apjさんの「事象の地平線」より。 突っ込みたくなる論説文
わたくし、昼行灯でして「偉くなりたい」とは思っていません。
それも、かなり積極的に「偉くなる」ことを拒否する傾向にあります。
なぜかというと、私の亡父は「偉くなる」ことに大層執着したヒトだったんですね。
私や家族が「偉くなるということは、それだけ責任だけが増していくことになるし、下手をすれば部下の尻拭いで首になったりする。いいことなどない」と言っても、彼は全く耳を貸さず、
「医者でも学校の先生でも、政治家でも、あるいは上級公務員でも、偉くなればいいことばかりだ。皆に頭を下げられて、運転手付きで送迎され、自分は何もせず部下を動かしていればよい。何か不祥事があっても部下に責任を負わせれば済む。責任がどうのこうのと言うのは綺麗事に過ぎない」と言い張っていました。
そういう父の考え方は嫌いでした。たとえ「綺麗事」であろうと。
確かに、古い時代の「偉い人」には、そういうヒトも居たでしょうが、20年前だって既にそういう時代ではなかったし、今ならなおさらそうです。
だから、私には「偉くなりたい」と思わないヒトが多い、というのは、ある意味大変健全なことなのではないか、と思えます。
つまり「偉くなる」ことがハイリスクであることが常識となった、ということです。
本来、「偉い」=ハイリスクローリターン(又はノーリターン)であるべきだ、というのが私の持論。
逆に、そうでないヒトは、いくら肩書きだけが偉くても、実際には「偉くも何ともない」のです。
だって、権力の座とその旨味を求めるようなヒトが「偉い」とは、とても思えませんから。
真に「偉い」ヒトというのは、報酬と無関係に、その職責を果たすヒトのことでしょう。
むろん、一般的な意味で「偉い」コトを評価して高報酬である職業があったとして、それを否定するものではありません。ただ、中身が伴っていないと、それはあっという間に下劣の極みに転落する、ということになります。
もっとも、現実がどうだったのかというと、清貧を貫くような、高潔な「偉い」ヒトも居たし、ただ権力の座に胡座をかいた「名前だけ」のヒトもいたでしょう。また、「偉い」だけのことはして、しかもそれにふさわしい報酬を得ていた、という、きわめて理想的な状態のヒトも、もちろんいたでしょう。
つまり、父の考えも、私や家族の考えも、どちらも「極端すぎる」ということになります。
ところで、「偉い」ヒト=「ハイリスクノーリターン」は、たしかに美しいけれど、実際の社会がそうなってしまえば、現実として、アンケートにも出たように「偉くなる」ことを志すヒトがほとんどいなくなってしまう。つまり「誰も責任を取らない」社会になってしまいます。それは、やはりまずいのではないか、とも思います。
かといって、「ふんぞり返る」ことに喜びを感じるヒトが偉いとも思えないし、そうすると、少なくとも金銭的には十分な報酬がないと「偉い」ヒトは存在できない筈です。
まあ、人生の喜びは金銭的な報酬だけではなく、目的の達成とか、色々ありますから、単純には言えませんが、とにかく「偉くなる」=ハイリスクノーリターンを取る=結果的に報酬その他で報われる、という理想的な状態が、うまく出来ないものか、とは考えます。
よこしまな考えで「偉く」なりたいヒトは減るほうがいいけれど、現に職責を果たしている「偉い」ヒトが逃げ出してしまうようでもいけない。その「バランス」が、極めて難しい。何か、よいモデルはないもんでしょうかね。何せ、apjさんの記事の後段にもある「ネットカフェ難民」の問題ひとつをとっても、いまの日本社会の「偉い」ヒトは、搾取ばかり考えているような気がしてならない訳で。そんなのが大手を振って歩いており、しかも一方では「責任を取らされる」ようなことも多い。なんか、ダメな「偉いヒト」か、偉いことの「ダメな部分」ばかりが目立っている。社会の病理というものでしょうか。
わたくし、昼行灯でして「偉くなりたい」とは思っていません。
それも、かなり積極的に「偉くなる」ことを拒否する傾向にあります。
なぜかというと、私の亡父は「偉くなる」ことに大層執着したヒトだったんですね。
私や家族が「偉くなるということは、それだけ責任だけが増していくことになるし、下手をすれば部下の尻拭いで首になったりする。いいことなどない」と言っても、彼は全く耳を貸さず、
「医者でも学校の先生でも、政治家でも、あるいは上級公務員でも、偉くなればいいことばかりだ。皆に頭を下げられて、運転手付きで送迎され、自分は何もせず部下を動かしていればよい。何か不祥事があっても部下に責任を負わせれば済む。責任がどうのこうのと言うのは綺麗事に過ぎない」と言い張っていました。
そういう父の考え方は嫌いでした。たとえ「綺麗事」であろうと。
確かに、古い時代の「偉い人」には、そういうヒトも居たでしょうが、20年前だって既にそういう時代ではなかったし、今ならなおさらそうです。
だから、私には「偉くなりたい」と思わないヒトが多い、というのは、ある意味大変健全なことなのではないか、と思えます。
つまり「偉くなる」ことがハイリスクであることが常識となった、ということです。
本来、「偉い」=ハイリスクローリターン(又はノーリターン)であるべきだ、というのが私の持論。
逆に、そうでないヒトは、いくら肩書きだけが偉くても、実際には「偉くも何ともない」のです。
だって、権力の座とその旨味を求めるようなヒトが「偉い」とは、とても思えませんから。
真に「偉い」ヒトというのは、報酬と無関係に、その職責を果たすヒトのことでしょう。
むろん、一般的な意味で「偉い」コトを評価して高報酬である職業があったとして、それを否定するものではありません。ただ、中身が伴っていないと、それはあっという間に下劣の極みに転落する、ということになります。
もっとも、現実がどうだったのかというと、清貧を貫くような、高潔な「偉い」ヒトも居たし、ただ権力の座に胡座をかいた「名前だけ」のヒトもいたでしょう。また、「偉い」だけのことはして、しかもそれにふさわしい報酬を得ていた、という、きわめて理想的な状態のヒトも、もちろんいたでしょう。
つまり、父の考えも、私や家族の考えも、どちらも「極端すぎる」ということになります。
ところで、「偉い」ヒト=「ハイリスクノーリターン」は、たしかに美しいけれど、実際の社会がそうなってしまえば、現実として、アンケートにも出たように「偉くなる」ことを志すヒトがほとんどいなくなってしまう。つまり「誰も責任を取らない」社会になってしまいます。それは、やはりまずいのではないか、とも思います。
かといって、「ふんぞり返る」ことに喜びを感じるヒトが偉いとも思えないし、そうすると、少なくとも金銭的には十分な報酬がないと「偉い」ヒトは存在できない筈です。
まあ、人生の喜びは金銭的な報酬だけではなく、目的の達成とか、色々ありますから、単純には言えませんが、とにかく「偉くなる」=ハイリスクノーリターンを取る=結果的に報酬その他で報われる、という理想的な状態が、うまく出来ないものか、とは考えます。
よこしまな考えで「偉く」なりたいヒトは減るほうがいいけれど、現に職責を果たしている「偉い」ヒトが逃げ出してしまうようでもいけない。その「バランス」が、極めて難しい。何か、よいモデルはないもんでしょうかね。何せ、apjさんの記事の後段にもある「ネットカフェ難民」の問題ひとつをとっても、いまの日本社会の「偉い」ヒトは、搾取ばかり考えているような気がしてならない訳で。そんなのが大手を振って歩いており、しかも一方では「責任を取らされる」ようなことも多い。なんか、ダメな「偉いヒト」か、偉いことの「ダメな部分」ばかりが目立っている。社会の病理というものでしょうか。
もしかしたら、今の日本に居るのは「偉い人」ではなくて「エライ人」かもしれないです。
(コメント欄で御挨拶するのは議論の流れを断ち切るようで好きではないのです。御容赦願います。)
>もしかしたら、今の日本に居るのは「偉い人」ではなくて「エライ人」かもしれないです。
あはは!そうですねぇ。しかも、何故か内閣の諮問機関とかに限って「ドエライ人」が多いような気がします。内閣がそういう人をあえてチョイスしている所為なのか、それとも仰るように「偉い人」=「エライ人」である為に、必然的にそうなってしまうのか・・・。
追伸:『と学会年鑑』デビューおめでとうございます。