昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

目の前にないものを想起し描写する能力

2014-10-31 20:33:39 | Weblog
時事関係の記事は消えるので全文引用。
京大「想像で絵を描くのは人間だけ」
産経新聞 10月28日(火)7時55分配信

京都大霊長類研究所の松沢哲郎教授と中部学院大、滋賀県立大のグループは、人間の子供とチンパンジーを比較する研究で、想像をもとに絵を描けるのは人間だけだったとの結果を発表した。その場にないものをイメージする能力が関係している可能性があるという。米国の学術誌の電子版に28日掲載される。

松沢教授らは、1~3歳の人間の子供約60人と、チンパンジー6頭に絵を描かせる実験を行い、結果を分析。人間とチンパンジーはともに白紙上に抽象画のような絵を描くほか、あらかじめ描かれた図形に印をつけたり線をなぞったりすることができた。

一方、目や鼻のない猿の顔を見せたところ、欠けた部分を補って描き入れることができたのは、人間の子供だけだった。

こうした結果から、松沢教授は「今そこにないものを想像する能力は言語の獲得や記号の利用に関係すると考えられる。今後こうした能力を人間が身につけた過程を探りたい」とした上で、「発達障害などの子供が描いた絵を理解する手がかりにもなるのではないか」と述べた。
(引用ここまで)

「今そこにないものを想像する」ことは,目前に迫っていない自己の不幸や死を想像することにつながる。
また,「今そこにない」神秘的,超越的存在を認識したり共有したりすることにもつながる。
宗教にはこれらの能力が欠かせない。そういう意味では,ヒトという種と宗教との分かちがたい関係性を示唆する報告のように思える。
しかし、他方でピダハンの例は,ヒトがそこまで想像力を働かせる文化を必ずしも有する必要がないという実例になる。
想像力を働かせる範囲は「それぞれ」でありうるということだ。ようは,ある場所で,ある一定の時間,維持される文化のバリエーションにすぎない。ヒトは皆メメントモリを伴うものではない。
すなわち,ヒトのこの能力は,宗教の必要条件であっても十分条件ではない。

ところで、動物による絵画といえば、ゾウは上手な自画像(というかゾウの絵)を描くことで知られる。また、仲間の死に対する哀惜の感情表現もする。ゾウの想像力と宗教的感情との距離は、どの程度であり、チンパンジーとはどう異なるか?
あるいは、手話を訓練されたゴリラが、死を理解していたらしいという報告もある。ゴリラとチンパンジーでは、やはり宗教的感情との位相が異なるように思う。ひょっとしたら、チンパンジーは動物の中でも「想像力」が乏しい部類だ、という可能性も排除出来ない。

上野動物園訪問記

2014-10-27 20:56:39 | Weblog
最近,生き辛くて仕方ないので,無理やりイベントをこしらえて,それをこなすということをさせてもらっている。
先日は人生初の上野動物園に行ってきた。お目当てはハシビロコウ。
上野旅行は2月以来。前回の国立科学博物館は駆け足で展示を回り疲れたので,今回はそうならないようにと思っていたのだが,やはり駆け足での展示めぐりとなり,そして疲れた。
体力なくなっているっぽい。科博のときに比べても楽しめなかったし。

上野公園の大きさに制約されている上野動物園は,展示動物の種類は格別だが,展示方法等はそれほどでもなく感じた。
それでも集客力はすごい。この日も家族連れやカップルで大賑わい。パンダコーナーは順番待ちの列ができていた。
ハシビロコウは正面入口から一番遠くにあるので,他の展示は手早く回る必要がある。ということでパンダコーナーはスルー。
実は,近くで見れないだけで,遠巻きにならちゃんとパンダは見える。
他の展示も急いで回った結果,ライオン,トラ,ゴリラなどの動物は見落としてしまうことになった。
もっとも,混雑に付き合っているとお目当てのハシビロコウを見る時間がなくなってしまう。ある程度割り切るのは仕方ない。

ハシビロコウのケージにたどり着いたのは午後3時ごろ。
どうやらメス2羽は抱卵中らしく屋内で座り込んでいた。他に3羽がいるはずだが,目にしたのは2羽のみ。
1羽はうずくまって頭だけ見えていた。そしてそのあと見えなくなった。
もう1羽はさかんに巣作りのような行動をとっている。
どちらも網から遠くにいるため,観察しづらい。
その間,他の展示をめぐりながら,ハシビロコウのケージに戻ってみる,という見方をしていた。

気がつくと4時。上野駅に着いてから2時間半ほど経過していた。さすがに疲れてきた。
ハシビロコウはいっこうに近づいてはくれない。
あきらめて,正面入口に戻り,コインロッカーの荷物を取り出す。
しだいに黄昏時となり,このまま諦めて出ようかと逡巡。しかし最後の賭けに,もう一度ハシビロコウのケージに向かってみた。

すると,先ほどよりは近くにハシビロコウが来ていた。ようやく少し大きめの写真を撮ることに成功。
10分ほどで,また遠くに戻ってしまったため,これをもって観覧終了とした。

さて,なぜだろうか,こうしたことをしてみても,気持ちがあまりリセットされない。日常から離れた気がしない。
心を洗えない。何がいけないのだ。

ピダハンの事例はある種の比較宗教学や宗教現象学の終焉を意味するか?

2014-10-23 22:34:25 | ものおもい
ピダハンの言語及び文化についてはネット上にも既に多くの論評がある。
ので、今更な感じもなくはないが、一応書き留めておく。

彼らの精神生活は,エヴェレットの報告にあるように,(特に一神教的な)神観念を含む抽象概念に乏しいことはおそらく真実だろう。
だとすれば,私が宗教学研究に当たり前提としていた下記の仮説は誤りだったことになる。

(仮説)
宗教は言語と類似している。類似点は以下。
・どちらもすべての人類集団で観察される。
・どちらも理性での探求に限界がある。
・どちらの研究も自己言及的にならざるをえず,パラドックスを免れない。
・その中核部分に存在する仕組み(恐らくは脳の)は,言語化が困難である。

ところが,ピダハンには西洋的な「神」観念がないばかりか,関心を示さないらしい。
彼らの関心は「今ここ」に集中している。過去のことは直接伝聞できる範囲(せいぜい祖父母から直接聞いた話まで)しか意識しない。
「イエスという2000年前の男の言ったことがどうして真実と分かるのか?」というのが彼らの言い分。
エヴェレット渾身の信仰告白(義母の自殺を契機とする)を一笑に付す。「自分を殺すなんて。ピダハンは自分を殺したりしない。」
つまり彼らには,何らかの超自然的存在に仮託することによって,宗教を有している文化に暮らす人々が何とか耐えている恐怖や悲しみ,不安といったものへの共感がない。なぜなら,彼らはそれらを持ち合わせていないから。
宗教に近い観念として,精霊や夢への言及はあるらしい。しかしピダハンにとってそれらは「実際に見聞きしたもの」であるため,我々が抱くような神秘的なものとしての把握はないらしい。ヌミノーゼがないといえばよいか。

さて,(我々が最大公約数的に理解しているところの、しかし未だ曖昧な)宗教が人類に普遍的でないとすれば,それは完全に後天的・文化的な産物だということになる。
このことから,それらは恐らくある時ある人間集団に発生し,しかるのちに伝播,拡散していったのだろうと推察できる(例えば石器づくりのように)。
ということは,宗教研究はある意味、伝播主義や進化主義の時代に戻ることになるのかもしれない。
おそらくは「ヒト集団」におけるミームの適者生存の過程の研究として。

もっとも,進化論的な説明には陥穽があって,それは現在の状況をさかのぼって説明するのに都合がよいが,そのこと自体は後だしジャンケンのようなもので,なぜ現在観察される現象がこのようなことかの説明としては弱い、ということだ。
したがって、もし,宗教が上記のような,ヒトという生物に普遍的な属性でないとすれば,その研究は神学的研究と地誌学的研究に2分されてしまうだろう。比較宗教学や、20世紀的な意味での(私が大学生時代に学んだような)宗教現象学といった分野は,博物誌としての意味しかもたなくなるかもしれない。

うーん,本も読まずにこんなことを考えたり書いたりするのってどうなのだろう?やっぱり「ピダハン」買ったほういいかなあ。難しい本を読むのはツラいのだけど。

活字欲

2014-10-13 22:37:14 | Weblog
先日「本屋を彷徨いたが頭を使うのが嫌で本を買わなかった」と書いた。
実はその際、1冊の本を探していた。原田実著「江戸しぐさの研究」。偽史系トンデモとして「水からの伝言」のように教育現場に浸透してしまったこの迷信を切り捨てる一冊。
先週末、それとは別にと学会が出した「日韓中トンデモ本の世界」と併せ、2冊を探しに、別の本屋に行った。
探す過程で、歴史系から文化人類学系の棚に目を移すと、以下の2書が目についた。
・『宗教を生み出す本能』
・『解明される宗教』
どちらも、生物としてのヒトが進化の過程で身につけた行動としての宗教に焦点を当てたもの。さらに後者は、現代アメリカの原理主義や宗教対立をテーマとしており、私が宗教学専攻に進んだ際の問題意識に非常に近い(平和や道徳を説く宗教がなぜ最も苛烈な対立と闘争の要因となるか、又、自死を厭わぬ強烈な信仰心は個人の適者生存と矛盾するが、進化史上の生物学的優位性は何処にあるのか、といったもの。今思えばミーム論で大体説明出来そう。)
パラパラめくってみると、文章は平易で読みやすい。今の鈍り切った私の脳味噌でも、読むだけなら出来そうではあったが、脳に余暇に使うだけの余力がないのと、劇的に面白そうなトピックはなさそうだったので、買うのはやめておいた。(2冊買うと1万円が飛んでしまうというのも大きな理由だが)

それよりも刺激的に思えるのは「ピダハン」の例だ。およそ抽象観念に乏しい言語を用いる彼らの世界には、神のようなものが存在しないらしい。それでいて、キリスト教の伝統では原罪と言われるような、仏教であれば四苦八苦と言われるような「苦悩」を持たないという。それはクリシュナムルティが述べる「今、ここ」の観念、アダムとイブが知恵の実を食べる前の楽園もかくやと思わせる。これまでは、ヒトに宗教(的観念)は必然的に伴うという仮定で考察を進めていたが、彼らのありようが聞き伝えられる通りであるならば、ヒトには必ずしも宗教(的観念)は必須ではないということになる。そして、その方がむしろ望ましいのかもしれないとも。

結局私は、上記トンデモ本書評2冊を購入し、連休中に惰眠をむさぼる合間の暇つぶしとしていた。

物欲

2014-10-13 22:25:01 | Weblog
一時期に比べパソコンに依存する遊び方が減ったこともあり、余り気にしていなかったのだが、私が使っているMacBook(黒)は、もう使用開始から7年以上も経過していた。
妻が使っていたiMacG5は、去年、基盤が焦げ付いて昇天したので、当時の最新のiMacに買い替えているが、私の方は、特に動作に異常などもなく使っていたので、こんなに長期間使っているとは認識していなかった。
動作が多少遅い位で、使い続けていても特段支障はないのだが、ここらで機種転換をしておかないと、データ移行アシスタントも使えないほど環境が隔絶してしまうことも考えられるので、思い切って新しい物に買い替えることとした。

当初想定していたのは現行唯一のHDDモデルだ。安いしSuperDriveも付いている。だが、レビューでは速度感が遅いとあり、だったらRetinaモデルに思い切って代えてしまうというのもありだと考えた。ただし予算が5万円ほど異なる。
ヨドバシカメラに行き、実際に操作して、小一時間検討した結果、やはりそれなりに性能のいいRetinaモデル13.3インチ256GBSSDを購入することとした。
旧MacBook(黒)のHDDは換装して500GBだった。使用量はおよそ250GB。全てのデータを移行することはできない。そのため、旧データはほとんどを残す事とした。前のMacも普通に使えるので、今すぐにデータを全部吸い出す必要があるわけでもない。
3日くらいかけてデータ移行と整理を行った。ユーザ情報やアプリケーションはデータ移行アシスタントで移行(Ethernet経由。このためにthunderbolt-Ethernet変換ケーブル購入)、それ以外は2台のMacをEthernetで直接つなぎ、サーバ接続で旧マックから新マックにデータをコピーした。この方法は、従来のUSBやFireWire経由に比べるとかなり早い。
このようにして、突如沸く物欲を昇華している。

老化なのか劣化なのか

2014-10-03 22:20:10 | 仕事
暇があると眠り、暇じゃないはずなのに怠けて寝ている。動けないのか、動きたくないのか、最早区別がつかない。
ここに来て、知識欲すら減退してしまった。久しぶりに書店を彷徨いたのだが、食指が動かない。難しい本を読むことが、心底面倒に感じる。
僅かに心を動かされたのは、かつてオタク少年だった中年向けの商品に対してのみ。しかしそれも、買うだけ無駄との思いが勝り、結局は買わず。今しがた書店を後にした。
知識は終生の友、思索は永遠の伴侶と感じていた日々は、どうやら過去に過ぎ去ったらしい。

何もしたくない。何もしないで良い身分になりたい。
半年前の激務疲れとは、明らかに違うフェーズに居る。意欲が負の値から虚数に移行したように感じる。色々な事が色々な意味で終わっている。