昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

命が入って来ない。

2015-04-30 22:26:44 | Weblog
色々なニュースがあり、人が亡くなったり重い病気だったり、災害、事故、そういったことが起きている。
それらの情報を我が身に置き換え、慄然とし、日々の重さを噛み締めるということが、以前にはあった。
今はそういう気分にならない。ただ、今が陰鬱で重い。動きたくない。何もしたくない。

「こうすれば楽しいかもしれない」というようなことも、大概やりつくしてしまった。
豊島区椎名町、富山県高岡市、長野県小諸市に行った。お台場のガンダムも見た。国立科学博物館も上野動物園も見た。
科博は夏からの展示がまた面白そうではあるが、どうだろうか。
昨年は羽黒山にも行った。あれからもう1年になるのか。

楽しいと思えることは年々減っている。悲しい。趣味もないに等しい。
だから「悪化している」と言える。楽しむ気持ちがなくなってしまっては終わりだ。
減ったライフを回復するイベントが無い。ライフゲージはすでに0なのかもしれない。
それでも俺はまだこうやって文章を書いている。この俺は、何だ。何の意味があるのだ。

休み休み生きる。

2015-04-30 22:12:31 | Weblog
今日は結局仕事を休んでしまった。
そうなる予兆は火曜日からあり、水曜日も案の定大して気晴らしにもならず。
でも、今は仕方ない。多分いままで以上に酷い鬱状態の中にいる。
これまでは、嫌だという感情がはっきりしていた。それをやりすごすことがカタルシスにもなっていた。
本当に陰鬱な気分しかないのが今。しかも原因もない。
気が滅入る原因があるうちは、その原因に思いを巡らすこと自体が何らかの癒しになっていた。
原因がない気の滅入りには、そういう方法も使えない。
ただ、身体も心も重苦しく、結果、仕事に行けなかった。

しかし、今日の休みは、明日仕事に行くために必要な休みなのだ。
長期の休みに突入したり、仕事を辞めざるをえなくなったりすることを回避するのに必要な休みだ。
本当はこんなに多く休暇を消化したくはないのだ。でも、今は仕方ない。こうするしかない。
もっと酷い事態を避けるための、精一杯の対症療法だ。






つまらない

2015-04-29 00:15:20 | Weblog
きょうは休日。なのに心は晴れない。つまらない。
心が晴れないから、明後日からまた仕事だという現実だけが重くのしかかる。
つまらないから、活力が生まれない。したがって仕事に行く元気が生じない。

鬱だから心が晴れないのか、心が晴れず、つまらないから鬱になるのか、もはやわからない。
感情がデフレスパイラルしている。

ちょっと前までは「こうなったら楽しいのに」ということがあった気がする。
近頃はそれもない。
不労所得で暮らせるようになると、嫌なことは減る。ただ、楽しいのかというと、わからない。
「辛くない」だけで、相変わらずつまらないかもしれない。

それでも、働くよりは、働かずに生きて行けるほうがました。
究極を言えば、生きていなくてもましなのだが、それを言ってしまうと色々と支障があるので、なかなかリアルな環境でこういう生の心情をぶちまけることはできない。

楽しい気分になって働けるのがいいのか、楽しい気分にならなくていいから働かずに済むほうがいいのか。

いや、働かずに楽しい気分になるのがいいにきまっている。


明日仕事に行くのが辛い。

2015-04-26 23:03:33 | Weblog
昨日は嫌なことがあったが、あまり引きずっていなかった。
今日は昼まで寝ていた。ペットの世話をしたあとでまた寝た。それで1日が終わった。
今日の夕方くらいから憂鬱な気分に支配されるようになった。
明日からはGWに入り、とりあえず2日仕事すれば1日休みが入る。
だから負担感は少ない。そう思っていたが、いざ平日が直前になると、やはり気分が落ち込む。

永遠に仕事をしなくてよい身分になったらどれほど良いか。
どうしてもそう考えてしまう。
仕事をしないからといって楽しい事があるわけではないが、少なくとも憂鬱の大きな原因はなくなる。

と、ここまで書いて気づいたが、自分の憂鬱の直接の原因は仕事ではなかった。
職場に関することが原因ではあるが、はっきりと仕事が嫌だと思うようになったのはこの1年くらいだ。
何せそれまでは休日出勤もしていたくらいだ。

つまり、何かが変わったのだ。憂鬱の原因を仕事に固着させる何かが、この間に起こったのだ。


仕事への忌避感

2015-04-20 23:18:31 | Weblog
以前はこんなに強くなかった。
どちらかというと仕事ができない自己嫌悪が強かった。
前の職場では淡々とミッションをこなしていて、むしろ今までよりも仕事はできた方に入る。
それでも、十分ではなかった。
上が求める水準は、200%。100%ならゴミレベルである。そういう環境では、人は腐る。
そして、無茶振りが部下を殺す。実際一人亡くなった。彼の死は衝撃だった。普通なら死を選ぶステージにいないはずの人だった。
それだけ仕事のストレスが苛烈なのだと認識し、私はこの職場に絶望し、価値を見出せなくなった。
たぶんこの時からだろう、仕事が本当に苦痛になったのは。

私は、仕事をするという環境を脱出するか、元の様に仕事にポジティブな感情を取り戻すかの2択を迫られている。
後者はできそうにない。前者は幸運がないと難しい。どうしたらいいのだろう。

心象の記録

2015-04-20 22:43:31 | Weblog
楽しく感じられることがない。
平日の仕事はたまらなく苦痛。一秒も職場にいたくない。
仕事をすることに一切の前向きな感情を抱くことができない。
休日はなるべく眠るようにしているが、ノンレム睡眠中の夢が大抵落ち着かない内容で、寝た気がしない。また全体に眠りが浅い。
そのため、休日も楽しい気分にはなれない。
例えば仕事から解放された感覚を持ってもいいはずだが、それもない。
内臓の働きが弱っている。特に消化器系。眠りが浅い原因の一つかもしれない。

とにかく、生きていていいことがあるとも、生きなきゃいけないとも思えない。

これが鬱か。

ハリウッド版「ゴジラ」を観た。

2015-04-19 23:20:21 | Weblog
2月にレンタル開始だったが、多忙で借りるのがこの時期まで遅れた。
前作のニューヨークをびゅんびゅん暴れ回るゴジラは、日本のそれとは全くデザインが異なり、結果も「アメリカ軍万歳」で批判が多かった様に思う。
それに対し今作は、デザイン、コンセプト共日本版をリスペクトしているという評判だったこともあり、期待して見た。

結果、なんか残念だった。
確かに都市破壊のスペクタクル、原発倒壊の恐怖、ゴジラによる津波発生の恐怖など、東日本大震災のエッセンスを取り入れており、リアリティもある。日本のゴジラは「自然災害」をモチーフに作られているため、こういった天災風の演出はよく合う。
・・・はずなのだが、何か外している気がするのだ。

ます第一に、フィリピンから日本の原発に異動したMUTO。ゴジラより先にこれが出てくる。ゴジラはこれを追うように復活、出現する。
MUTOとゴジラは生態系で争う存在であり、片方の復活がもう片方を呼び起こした.日本人の芹沢博士は「両者の戦いに委ねるべきだ」と進言するが、米軍には聞き入れられず、核ミサイルがもつ核エネルギーを求める性質を利用し、ネバダ州の核廃棄所から出現した2体目のMUTO(雌)を加え、3体の怪獣をカリフォルニア沖におびきよせる作戦を取るが、途中で起爆機動済みの核ミサイルがMUTOに奪われるなどして作戦は失敗。MUTOは結局、2体ともゴジラに倒され、ゴジラは精根尽き果てて倒れたものの、やおら立ち上がり、海へと戻って行く。ハワイとサンフランシスコは怪獣に蹂躙され大災害だ。

特撮はよく出来ている。しかし、なにか物足りない気持ちが残った。なぜかを考えてみた。

1)日本の風景に現実感が無い。
 最初に出て来る崩壊する原発はスリーマイル型である。日本にはない。米国人に取ってリアリティのあるデザインが採用されたのだろうが、私達1Fを経験した者にとっては、原子炉建屋は四角形であってほしい。
2)破壊される町並みに馴染みが無い。
 ハワイやカリフォルニアの町並みを破壊していっても、日本の良く見知った都市を破壊するカタルシスには適わない。前作のハリウッドゴジラは、ニューヨークを舞台にすることで、その辺りの問題をクリアしていた様に思う。
3)話の筋が「ゴジラ」というより「平成ガメラ」である。
 MUTOは頭が平らで電磁パルスを使う怪物。空も飛べる。これはギャオスの特性に近い。
 食う・食われるの関係になっている当たりも、平成ガメラの世界観そのものだ。繁殖が絡む点も。
 ゴジラは、もっとゴジラ自体が「災害」のように恐ろしいものとして描写されるのが伝統だ。本作では,人類の脅威MUTOを倒してくれる「ヒーロー」だった。ゴジラにそういう側面がないではなかったが、ゴジラ自体も撃退の対象であるという点では、その描写が弱かった様に思う。

 結果として、スペクタクル感がどうも心に迫ってこなかった。ビジュアルはオリジナルのゴジラ寄りなのだが、ゴジラ映画でな違う作品を見ている感が強かった。前作のローランド・エメリッヒ版「ゴジラ」は、ゴジラ対人間に話を絞っており、そのほうがわかりやすかった。スピード感も良かった。特撮映画としては「パシフィック・リム」や「クローバーフィールド」の方が圧倒的に上。緊張感が違う。
 日本のゴジラ映画のフォーマットに慣れきっている自分は、そういうお決まり事の範囲内の話を欲しているように思う。破壊するのは日本の町並み。ゴジラは容赦なく人を焼き尽くす。そして人類では倒せない。それを「災害」をベースに、リアルに描写してほしい。

 次の国産ゴジラは庵野が撮るらしいが、どんなものになるか。映像だけは格好いいものを作ってくれそうだが。


外食

2015-04-19 23:02:07 | Weblog
我が家は共稼ぎなので、外食する機会が多い。
また自宅近辺にはそれに適した店も多い。
ただし、3月までは仕事が忙しく、定時で帰宅出来ることはほとんどなかったため、平日に外食する機会は持てなかった。
最近は早めに帰宅出来るため、平日に夕食を外で取ることも増えた。

今日は休日であるが、様々な都合から、夕飯を食べに出るのが遅くなった。
7時半前後。この時間帯は微妙で、多くの店が閉まってしまう。
今日はどこで食べようか考えあぐね,車に給油したついでに、スタンド近くのラーメン店「心温」に行ってみることにした。

妻は麺類があまり好きではないので、こういう時は完全に彼女のサービスになる。
私はネットなどで同店の評判は知っていたが、食べてみるのは初だ。
頼んだのは「ニボ」。煮干し粉を溶かし込んだような濃厚な煮干しスープの一品である。
天下一品の粘度を煮干しで置換したかのような食感は、煮干しの苦みまでも写し取っており、確かに好みが分かれるかもしれない。
私は嫌いな味ではなく、美味しくいただいた。

リピートするかどうかはまだ分からないが、塩ラーメンなどで、ここの動物系を使わないという自慢のスープを味わってみる必要はあるかもしれない。
妻は「また来てもよい」と言ってくれている。

平日の7時半前後の場合、何度か書いた月光を利用することも多い。
「ヤサイ」が頼めるのがこちらのよいところ。ラーメンだけだとどうしても野菜は足りなくなる。
丼一杯のもやしとキャベツが食べられる点でも、月光は使い勝手が良い。

さて、明日からまた仕事だ。なかなかに辛い。今の私は、職場というモノに嫌気が差している。仕事の内容とか人間関係とかではない。職場自体が忌避の対象になっている。これから寝て、起きて、これを克服しなければならない。

記録

2015-04-14 21:57:13 | Weblog
すっかり鬱のぼやきとその記録に成り果てた当ブログだが、開設当初は社会問題なぞを書いていたような気がする。
最近だとそれっぽいのはピダハン関連か。そういえば『ピダハン』は購入し読んでいる最中である。時間の空いたとき、かつ体調の良い時でないと読み進められないので、なかなか終わらない。そうこうしているうちに、内容を忘れそうになる。一応付箋を貼ったりメモを取ったりしながら読んではいるのだが。
鬱の心情を世間に晒すような行為は、冷静に考えると慎むべきなのかもしれないとも思う。しかし、今更このブログを他者閲覧不可にしたところで何になるか。そうして今日も一日の記録を打つ。鬱の記録を。
最近は仕事が早く引ける。本来、もっと開放感を満喫してよい状況だ。なのにそういう気分は生じない。だからこその鬱なのだろうと考える。これでは元気や活力が出ようはずもない。でも、とりあえず今日は仕事に行けた。普通に仕事ができた(はずだ)。明日も、一日そうやって過ごし、終業時間を待とう。仕事に行き、仕事をし、仕事から解放される時間を迎えることを目標に、生きよう。

なんとか立ち直りたい

2015-04-13 23:22:43 | Weblog
仕事にストレス無く行けるようになりたい。
今日は体調不良で休んでしまった。金曜日は定期通院で休んだので連続4日の休み。
そのほとんどを寝ていた。髪を切ったりタイヤ交換をしたりしたが、その他、家事をさぼって寝ていた。
その負担は妻が負っている。最低だ俺。

今日も起きられなかった。この時期に頻発する睡眠不良。どうしていいかわからない。
このまま出社できなくなったらやばいという気持ちがまだ辛うじて残っている。
ほんとうはもう永遠に出社したくない。でもそれでは生活がままならない。
まずは明日を終える。それが目標。
なんとかなるのだ。誰にでも何にでも何とかなる。

今まで何とかなって来た。
確かに何ともならないこともあったが、それは大概人間関係である。しかも男女関係である。
仲良くなった大学時代の友達と付き合ってもらえないとか、
仲良くなった塾の教え子だった子と彼女が高校卒業後に再会してデート重ねても付き合ってもらえないとか、
ネットで知り合った女子高生を家に上げるまではできたけどその先が続かないとか、そういうのの繰り返し。
結婚で一回そういうモードは抜けたけど、色々あってモテ期的な時期が来て、嬉しいのと苦しいのとで死にそうだった。
そして、その時期の本当の意味を知り、あとは絶望だけが残った。その現場が職場だったから、もうどうしようもなかった。
頑張るとうまくいかない。頑張ると人の迷惑になる。だから頑張らない。そういう理屈を立てた。
しかし、本当は頑張らないと人の役には立たない。つまり、独りよがりでなく、求められる能力を発揮する必要がある。
問題はその能力が自分にあるかだ。あるものもあるが、この年齢で求められる能力の多くは私にはない。どうしよう。
いや、どうしようもないのだが。

他者が出来ているのだから自分もできるだろう。そう思えていた。また、そう思えるようになりたい。
普通の生活を保つのに最低限のことができるエネルギーがほしい。それがないのが「鬱病」なのかもしれないが、だとしたら鬱病から治りたい。
本気で治りたい。