昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

昨日は一つだけいいことがあった。

2017-03-31 00:12:16 | Weblog
それは、美味しいご飯をいっぱい食べられたこと。

昔から通っていた和食屋さん。最近忙しそうなので、お酒も飲まない客単価の低いウチ夫婦は遠慮していたのだけど、たまたま他に選択肢がなかったのと、駐車場を見たら余裕がありそうだったので、本当に久しぶりに夕食で訪れた。
久しぶりなのに、ちゃんと覚えていて歓待してくれたおかみさんに感謝。いつも客単価低くてごめんなさい。
そして、存分に腕を揮っていた親方。今日頂いたものすべてがとても美味しかったです。
お値段安くてボリュームはあり、そして結構脂っこい食材なのに、いっぱい食べても胃もたれしないこの事実がすばらしい。
和食の素敵さを久々に味わえた。
そして、たぶんあまりお店に負担をかけることもなく、団体・予約のお客さんたちの隙間で、いつも通りの最高なお料理を振る舞ってもらえたと思う。
いつも座るカウンター席は、近くにお客さんがいなくて、ゆっくり、じっくり久しぶりの味を堪能できた。

丁度いいタイミングで、いい時間を過ごせました。感謝。この気持ちを抱いて寝よう。今日出勤したら今週も終わり。

推理し追求した結果

2017-03-28 22:18:26 | Weblog
どうやら真相に辿り着いたようだ。

努力は無駄どころか逆方向でより酷い結果になると思い知っていた。
それでも、最低限の生活を維持するための努力は、いまでも続けてしまっていたようだ。
それは、やはり、無駄であり逆効果だった。
そんな努力はもはやする必要はなかったのだ。なすがままにしていればよかったのだ。
どちらかといえば抑制せず、放縦に生きていく選択肢の方がましだった。
それが真相だった。

またもや、努力というものは私に相反する効果をもたらした。
こういう人生になると、やはり生きているそのこと自体が努力であり無駄であり負の価値となるものと思われる。
もっとも、そういう人生を脱却する努力をすれば、それはやはり負の価値を帯びるのだろう。

生きるということと私自身とが反物質のような関係にあると思われる。
私がなし得たものは何もなく、毒や害悪を振りまいただけであった。
存在自体が傍迷惑なのである。

思考がぐるりと戻ったが、これは単なる思考の形式や鬱の傾向ではなく、私に負の価値しかないという点について裏付けが取れているので、
客観的にも、私が存在しない世界が、存在してしまっているいまの世界よりも好ましいということは立証された。
そのことはもう変えようがない。

異常

2017-03-19 23:34:52 | Weblog
あらゆることが異常だとも言えるし、同じ物事を正常だとも言える。
ただ、今、自分が置かれている状況については、明らかに異常だと感じている。

そのことを問いただしてみるべきかどうか、悩む。
そして、そうしたところで、ああ、やはりこういったことに重きを置くようなことをすべきではないのだな、と思うだけに違いない。

しかし、確認してみなければ、客観的に自分の置かれている状況を理解出来ないのも確かだ。

さて、どうすべきか。