久々に記事を書いてみます。
石原新党がどうなるのか?という点を枕に。
身も蓋もないことを言うと、本邦の選挙は、舞台が大きければ大きい程「人気投票」になりがちです。
石原都知事の人気は、べらんめえ口調の面白さや、太陽族だった年配者による人気が大きいものと思います。
したがって、より舞台が大きくなる国政選挙においても、一定の人気を集めることでしょう。
人はテレビであれなんであれ、よく見かける人に親近感を抱きます。そんなことで、投票傾向は決まってしまう。
さて、それでは投票者が阿呆みたいではないか。
選挙は政策を比較して決めるべきではないのか。
立候補者の人気投票になってはいけないのではないか。
私もそう考えていました。
しかし、実は「人物の好悪」について、よく考えたうえでなら、むしろそうしたことを基準にしたほうがいいように、今は思います。
というのは、民主党政権を誕生させた選挙では、人気投票ではなく、多くの人がその「政策」に共感し、投票したはずだからです。
私も、自身の一票をどうしたか、という点とは別にして、民主党に期待をしていました。
当時、多くの人が期待していたのは「国民の痛みを伴わない行財政改革」です。
すなわち「埋蔵金の掘り起こし」と「事業仕分け」により、官僚の不正利益を奪い、国民に還元すること、でした。
民主党はそれが出来ると言って、政権を取った。
そして、その結果がどうだったか。
政策は、実現してこそ意味があります。
民主党が掲げ、主に指示された理由であろう上記政策は、まあ、実効性のないものでした。
その結果、民主党の今の施策と、自民党政権終盤、新自由主義からの揺り戻しがあった頃の施策は、対して変わらないものとなっています。
我々は、果たして、それを望んでいたのでしょうか?
何が言いたいかというと、政策の支持、不支持で投票行動を決めるのは勿論重要なのですが、我々はもう一つ、一票を投じる「被選挙者」が、政策実行力や誠実さといった「人間性」において、信頼するに足る人物であるか、ということを、併せて評価しなければならないのではないか、ということです。
つまり、我々は投票行動においては、政策を選択するのでもありながら、それは同時に、それを託す「人物」の評価も、適正に行ったうえでないと、上手くいかない。
恐らく、民主党に政権を任せてみて、我々が得た最も大きな教訓は、このことだろう。今はそう思っています。
そういう意味では、政策の中身は措いて、一票を投じる「人物」の評価をも、きちんと行わなければならない。
ときに、市区町村や都道府県の選挙であれば、まだ被選挙者の人となりを十分に知る機会も得られるでしょう。ですが、国政となるとなかなかそうもいかない。よほど政治と近い立場の人は別でしょうが、恐らく今は、普段政治には無関心で、政治家のことも良く知らない人が多いでしょう。
何より,我々は日々忙しい。そうそう、国政レベルの政治家を良く知ろうと思う事もできそうにないし、機会を作ることもままならない。
そういう状況ながら、私達は次の選挙で「政策」と「それを託す人物」の双方をよく吟味して、ある意味「積極的な人気投票」を行わなければならない。私は今、そう思っています。
そして、それは相当に困難なことです。
石原新党がどうなるのか?という点を枕に。
身も蓋もないことを言うと、本邦の選挙は、舞台が大きければ大きい程「人気投票」になりがちです。
石原都知事の人気は、べらんめえ口調の面白さや、太陽族だった年配者による人気が大きいものと思います。
したがって、より舞台が大きくなる国政選挙においても、一定の人気を集めることでしょう。
人はテレビであれなんであれ、よく見かける人に親近感を抱きます。そんなことで、投票傾向は決まってしまう。
さて、それでは投票者が阿呆みたいではないか。
選挙は政策を比較して決めるべきではないのか。
立候補者の人気投票になってはいけないのではないか。
私もそう考えていました。
しかし、実は「人物の好悪」について、よく考えたうえでなら、むしろそうしたことを基準にしたほうがいいように、今は思います。
というのは、民主党政権を誕生させた選挙では、人気投票ではなく、多くの人がその「政策」に共感し、投票したはずだからです。
私も、自身の一票をどうしたか、という点とは別にして、民主党に期待をしていました。
当時、多くの人が期待していたのは「国民の痛みを伴わない行財政改革」です。
すなわち「埋蔵金の掘り起こし」と「事業仕分け」により、官僚の不正利益を奪い、国民に還元すること、でした。
民主党はそれが出来ると言って、政権を取った。
そして、その結果がどうだったか。
政策は、実現してこそ意味があります。
民主党が掲げ、主に指示された理由であろう上記政策は、まあ、実効性のないものでした。
その結果、民主党の今の施策と、自民党政権終盤、新自由主義からの揺り戻しがあった頃の施策は、対して変わらないものとなっています。
我々は、果たして、それを望んでいたのでしょうか?
何が言いたいかというと、政策の支持、不支持で投票行動を決めるのは勿論重要なのですが、我々はもう一つ、一票を投じる「被選挙者」が、政策実行力や誠実さといった「人間性」において、信頼するに足る人物であるか、ということを、併せて評価しなければならないのではないか、ということです。
つまり、我々は投票行動においては、政策を選択するのでもありながら、それは同時に、それを託す「人物」の評価も、適正に行ったうえでないと、上手くいかない。
恐らく、民主党に政権を任せてみて、我々が得た最も大きな教訓は、このことだろう。今はそう思っています。
そういう意味では、政策の中身は措いて、一票を投じる「人物」の評価をも、きちんと行わなければならない。
ときに、市区町村や都道府県の選挙であれば、まだ被選挙者の人となりを十分に知る機会も得られるでしょう。ですが、国政となるとなかなかそうもいかない。よほど政治と近い立場の人は別でしょうが、恐らく今は、普段政治には無関心で、政治家のことも良く知らない人が多いでしょう。
何より,我々は日々忙しい。そうそう、国政レベルの政治家を良く知ろうと思う事もできそうにないし、機会を作ることもままならない。
そういう状況ながら、私達は次の選挙で「政策」と「それを託す人物」の双方をよく吟味して、ある意味「積極的な人気投票」を行わなければならない。私は今、そう思っています。
そして、それは相当に困難なことです。