昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

2ちゃんねるの

2007-11-29 23:33:50 | ものおもい
ニュース板の「科学ニュース+」は、名無しの表示が「名無しのひみつ」である。
「学研まんが ひみつシリーズ」で知識を貯えた私にとって、これは大変なツボである。
結構、同類の人が多いのであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちょっといい話(大嘘)

2007-11-29 00:07:57 | Weblog
少し前に、「神の手」という写真が流行ったらしい。
どんな写真かは、あとで貼るリンク先を男子限定かつ自己責任で見てもらうとして、まあ、どう見てもガセっつーか捏造写真なのだが、何を思ってか有難がってしまっちゃう人もいたらしい。

そんで、その捏造写真の出どころと、捏造された意図が下品トンデモだった、という話。
もともとは、ニセ科学晒し上げサイトでこのことを知ったのだが、あえて下品なほうのリンクを貼ることにする。

ここ→やぶいぬ日記

※下品なので女子のみなさんは見ないように!件の捏造写真をどうしても見たいという女子は「神の手」でググってくださいな。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食べられるヒト

2007-11-27 00:40:09 | Weblog
ヒトは食べられて進化したという本が出ていることを知った。

で、リンク先のアマゾンの書評を見ると、「ヒトが補食圧に遭う」ということが意外で驚いた」というような感想が目立つ。
ヒトは「狩る側」であって、「狩られる側」ではないという固定観念があるという。

そうか?

「はじめ人間ギャートルズ」でも、ゴンやとうちゃんたちは、マンモスを狩る一方、サーベルタイガーに脅えていたではないか。

ってのは戯れ言だが、以前紹介した本(『人はなぜ神を作りだすのか』青土社)で「供擬の起源は肉食獣の補食圧にある」という説があることを知っていた私、そして、そのことに違和感を覚えなかった私としては、「ヒトが喰われていた」ってのはごく自然なことに思える。
実際、補食圧を相当の脅威と感じなければ、神観念の形成にまで至るまい。
また、原始人類は現生人類より総じて小ぶりであるし、尚更補食圧は高かったであろう。

というわけで、何ということもないのだが、違和感を書き留めたまでである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

痛ましいとしか言えない

2007-11-24 16:20:52 | ものおもい
新小児科医のつぶやき「墓標」


医療現場の問題、として考えるよりも、ただただ、痛ましい。

希死願望というのは実は私の中にもまだあって、特に妻と喧嘩したりすると強く出てしまうのだが、後始末のことを考えると、やはり申し訳なくて思いとどまってしまう。
ただ、妻の存在と、妻とこれまで作り上げてきた時間、その結果として今ある家庭というものが、私をこの世に留め置いている絶対的な拠り所なのであって、もし、それらが存在意義を喪うのならば、果然、私自身の存在意義が消失する、ということに他ならない。
一方「そうではない!私と私が関与することで出来上がって『今』にも意味はあるんだ!」と絶叫するから、喧嘩にもなる。
「私」の存在する意味は、「私」にあり、「私にとってのあなた」にあり、「あなた」にある。
そこで、「あなた」において「私」の存在する意味が消失し、或いはネガティブなものに変質したとするならば、「私」の存在する意味は「私」においてしかなくなる。
ところが、「私」の存在意義などは、とうに「ない」ことが明らかである。そのことが暴かれる。

状況の過酷さ背景の深刻さや、その他諸々・・・比較にならない。本来なら、ここで自分語りなどすべきではない。
分かっているが、今の精神状態では、書かずにはいられない。

ただ、痛ましい。そして、恐ろしい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

圃場と生態系

2007-11-13 00:34:15 | 農業
 はぐれけんきゅういん♀リターンズ:人為的影響下の「生態系」できのこさんが言及している、中西準子先生の「雑感408」について。

(昨晩の原稿を全面改稿しました)

 「圃場そのものが生態系という環境なのか?」という中西先生の疑問に対し、きのこさんは「「人工的に作られた環境下でも生態系の一つであると考えるべきでは?」と仰っています。
 私もまたそう思うのですが、それは、最近の農業施策に関わる仕事をしていたから、というのが理由です。
 近年の農業振興施策の典型として「農場・農村」という「独自の生態系」に価値を見いだし、これを守ろうというものがあります。
 そして、そこで保全されるべきは、機械化・化学肥料・農薬使用による効率化の進んだ農地、ではなく、より生産性の低かった時代の、そしてそれゆえに生物層がそこそこ豊かであった時代の「農場・農村」です。
(似たような考え方に、「里山」があります。落葉広葉樹を中心とした二次林で、人家に近接し、薪炭材や堅果の採取などの人為が加えられることにより持続する森林です。これも、典型的には江戸時代~戦後のスギ植栽以前までのイメージです。)

 さて、最近は環境負荷を低減する技術を導入した農業が、世論・消費者ニーズから広く期待されています。上記の「農場・農村」もまた、環境負荷低減技術を駆使することにより実現されるべきものとして語られます。
 ここでのキモは何かというと、「農場」や「農村」を、審美的な価値観で扱う、というものです。
 ありていに言ってしまうと、日本の農業は斜陽産業を通り越して衰退期にあるといってよいでしょう。それを食い止める方策として行政が注目したのが、農業・農地・農村に「美」を見いだす立場です。この「美」を守るためにも、農業を、農地を、農村を守ろう!そのためにはこれこれの政策が・・・というわけです。
 この「審美的」農村観はなにも行政が勝手に言い出しているのではありません。農業者自身や、かつて農村で暮らしていた消費者においても、この価値を認め、積極的に保全すべきと主張する人達は居ます。言い方が悪くて申し訳ないのですが、いわばそういった人達の価値観を「利用」した農業振興施策というものが存在しており、その意味では「圃場」が「護るべき生態系」であるという考え方は、不可欠なものとなります。ここでの研究テーマ設定に、上記のような行政の意図が噛んでいるかどうかはわかりませんが、上記の視点が含まれたものと仮定した方が分かりやすい研究のように、私には思えます。(だからといって陰謀論的に見ているわけではありませんが)

 さて、特殊な湿地としての水田を主な要素とした生態系というのが存在し、相応の生物種がそこで繁殖していたことは事実といってよいでしょう。農業の効率化が、水田を住処としていた多くの生き物を追いやったことも然りです。
 GM作物は、使用する農薬の種類と量を減らす事ができる技術ですから、減農薬の分だけ、生物層にはやさしくなるでしょう。ですから、ここで言及されている研究成果はわりと分かりやすいものです(もっとも、そんな単純な理解で本当にいいのかどうかは、私にはわかりませんが)。
一方、中西先生、あるいはその他大多数の方の問題意識、およびGMOをめぐる環境影響といった観点からすれば、「遺伝子組み換え作物が栽培された圃場」というのが、その「外部」を含む生態系の擾乱要因である可能性が考えられるから、それを研究すべき、ということになります。
 結局ここでの問題は、「場」をどの範囲に設定するかで、GM作物が「環境によい」「悪い」が逆転してしまう、ということになります。(GMが環境にほんとうに悪いのかどうかはさておき)
 でも、考えてみれば、他の多くの事象だって大同小異であって、結局は、どちらに価値基準をおくか、あるいは共通の「環境のモノサシ」をうまく設定して、リスクを比較考量し、判断するかのどちらかしかありません。
 余談ですが、当県の研究者がシンポジウムで以下のように述べていました。
「環境保全型農業に広く取り組んでいる地域では,地域の実情に合わせて、減農薬・減化学肥料の栽培体系が確立され、それが普及している。すると、多くの農地では、同じような時期に、最低限度とはいえ同じ農薬が使われることになる。農薬への感受性は様々な動植物で異なるが、画一した農法としての環境保全型農業が普及することで、その地域では、ある生物に限り絶滅してしまう、といったことが起こる。だから、『すべての農地で環境保全型農業をやればよい』というものではない。農法もさまざまなものがないと、思わぬ環境負荷の突出を招く場合があるのだ」
 「だから無農薬・無化学肥料でやれ」という誰かの声はあえて無視します(餓死したいならそれでもいいですけど)が、この例を見てもわかるように、答えはシンプルに、とはなかなかいかないようです。結局は、ヒトそれぞれが「決断」し、その結果に「責任を負う」しかないのでしょうね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする