昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

遺族となる経験

2006-05-30 22:00:01 | ものおもい
父が亡くなってから、四十九日を迎えるまで、七日毎に父の夢を見ていました。
内容は、実家に父を訪ねると不在で、しばらく待っていると、車で帰宅する。
「どこそこに用事があった、渋滞で大変だった」等と言う。
しかし、父はすでに亡くなったことに気づく。そうすると、父の動作、表情が急に止まり、階下に降りる等して去ってしまう。そこで目覚める、というもの。
夢を見てから、七日目に当たることに気づき、慌てて墓参をしたりしていました。
四十九日に見た夢は、父に「すでに亡くなっているんだよ」と伝える内容でした。
そうすると、急に父の表情が固まり、その場に座り込みそうになったので、あわてて体を支える、そして目覚める、というもの。
そして、翌週からは、こういった内容の夢は基本的に見なくなりました。

自分は大学で宗教学を専攻しており、宗教的な観念についてはそれなりに客観的な立場を取れているという自負がありましたから、伝統的な宗教観念に沿った形で夢を見るという今回の体験については、ちょっと悔しいという感情と、「不思議だ」という感情がないまぜになっています。
(勿論、このことについては合理的な解釈をしていますが、それと感情とは別)
そして、いまでも、金曜日の夜や、命日前後には、時折、父の夢を見ます。
父には苦労させられましたが、父自身はその何十倍もの苦労を背負って生きた人でした。
安らかな生活をさせられなかったこと、寂しい思いをさせてしまったことは、今の自分の力ではどうにもならなかったこととは言え、悔いが残っています。
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農業:無農薬栽培は誰の為か

2006-05-28 17:51:56 | 農業
以前にも書いたことですが、無農薬栽培が健康被害リスクを低減するのは、消費者に対してではなく、農家に対するそれが殆どです。それ以外のヒト、つまり口に入れるヒトにとっては、現在の科学技術水準で確認できる限りは、まず実害はないと言っていい。そう考えます。(そうじゃない、というヒトは、複数の実験結果で検証された確たる証拠を見せるように。)
そういうわけで、私がはたともこさんのブログにブツクサ言っているからといって、無農薬栽培に意味がないと考えている訳ではない。例えば、農地に生息する生物にとっては、いうまでもなく無農薬栽培のほうが望ましい。そういうメリットもあります。だから、農産物を買うヒトは「自分の為に」ではなく、「生産者と環境」のために、無農薬栽培の農産物を買いましょう。万が一にでも、「自分の健康のため」だなんて思わないように。
もちろん、例外はあります。アレルギーで極微量の残留農薬もダメ、という方がいるのも事実です。逆にいうと、無農薬栽培農産物というマーケットが、消費者自身の実益によって選択される場合があるとすれば、これ以外にはない、と、私は思っています。(もっとも、この場合のアレルゲンがほんとうに極微量の残留農薬かどうかは、個人的には疑わしいと考えています。ですが、無農薬栽培農産物でアレルギーが回避できるなら、どんどんやるべきです)
最近疑問なのは、この減農薬・減化学肥料又は無農薬・無化学肥料栽培が、イメージとして良いため(どう良いかは不明だが、どうも「体によい」らしい)、よく売れるということです。そうして、売れるからと言う理由で、これらに取り組む農業者も出てきているのではないか。調べてはいないが、そう思えます。(少なくとも「売れる米づくり」等と言って、環境保全米の栽培拡大を図る一部の動きはこれに当たる。)
動機は何でもいい、とは、私には思えません。そもそも、いま環境保全型農業で成功している方には、かつて生産者が農薬によって健康を害されたことを知っている人達が多いように思います。自分の身に降り掛かる問題だからこそ、本気で農薬削減に取り組めたのです。そうでなければ、手間ひまのかかるこんな栽培方法は続けられるものではありません。
私は、恐らく、売らんが為に環境保全型農業を始めたヒトは、早晩、手を引くことになると思います。国は国内農業全体を環境と調和した農業にしようと言って旗を振っていますが、全体がそうなれば、価格面の優位性はなくなりますから、こういう人達は続ける気がなくなるでしょう。そして、そもそも適正に使用するなら、農薬も化学肥料も使って構わないはずだということに気付くでしょう。消費者の誤解に基づく「嗜好」にあわせて、生産量を落とし、収入が減るなんてばかばかしい話です。
さて、農産物に限らず、食料における最も恐ろしいリスクは何か。過去数千年、人類が戦ってきたのは「食料不足」=「飢餓」です。無農薬栽培は確かに良い点もありますが、生産量の減少は避けられない。なぜかというと、前々回の記事で書いたように、果物の多くは無農薬栽培に向かないからです。農薬を使わない場合、モモの収穫減少率は100%と言われています。全滅です。「すべて無農薬に!」と言っているヒトは、何と恐ろしいことを言っているのだろうか、と思いませんか?
もうひとつ違和感があるのは、無農薬・無化学肥料栽培って、なんとなく「有害物質で汚染されていない」「クリーン」といったイメージが付いているている点です。しかし、土耕栽培の場合、化学肥料のかわりに使うのは堆肥です。もとは糞尿です。発酵等の処理がきちんとされている完熟堆肥であれば、大腸菌とかはそんなに居ないでしょう。でも、おおもとは排泄物ですよ。イメージ大事の消費者の皆さんが、「クリーン』なイメージでそれを有難がっているように見えるのが、私には滑稽でなりません。もし、「クリーン」イメージで農産物を選ぶなら、値段の高いLED光源・水耕栽培の野菜工場のものを選ぶべきでしょうね。(コメや果物の多くは食えないってことになりますけど。)こういうの、すごく気になるんですよ。ちょっと考えれば矛盾があるってわかりそうなモノなのに、どうしてヒトは合理的に考えないのだろう。
 まとめると「環境保全型農業の推進は、その『環境負荷を低減する」というメリットゆえに進められるべき。そうして生産された農産物であろうが、そうでなかろうが、食べるヒトの健康リスクは変わらないということは徹底しなければならない。消費者は、『あぁオレ環境にいいことした』っていう満足感に金を払うこと」
「あなたがキレイだと思って選んだ物のほうが、むしろ汚いんじゃないの?そんなの止めな。」
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読書:伊坂幸太郎2(ネタバレ注意!)

2006-05-27 11:25:53 | 読書
すみません。最初見たとき「オーデュポン」だと思ってました。
さて、今回はネタばれ含みの内容ですので『オーデュボンの祈り』と『ラッシュライフ』を新鮮な気持ちで読みたい方はスルーしてください。
(以下、白文字で記載。読みたい方は反転して下さい)

一読した感想。私は『ラッシュライフ』を先に呼んだので、過去エピソード等のボリュームの配分バランスが悪いなあ、と思いました。まあ、こちらは『ラッシュ』ほど各エピソードの前後やら関連そのもので楽しむ構成にはなっていないので、これはこれで良いのでしょう。
 もう一つは、途中が少し退屈。『ラッシュ~』もそうでしたが、後半、物語が収束するまでに読みつなげるための何かが少し欲しい。(贅沢か?)
意外だったのは、カカシが喋るしくみまで設定してあったこと。これは、あえて書く事によってリアリティが増すわけではないので、作者の意図としては、荻島のファンタジー性を高めようとしているのか、あるいは薄めようとしているのか、わかりづらい。
 快感のポイント。『ラッシュ~』は、豊田が断るところ。次点が、京子が真相を知ったところ。『オーデュボン~』は、城山が声をかけた人物が桜であったところ。(撃たれたところじゃないところがポイント)
 両者に共通する演出は、真面目で美しい女性が危機にさらされている、ということと、それが未然に防がれるところ。ものすごく悪意的な人物を出すことで、スリルとカタルシスを演出するのは同一手法。作者の宗教観については別項で。
 ところで、静香が桜に撃たれるっていう轟の危惧は、まったく心配いらない類のものだろうか?なんか、撃たれるラストを想像してしまい、頭から離れない^ ^;。伊藤は『ラッシュ』でも登場人物の科白中に出てくるので、生きて仙台に帰ってきたことが分かるけれど、静香は?
 作劇的には、そんな不条理ラストもありのような気がしますが。それじゃ賞は取れないでしょうね、きっと。

 読後感はさわやかです。ですが、なんか小骨がひっかかります。これも『ラッシュ』と同じですね。
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是々非々

2006-05-26 13:14:49 | ものおもい
 さっぱり「オーデュボン」がUPできません。下書きは出来ているのですが、手直しに手間取っています。その間に、すっかり生ぬるくヲチするサイトに入ってしまった「はたともこ日記」から。
 ケンチキのこの話、Webで公開されていた虐待動画を見た事があります。私もペットを飼っていますから、こういうのは本当に許せない!今日はいいこと言っています、はたさん。
 まあ、でも「成長ホルモン云々」が、人間の口に入ったときの安全性については、御説ごもっとも、とはいきません。特に加工後の食品にどれだけ影響があるのか、っていうのは、調査が難しい。そして、ファストフードを食べることによるリスクは、恐らく塩分過多や高カロリー、高脂肪による成人病のそれの方が大きい。
 つまり、虐待イクナイ!は諸手を挙げて賛成します。食べるのイクナイ!は、それはそうでしょうがその理由は違います。ということで、こういうタイトルになった次第。
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農業:ポジティブリスト制(あれれ・・・?)

2006-05-22 23:33:49 | 農業
 今回、予定変更で農業ネタをUPします。
 食品衛生法の改正施行が来週に迫ってきました。
 再度整理すると、今回の改正は、食品中に残留する農薬等の成分について、これまでは、規制するものだけを記載するようにしていたのが、今後は、原則一律禁止し、特定の食品中における特定の物質のみ独自の規制値を設ける、というものです。(一律基準は0.01ppmで、その他の基準はこれと同じかこれより大きな値になる・・・はず。確認してませんが)
 これまでは、たとえばA農産物で0.1ppmまでの残留と規制されていた物質が、B農産物では規制がなく、何ppm残留していてもOKでした。また、規制値が定められている農薬の種類も多くありませんでした。
 それが、今後は、規制値が独自に決められていないものは、一律基準が適用されるため、一気に厳しい制限が課されるようになるのです。
 さて、国内の農業者にとっては、農薬の使用について別に「農薬取締法」というものがあり、そちらを遵守して、用量、用法を守った農薬使用をしていれば、別に今回の食品衛生法の改正は怖くありません。(たとえば、ある作物に適用のない農薬をうっかり使ってしまった、というのは、成分検査の結果、食品衛生法ではねられる前に、農薬取締法でアウトになります)ですが、問題なのは、隣接する農地で、違う作物を栽培していて、隣の作物に農薬が飛散してしまった場合です。通称「ドリフト問題」と言われています。現場では、これの対策が急がれています。
 というわけで、長々と書きましたが、農業者側では、モノスゴク大きな問題ではありません。これまでどおりきちんとやっていれば、まあよい、ということになります。
 さて、消費者側ではどのように思っているのか・・・と探していたら、見つけたのがこのブログ→
「はたともこ」日記
 あれ、gooだ。
 この方、薬剤師で民主党員(前回衆院選次点)とのことだが、いやはや、薬剤師さんとは思えない主張です。
 要するに、農薬は少量でも危ないのだ、と言いたいようですが、とりあえずここにツッコミます。(以下引用)
 指定外の農薬に適用される0.01ppmという濃度は、水深1m・幅12m・長さ25mのプールに、塩ひとつまみ(3g)を溶かした程度の濃度だ。僅かなようだが、これで害虫は死滅するのだ。農薬は、体内に蓄積して、人体に様々な悪影響を及ぼす。ポジティブリストの導入は、これまでのザルに近かった規制の相当の強化に違いないが、安心・安全の保障では決してない(引用ここまで)
 あの、0.01ppmっていうのは、この濃度でも薬効があるから規制する、っていうふうに決まっているモノじゃないんですけど。ふつうに食べる分には、このくらいの濃度ならヒトに健康被害がないだろうという基準であって、それも相当安全側に振って決められているはずです。(一律基準でないものが0.01ppmより緩やかなのは、実験データ等が整っているから、そのように決められています)そもそも、どのくらいの濃度で薬効があるかってのは、薬剤によって違うでしょうが。「農薬は、体内に蓄積して、人体に様々な悪影響を及ぼす」ってのも、大雑把すぎやしませんか。
 あと、これはイクナイ!(以下引用)
 農家が最も恐れているのは、「ドリフト被害」と呼ばれる飛散による被害だ。近隣の田畑で使用する農薬が、不幸にも飛び散ってくるケースだ。風向きの関係というよりも、その場合、農薬を散布した農家の杜撰な散布方法に問題があることは明らかだ。加害者である農家は、まさに「生産者は絶対に食べない」出荷専用の農作物を生産しているとみなすべきなのではないか(引用ここまで)
 加害者呼ばわりとは、ずいぶん、農家に厳しいですねぇ。大体この場合、加害ー被害関係はドリフトさせた農家とされた農家のことでしょうが、食えなくなるのは被害農家の農産物で、加害農家のそれではないでしょう。なのに、「加害農家は生産者は食べない農産物を出荷してる」のかい?どうしてそういう文章になるの?何より、ドリフトが起こったとして、その原因が「風向きより農家の杜撰さ」だと断言出来る根拠は何なのじゃ。
 と思ったら、別の日にはこんなことも書いてます。
 ざっくり要約すれば、「直売所に出ている農産物は地域の小規模農家からの出荷が大半だが、こういった農家では、ポジティブリスト制の負担が(過剰に)大きくなる」と。
 いや、それはあなたのようなヒトが思い込みと誤った知識をもとに大騒ぎするからでしょうが。おたく、農家を叩きたいの?擁護したいの?どっちなのよ。
 で、結論は「無農薬・無化学肥料栽培にシフトせよ。それで問題解決」だそうです。
 ところで、無農薬栽培では効率が落ちます。小規模農家は人手も少ないし、作付けも減る、実りも減るでは、続けていけませんが何か?離農しろ、と?
 こういうこというヒトは、果物なんかは、農薬使わないと収穫が激減するっていうの、知らないんでしょうね。モモなんか食えなくなりますな。(このヒト岡山のヒトだよね)しかも、果樹消毒に使われるスピードスプレーヤなんかは、ドリフト防止が難しい。つまりあれか、もう国内では果物作るなと。岡山は名産のモモを作りませんと。
 民主党さんも、もう少し人材の審査をしっかりした方がいいんでないかなぁ。主義主張の根拠となる事実認識が間違っていたら、選挙演説も説得力皆無でしょうに。
 とりあえず、グレガリナさんのHPを熟読することをおすすめしますです。
 (アレルギーとかの問題については、別に思うところがあるので、また後日)
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テンプレ変えました。

2006-05-20 11:02:01 | Weblog
 五月も下旬に入り、ウチの地方でもイチゴ収穫は終盤にさしかかっています。(6月初旬頃まで)
 というわけで、テンプレ変えてみました。
 しかし、くどいようですが、わたくし中年のオスです。
 でも、鳥のテンプレが他に見当たらなかったのです。
 レイアウトは見やすくて、結構気に入りました。
 ブログの内容とは全然合ってませんが、御容赦を。
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逆説

2006-05-20 01:00:47 | Weblog
 前回、私はある意味うそつきだ、と書きました。
 これが有名なパラドックスであることは、いうまでもありません。(書いてから気付きましたが)
 パラドックスとして成立する為に、より厳密に表現すれば「私がいま言っている事はうそだ」となります。これは、堂々巡りで、真も偽もいえません。
 昔っからこういうのが好きで、ブルーバックスで出ていた数学パラドックスの本など、喜んで読んでいました。いわゆる、「心脳問題」に関心をもったのも、この辺りがきっかけです。
 もっとも、大学では、より実践哲学・倫理学的な興味から、宗教学を専攻することにしたのですが、ベースとなるのは「生物たるヒトに共通する世界認識の形式とその表現」の一つとしての宗教に対する関心で、どちらかというと、純粋哲学系の興味です。
 ついでにいえば、宗教は、理屈だけで推し量れない部分と、行動への影響が(それこそ生物学的本能であるはずの「死の回避」をあっさり突破するという点で)最大であることが特徴です(そうでないレベルの宗教現象も多々ありますが)。そしてこれこそ、私がこの分野を研究するに足るジャンルであると判断した所以です。
 さて、パラドックスに話を戻すと、冒頭で紹介した「嘘つきのパラドックス」は、伊坂幸太郎作品で引用されています。というわけで、次回は、伊坂幸太郎デビュー作『オーデュボンの祈り』についての感想を書く予定です。
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変人

2006-05-20 00:44:56 | Weblog
 多角的な見方をする癖がついていると、前回書きました。
 補足すると、そうせざるを得ない理由は、私が変人だから、ということに尽きます。
 私は、私なりに生きることをやめません。たとえ、それが他者から見てどれほど変であっても。
 ただし、現実の社会生活を営む上では、そうも言っていられないから、「社会通念」上は、どのような考え方・行動が妥当なのかを常に考え、ある場面では、「社会通念」に沿った行動をしているが如く見えるよう配慮します。
 ただし、自分が本来持っていた考え方や行動の選択肢を捨て去ることはしません。ソレとコレと、両方とも保持します。そういったことを、いちいち、自覚的に行っています。
 このために、多角的な見方が必要になるのです。いわば、常に自分の中に複数の視点がある。そうせざるを得ない。
 ある意味、これは、「うそつき」な訳です。私の言動・行動は、つねに、本心からそうしているというわけではないという意味で。
 ただし、私はこの場合、将来の予測とその結果に対する責任を負う覚悟をもつ、という形で自分なりに折り合いをつけています。過程はどうあれ、最終的に表出された言動・行動が「私の」ものです。
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視覚のヒト、聴覚のヒト

2006-05-20 00:37:45 | Weblog
 他人と話すのが億劫なタチです。
 それで、何か分からないことがあれば、周囲のヒトを観察して、答えを見出す、というやり方で通してきました。
 勿論、正解にたどり着くまでにかなりの労苦を伴います。社会人になってからは、こんなやり方ばかりもしていられなくなり、前ほど、だんまりのヒトではなくなりました。
 それでも、周囲のヒトが忙しそうなときなどは、今なお、昔のやり方で問題解決を図ったりもします。
 というわけで、私は「見るだけで理解する」視覚のヒトです。
 この作業には、多角的な視点からの検証が必須となります。ですので、「社会通念」とか、「一般的な解釈」がどこにあるかというのは、的外れにならず判断できる、という自信があります。
 ところで、私の奥さんはすぐれて「聴覚のヒト」です。ヒトと話すことに抵抗はないし、歌や音楽は大抵、一度聴いただけで覚えられます。(私は意識的に覚えようとしなければ覚えられません)
 彼女の世界認識は、私が思うところ、彼女の心の中に存在する「主旋律」に沿い、その構造の美しさに調和することを基準にして構成されています。
 彼女の「主旋律」は、シンプルで、事物の本質に深く根ざし、揺らぐことはありません。
 ところが、ごく稀に、私が思うところの「社会通念」とは、齟齬を来す場合があります。
 この場合、正しいのは彼女です。この場合の正しさとは、美しさです。したがって、社会通念のほうが美しくない=間違っている、ということになります。
 しかし、現実には社会通念を無視できない。非常に難しい問題です。
 私はというと、「多角的な視点」からモノを見る癖がついているので、「こういう場合の正解はコレ」という判断になります。そして、自分自身の「主旋律」に即した答えも含めて、「すべて正解といわざるを得ない」と考えます。
 一見、相反するように見える夫婦ですが、それなりにうまくやっています。
 相互補完ということもあるでしょうが、私は、彼女のもつ美しさが、それを可能にしているのだと思っています。
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読書:伊坂幸太郎

2006-05-20 00:30:34 | Weblog
 直木賞候補にもなった気鋭の作家にして、同世代人かつ同窓生です。プロフを見ると、同年生まれ、同年卒業。(おや?)
 かれは法学部で、私は文学部。文系学部は同じ箇所に集まっているので、大学4年間はだいたい同じ空気を吸っていたことになります。もちろん、当時、個人的に知っていたわけではありません。
 私はかれについては、新聞の書評で、仙台在住の作家、というくらいしか知らなかったのですが、先日、大学時代からの友人に勧められ、一冊読んでみました。
 もともと、小説はあまり読みません。現実を直接扱う文章のほうが高尚だという意識があるのでしょうか。マンガは大好きでしたが、文字ばかりの本や絵本などで「おはなし」を読むのは好きではありませんでした。まぁ、「マンガで事足りていた」ということかもしれません。
 とはいえ、大学は文学部。まわりの友人は、文学部に来るだけのことはあり、それなりに色々と読み、また文庫やらで持っていたりします。大学3,4年時は、研究室に入り浸りの生活で、その所為で研究室がなかばサロンと化していましたが、卒論執筆の合間、話相手のいないとき等に、彼らが研究室に置いていった文庫などを拝借して読む程度でした。
 私の(創作)読書経験はそんなものですが、ともあれ、手近な文庫本を・・・と、先日入手したのが『ラッシュライフ』です。
 読み始めて、まず感じたのは、やはり同世代性です。関心を持つ方向が似ている、と思いました。また、舞台が仙台ですから、身近な地名が次々と出てきます。通りや町の名前などが出てくれば、まさにリアルなその場所が頭に浮かぶことになるわけで、これはある種の特権というか、妙な気持ちになります。作家の頭の中にある風景と、ほぼ同じ風景が脳裏にあるはずだ、という確信。
 それから、成功者に対する妬みが湧き上がります。「こういう文章であれば自分も書けるのではないか」という不遜な思い。
 似ている部分、共有する時代・空気が、彼我の距離を縮める、そんな気がする分、「差も小さいはずだ」と思い込まずにはいられない。
 自意識過剰な性質なので、へたに物語などを読み始めると、こんな風に、筋と関係ないことばかりが頭に浮かんで集中できなかったりします。これも小説を好んで手に取らない理由かもしれません。
 それでも、読み進めるうちに作品世界へ没頭していきました。あの登場人物の運命は・・・?そして、あの人とこの人の関係は?
 異なる人物が織り成す、謎めいた複数の物語が、あるとき、ふと、ほどけて、絡み合う。
 その瞬間、作中の重要人物のように、ひとり、三次元の存在として、二次元の世界を見下ろすように、ふいに、物語の全体像が明らかになる。その痛快さ。
 そして、作中でイヤな人物として描かれているキャラクターは、ごく小さな、しかし精神的には少なからぬしっぺ返しをくらう、その展開。
 弱い善人は、その弱さと悪意のなさゆえに、流され、ついには罪びととなる。しかし、作中でその罪は社会的に問われることはなく、かれの精神は霧の中からひととき抜け出すことに成功する。
 けっして奇麗事ではないが、すがすがしさを残しつつ、物語は終わる。
 いや、面白かったです。こんなの自分に書ける筈ありません。スゴイ!なんだかよくわかりませんが、いろいろと嬉しくなりました。
 複雑に交錯する群像劇としては、マンガの『アドルフに告ぐ』を思い出しますが、組み立ての精緻さそれ自体が楽しめるという点では、まったく異質のものです。
 それと、モチーフとなっている神、騙し絵、解剖等の意匠も、個人的には馴染み深いもので、そういう点でも、やはり、同時代人だなあ、との思いをを強くしました。
 その後、ウェブで著者インタビューなどを見ましたが、飾らない人物像が見て取れ、「当時知り合っていれば友達になれたかもしれないな」等と勝手に思ってみたり。
 ともあれ、世間を狭くすることでかろうじて息をついている様な私は、自分ではなかなか、こういった豊潤な世界に触れる機会を持てないので、折に触れ、私にこういった世界を紹介してくれる友人には、ただひたすら感謝しています。

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