傾向が強いと感じる。

たぶん、実生活ではあまり褒めてもらえないのだろうな。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カモシカ「ロッキー」の武田さんがピンチ!

2008-01-08 00:05:23 | Weblog
ごく初期の記事ロッキータン(・∀・)イイ! で紹介しました、NPO法人みやぎ野生動物保護センターが大ピンチとのことです。(ブログはこちらロッキーブログ

募金不足で存続ピンチ 多賀城の野生動物保護施設

(以下全文引用)
宮城県多賀城市八幡のNPO法人「みやぎ野生動物保護センター」(武田修理事長)が存続の危機にさらされている。センターの維持費や動物の餌代などに充ててきた募金が減少し、最近は武田理事長(56)が自腹を切って運営している状態。センターは「このままでは施設を続けることも難しい。動物を助けるためにも善意の協力をお願いしたい」と呼び掛けている。

 センターは2006年8月、傷ついた野生動物を救い、リハビリさせる県内初の施設として開設。内装業を営む武田理事長の資材置き場に、センター事務所や獣医師が常駐する診療所、動物小屋などを設けている。
 土地は地主から借りており、借地料や電気代、通信費、餌代など月々25万円前後の経費のほぼすべては募金が頼り。募金箱を近隣の動物病院など約20カ所に置いているが、昨年10月ごろから募金が激減し、経費の半分以上を武田理事長が負担するようになった。

 「24時間態勢で動物の世話をしているので、今はほかの仕事ができない」と武田さん。12月からは妻の弘子さん(60)が食品加工会社でパートの仕事を始め、何とか家計を支えている。
 昨秋以降、餌を提供する飲食店やスーパーが現れたほか、定期的な寄付を申し出る人もあったが、運営費としてはまだ不十分という。

 現在、保護しているのはカモシカやハクビシン、キジバト、トビなど約40個体。運び込まれる動物は今も増え続けている。スタッフ(獣医師を除く)は武田理事長を含め3人だけで、動物のリハビリにさえ時間を避けないのが現状だ。

 県が委嘱する野生動物のボランティア「アニマルレスキュー隊員」でもある武田理事長は「県内の野生動物はこのセンターに集中的に寄せられてくる」と指摘。今後は、ほかのレスキュー隊員に動物保護の協力を呼び掛ける考えもあるという。

 武田理事長は「センターは火の車。商業施設などで募金箱を置かせてもらえる場所があるだけでもありがたい。動物が好きな人に、センターの仕事を手伝ってもらえれば助かる」と話している。
 連絡先は同センター022(309)2388。

(引用ここまで)

ちょっと、シャレにならない状況のようです。
テレビで大いに話題となったロッキーのあとも、武田さんは3頭のカモシカの赤ちゃんを育て、2頭は現在保護している最中です。
お仕事(内装業)もできない、でも経費は負担する、では、やっていける筈がありません。
私も微力ながらできることをしようと思います。もしよろしければ、皆さんもお力添えを。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わが県でも問題が、っつーか、NHKよもう少し配慮を!

2008-01-07 23:52:00 | ものおもい
火事でけが人6回拒否(NHK宮城のニュース)
(以下、全文引用。個人が特定できる情報のみ削除しています)
                   
6日夜、蔵王町の住宅で火事があり、全身やけどを負った88歳の女性が、救急隊の到着から、およそ1時間後に仙台市の病院に搬送されるまで4か所の病院に、あわせて6回、受け入れを断られていたことがわかりました。

6日夜10時すぎ、蔵王町の女性(88)の住宅から火が出ていると近くの人から消防に通報がありました。
火はおよそ40分後に消し止められましたが、木造平屋建の住宅1棟、およそ34平方メートルが全焼し、女性は逃げる途中に全身にやけどを負う大けがをしました。
女性は意識がありましたが、救急隊が受け入れ先の病院を探した際、大河原町の「みやぎ県南中核病院」や「東北大学病院」など4つの病院から「ほかに急病患者がいて対応できない」などとしてあわせて6回、受け入れを断られました。

この間、女性は30分ほど現場で待たされたあげく、仙台市立病院に再度要請して搬送された時には救急隊の到着からおよそ1時間が経過していました。

これについて蔵王町や白石市などで作る、仙南地域広域行政事務組合消防本部は、「一刻も早くけが人の搬送を目指しているが、重傷で専門的な治療が必要だったことに加え、ほかの急病患者がいて受け入れられない病院があったことなどから時間がかかった」と話しています。 
 
(引用ここまで)

NHKはNHKですので「どこが悪い」等とは言いません。ですが、やはり非難めいた口調であることは否めない。
それで、NHKの意図とは別に、私が「責められるべき」対象を述べようと思います。

私に言わせれば、このことについて責められるべきは「医療資源削減政策」です。
それを言わない報道には、あまり意味がないし、報道機関として「何を問題としているのか」を正確に発信してほしいと願います。

まず、「受け入れ拒否」は、何も今に始まったことではない。これまでも大なり小なりあったことです。
このことがニュースバリューを持つとマスコミに判断されるようになったきっかけは、例の奈良の「たらい回し」報道以来でしょう。
ですから、マスコミが「騒ぐ」(あえてこう言います)ようになった最近になって、この問題が生じたわけではない。ただ、そこに「注目が集まる」ようになっただけです。
もっとも、私は「受け入れ拒否」の頻度や患者搬送先決定までの所要時間の推移等の情報を持っていないので、「悪化」しているかどうかは判断できません。そこは留保する必要があります。
それでもこのように書く理由は、要するにこういうことは、冷たいようですが偶然性に左右されるものだからです。
どれほど医療施設や人員が充実した地域であっても、たまたま「その時」に患者が集中すれば、こういう事態になるのは避けられない。そういうリスクは、けっきょく「なるべく減らす」ことしかできないのだから。

次に、このことで受け入れを拒否した病院を責めるべきではない。
これは、病院の「態度」の問題ではなく、「医療資源(リソース)の分配」の問題だからです。
医療資源の分配は、さまざまなブログ等でつとに指摘されているとおり、結局は政策により決まるものです。
つまり、上記ニュースのようなことが生じる「確率を減らす」(確率問題なのですよ!)ためには、追加リソースを投入する必要がある。
国は大赤字でリソース削減に向かっているのは既知のとおりでしょう。であれば、あとは選挙で国民が意思表示するしかない。与党であれ野党であれ、医療資源拡大を公約する議員を選ぶ。他に方法はありません。(できる人はロビー活動でもいいでしょうが)

できれば、医療リソースを増加するために「何を犠牲にして財源を捻出するか」を、明確に説明している議員・政党が良いでしょう。
(むろん、その「財源」が本当に確かなものなのかを精査する必要があります)

そろそろ、報道も感情論に与した物言いをするだけでなく、上記のようなことを前提にした情報発信をしてもらいたいと考えます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

うつ診断を試みる。

2008-01-06 23:42:27 | Weblog
一昨年末位からうつ傾向にあり、どうやらそれが本格化してしまったのではないかと疑っている。
昨年の転勤によりそれが悪化した。秋頃には一度沈静化したものの、先々月頃からまた悪化してきている。(直接には、懸案となっている仕事が3つくらい遅れに遅れていること等が原因)
正月も、まともに休めるような精神状態ではなかった。そもそも寝てばかりいるのだが、疲労感は全く抜けないし、「幸福感」というものからとても縁遠いように感じる。以前は満足した行きつけのレストランのディナーも、妻とコーヒーを飲むひとときも、ネットサーフィンの時間も、それまでのような「幸福感」をもたらしてはくれない。仕事は上記のていたらくであるし、妻やペット達にとっても、自分が何らかの役に立っていると信じることができなくなっている。

それで、ネットでできるうつ診断をいくつか試みてみたが、多くが「中程度の鬱状態」「専門医の診断を受けることを薦める」「自宅安静又は入院が必要な可能性がある」等と出る。どうも、うつ状態にあることは間違いないようだ。
これがひどくなると、出勤できなくなったりするのだろうか。
どうしよう。どこに線引きをすればいいのか。今抱えている仕事のどれを放り出せばよいのか、あるいは放り出してはだめで、かつ、鬱病の進行も食い止めるという離れ業をやってのける以外にないのか。

何をどうすればよいのか、もう、分からない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無気力な私の願望2008

2008-01-02 14:57:46 | Weblog
願望があるとすれば、あれだ、旅に出たい。
電車の旅は飽きたので、飛行機か船かで、西日本に行きたい。
とつぜん、職場に電話を入れ、有休を取り、いくばくかの金を携え、此処を発つ。
旅先では「何もしない」訳にはいかない。目的地を決め、移動し、ホテルのチェックインをし、見知らぬ店で食事をしなければならない。
ただし、それ以外の時間は「何もしない」でいることしか出来ない。(典型的には、移動の待ち時間など)
それがいい。
ターミナルの待合室で、旅先の雑踏で、喫茶店で、ビジネスホテルの部屋やロビーで、無為な時を過ごす。
ただ、「次にする何か」を待つためだけの時間を、過ごす。

実は「次にする何か」は、その間に挟まる「待つだけの時間」のために、存在するのだ。
それを適当な長さに区切り、思いを巡らし、あるいは頭を休めるのに十分で、かつ、長過ぎない時間を、区切るために。

私が引きこもりを脱する自信がついたのは、学生時代の旅が契機なのであるが、そのときも、訪れた名勝地の印象もさることながら、移動に費やした電車やバスの中、ホテルの小さな部屋、そういった事のほうが、むしろ強く思い出に残っているのである。
あの感覚を味わいたくて、就職してからも何度か旅をした。また、出張のたびに、ひそかにそういった思いを楽しんだ。
そういう時間が、まとまって、大量に、欲しい。
収入や生活の安定が無くなるのは大変困るから、「仕事を辞めろ」等とは言わないでほしい。

ただ、休んで、旅に出たい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出来る事なら

2008-01-02 14:13:33 | Weblog
永遠に眠っていたい。
仕事もせず、家事も、ペットの世話もせずに。
先の事に神経をすり減らし、焦燥と劣等感に苛まれる。そんな日々はもう御免だ。
誰からも望まれず、誰にも望まず、独りきりで生きて、あるいは死んでいたい。

息切れだ。力尽きた。
もう一歩も前に進めない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする