昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

時間がない。

2007-02-19 00:32:26 | Weblog
 体調はまだ回復しない。最近、金曜日はボロボロである。一昨日も、妻はソファで、私はキッチンで寝た(流しの下に温風吹出口があり暖かいのだ)。寝袋を買ったのは、じつは失敗だったのかもしれない。
 流石に、翌日はちゃんと二階のベッドで寝た。妻共々、なんと10時間も寝てしまった。最近、8時間以上寝ると腰が痛くなる。どうも、若い頃よりも寝返りを打たないらしい。就職3年目までの超激務だった頃以来、そうなってしまった。
 実は金曜日までに終えられなかった仕事を一部持ち帰っていたのだが、手つかずで終わってしまった。こまごまとした雑用の合間をうまく使えず、まとまった時間が取れなかったのと、そういう時間を読書に充ててしまったことが原因だ。
 もっとも、おかげで『BRAIN VALLEY』は読了した。感想を書きたいが、タイトルの通りである。もう寝ないと。
 しかし一点だけ。約10年前に書かれたこの作品で、私の宗教学的な問題意識に対する一つの仮説が提示されている。「宗教がヒト共通の要素だとして、なぜヒトは神を見るのか、あるいは求めるのか」。この小説では、神はコンピュータによるシミュレーション上の「仮想生命」のようなものであるとされる。といっても、決して神を矮小化している訳ではない。作品世界では、コンピュータの中の仮想生命と、実際の生命は等価であることが示される。そして、神はヒトの脳に発生した仮想生命のようなものであり、すなわちそれは、ヒトの脳を住処とする生物だ、ということになる。従って、神は自らが繁殖するために、信仰を広めるようヒトを動かす。逆に言うと、そうすべきことを命じられる様な神観念が生き残り、広まる。神秘体験は信仰の契機及び強化因子となるため、これを起こすような脳機能が選択される。この説の肝は、「ヒトの生存に有利な形質だから選択された」のではなく、「神が増える為に有利なヒトが選択され、増える」のであるということにある。「生物は遺伝子の乗り物」という言い方があるが、ここでは「ヒトは神の乗り物」である。無論、遺伝子のほうは、実際には誤解を招きかねない位、実際の生命活動の複雑さを思い切って捨象した言い方であり、が故に印象的な言葉である。それと同様な図式を、あえて「神」に対して使っているのがこの小説だ。そしてこれは、『神は沈黙せず』で言及されたミーム論に等しい。しかしこの二作品は、共通の素材を用いつつ、違った料理法で私達を楽しませてくれる。瀬名は、シミュレーション上の生命を、我々と同じリアリティにまで「引き上げた」のに対し、山本は、神を一般的な観念よりさらに高次の存在と位置づけることにより、我々をシミュレーションと同等の地位に「下ろした」。SF的センス・オブ・ワンダーでは山本に軍配が上がる(率直にいうと、発表後10年を経過しようという『BRAIN VALEY』の描写は、特に終盤の破壊的スペクタクルが、逆にベタすぎて古くさい感じがする。「日本映画のパニックシーンだなぁ」という。)。しかし、現実の人間解釈としてより興味深いのは瀬名だ。瀬名の回答がどれだけ真実に近いかどうか、そんなことは考えても分かる筈はないが、少なくとも「なぜ宗教的なものを持つ様にヒトは進化したか」の回答として、不自然ではない気がする。もっと専門的に勉強すれば色々反論材料があるのかもしれないが。
 しかし、10年前か。私が宗教と生物学的ヒトとの関係を内心のテーマにしていた大学時代を終えてから(すなわち、卒業後)3年目だ。丁度、激務のピークを過ぎた辺りである。あの頃は、小説を読める気分ではなかった。あの頃読んでいれば、大学時代の問題意識がより強く記憶に残っていたであろうから、また違った感想を持ったかもしれない。
 

体調不良続き。

2007-02-14 21:20:10 | Weblog
どうしても、疲れが取れない。週末は頑張ってペットを風呂に入れたりはしたが、掃除は出来なかった。
前回の記事をUPした後から、首の左側、延髄の脇のあたりが突っ張ったような感じになり、不快な鈍痛が続くようになった。
ビタミンB12製剤を服用した結果、昨日から小康状態だが、またいつ再発するか分からない。
学生時代から、春先頃に背部に原因不明の疼痛が生じることがままあったので、今回もそれかもしれない。しかし、首に痛みを覚えるのは初めてだ。
そうかと思ったら、今日は両ふくらはぎが強ばっている。足がつる寸前のようだ。特に歩いた訳でも立ち通しだった訳でもない。どうも筋肉疲労の回復が遅くなっているように感じる。何かあるのだろうか。
本日は雨だったり雪だったり。明日も荒れ模様らしい。冬と言うにも妙な天候だ。

このところ、仕事が立て込んでいることでストレスが溜まっているのも、体調不良の原因の一つだろうか。
とにかく会議や打ち合わせが多く、その記録作りに忙殺される。その上、定例の報告もの等の取りまとめを並行してやらねばならない。必要な出張にもなかなか行けない、という状態。あ、書いていたらまた首が痛くなってきた。今夜はこれ位で。

体調不良。

2007-02-07 00:03:09 | Weblog
 ここ数ヶ月、多忙になり妻も私も疲労が抜けない。
 それでも、何とか工夫して、金曜日には尽き果てていた精魂も、翌月曜日の帰宅時には「おお、結構大丈夫じゃん」と思えるくらいにはなっていた。
 それが何故か、今週月曜日(昨日)は駄目だった。朝からどうにも眠気が抜けず、体も起床直後のようにだるい。
 実は最近、眠気止めの薬を試すようになった。栄養ドリンクの類いは眠気防止には全く効かなかった私だが、これはかなり効く。しかし体に相当負荷をかけているであろうと思われるので、多用は控えていた。せいぜい、一週間に一度、週末近くの昼休み後の眠気防止に使うだけだ。しかし、昨日は週の頭の、しかも朝からこれを使う羽目になった。
 これではいけない。
 そこで、今日はこれまた最近日課にしている通勤時の40分徒歩をやめてみた。とりあえず疲労感を取り去るのが先だと思ったからだ。
 ところで、私は通勤時のバスの車内では、寝るか本を読むかすることが多い。今日は瀬名の『BRAIN VALLEY』を読んでいた。丁度勢いがつき始める辺りだったことから、20分程読んでいたら、なんと車酔いした。車酔いなんて、20年位体験していない。なんだ、これは。私に何が起こっているのだ。
 だから、本当は中西裁判の準備書面を読んだり、その感想をブログに書いたり、こんな駄文を打っている場合ではないのだ。さあ寝るぞ。

環境ホルモン濫訴事件/準備書面(5)公開

2007-02-06 23:51:33 | 裁判
 環境ホルモン濫訴事件:中西応援団で、原告と被告双方の準備書面(5)が公開されました。
 本裁判は結審し、3月下旬に判決が出ますので、上記が事実上は最終準備書面となるのでしょう。(当日、被告側は原告の準備書面提出が遅かったことから、後日さらに追加で書面提出があり得るとはしているようですが、双方を読み比べた結果、私はその必要はないと感じます)
 さて、双方の準備書面に早速目を通しました。まずは原告から。


 あー!逐一つっこみたくなる!!



 次に被告準備書面を読む。


おお、全て簡潔に反論されてるじゃん!!


 相変わらず見事です。原告主張の枝葉はバッサリ斬り落として主要部分に絞った上で、その主要部分も簡潔に斬って捨てています。
 私が改めてつっこむ必要がありません。

 しかも、さすがプロと思うのは、これが原告準備書面(5)提出前に出されていることです。ちゃんと、何が書かれそうか、これまでの主張立証から過不足無く掴んでいる、ということです。この無駄のなさが素敵だ。

 まずは御一読を勧めます。「準備書面の書き方」という点でも、非常に参考になります。双方とも。
 かつて私の書いたのはどうも冗長になりがちで、いかにも素人、というものでしたので、今思い返しても反省することしきりです。

年をとったと言うことか。

2007-02-04 00:23:54 | Weblog
 悲報が相次ぐような気がして仕方ない。
 もっとも、自分が生きている時間が長くなる分、知る人も増えるのだから、当然なのだが。

日テレ大杉君枝アナ転落死、自殺か(日刊スポーツ) - goo ニュース

 名前を見てもピンと来なかったが、他のブログ等を見て、それが「鈴木君枝」さんだということに気付いた。
 そして驚いた。

 日本テレビで土曜又は日曜の朝の時間帯で放送していた(いまも続いている)「所さんの目がテン!」という、ユルい科学番組がある。私が高校生の頃からやっているから、かれこれ20年は続いている大変な長寿番組である。当時、大学に進学し山形で一人暮らしを始めたばかりの兄から「この番組は面白い」と言われて見始めた。確かに面白かった。どちらかというと兄よりも私好みの番組だった。
 鈴木アナは、その番組の初代アシスタントで、被り物を着て登場し、ボケをかまして所さんにツッコまれるという役柄だった。その明るいキャラクターの印象が強いせいで、彼女と「自殺」という言葉が、どうしても結びつかない。
 いろいろ検索して、彼女が難病に苦しんでいたことを知った。その苦しみはいかばかりだったのだろう。幼子を残して死を選ばざるを得なかった、その事実の前に、言葉も無い。合掌。

微妙にカブっている。

2007-02-01 23:11:56 | 農業
 別に内舘牧子氏のファンでもなんでもないのだが,彼女が東北大の宗教学研究室などというドマイナーなところを選んで勉強してくれたおかげで,私が2年間入り浸っていた研究室も,ずいぶんと知名度が上がったとは思う。今回は、そんな内舘氏のコラムを紹介。なんと,仙台の地場の野菜「仙台野菜」を取り上げている。

 読売新聞には悪いが,全文引用させてもらいます。

・内舘牧子の仙台だより第45回(読売新聞仙台版?:1/31付)「みんな私が悪いのよ」
 1月16日から1週間,東北大学宗教学科の連続講義があり,私も聴講させてもらった。講師は東大宗教学科の島薗進先生。みっちりと島薗先生の講義を受けるなんて千載一遇のチャンスだ。
 私は東京の友人や仕事仲間には内証で仙台に滞在する気でいたのに,どこで聞きつけたのか,次々と女友達から電話が来る。
 「ねぇ,仙台で授業に出るんだってね。アータってそんなに勉強が好きだったのね。偉いわ。立派だわ。友達として誇らしいわ」
 口先だけでほめまくる彼女たちの,真の用件にカンづかない私ではない。要は「仙台みやげ」が欲しいのである。手ぶらで帰って来ちゃなんねぇぞというのが,彼女らの真意なのである。
 その「仙台みやげ」は牛タンや笹かまぼこではない。「仙台曲がりネギ」とか「仙台白菜」,「仙台雪菜」や「仙台芭蕉菜」や「寒締めちぢみホウレン草」などの仙台野菜なのである。重くてそうそう持って帰れないし,宅配にすると言うと「買いたてをすぐほしいわ」とぬかす。
 もっとも,彼女たちに仙台野菜のおいしさと珍しさを教えてしまったのは私で,マイカーの時にはトランクいっぱいに積んで東京に帰っていたのである。そして,よせばいいのに,ついつい,
 「これはね,今朝,朝市で買って来たのよ。曲がりネギはね,横倒しにして土に埋めて育てるの。そうするとネギが立ち上がろうとして曲がるのよ。そういうパワーが他のネギにはない甘さと柔らかさを作るんだっちゃァ」
 なんぞと能書きをたれるものだから,友人たちは欲しがって大騒ぎになるわけだ。みんな,私が悪いのよ。だが,今回は新幹線で帰るので,仙台野菜は次回ということで諦めさせた。
 すると,仙台のホテルに女性編集者から電話があり,仕事の都合で1日早く帰京せざるを得なくなった。そして彼女はつけ加えた。
 「あなたも知ってるA子が,明日手術するのよ。また立ち上がれということで縁起がいいなら,曲がりネギをお見舞いに買ってきて」
 そういう事態ならと,私は買いました。曲がりネギをしょって新幹線に乗りましたとも。
 で,A子が何の手術かというと美容外科でレーザーを使ってシミを取ったんだと。すぐに終わって日帰りだと。私,カンペキにだまされました。(うちだて・まきこ)


 「仙台野菜」というのは、「京野菜」や「加賀野菜」等と同じく、地元近辺でかつて多く栽培されていた野菜類、今ではあまり流通しなくなった、ちょっと懐かしく、いまの消費者にとっては珍しい、地域限定版の独特の野菜をいう。近頃はこういった「ここでしか味わえない」というような、プレミア感のある食材が人気である(テレビの影響だと思うが)。加賀野菜の成功で、多くの地域でこうした地元独特の野菜を発掘し、ビジネスにしようという動きが見られる。
 「仙台野菜」の種類は、上で内舘氏が記している分で殆ど網羅される。もっとも、ちぢみほうれんそうは、仙台というよりは県東部の石巻近辺が有名産地で、宮城の地場野菜ではあるが、「仙台野菜」とは言わないかもしれない(もっとも、県外のヒトにとっては関係ないことだろうが)。また、ここに挙げられていないものに、サトイモの葉柄を食用にする「からとりいも」(又は「あかがら」、「ずいき」)がある。これは干物にするもので、まあ地味な食べ物である。
 実は、上記の仙台野菜のうち、スーパー等で普通に買えるのは、冬期のちぢみほうれんそうと、曲がりねぎ位である。曲がりねぎはこちらではポピュラー過ぎて、地元独特の野菜である事を私は成人するまで知らなかったし、恥ずかしながら普通の長ねぎとの味の違いを意識した事もない。
 では他のものはというと、昨年あたりから、行政の後押しで、仙台朝市のある青果店が扱う様になり、ようやく一般流通の回路が出来たという段階である。もっとも、生産量はまだまだ少なく、しかも結構人気なので、入手するのはそれなりに苦労する。内舘氏が、これまた未だ余り知られていないであろうモノを知っており、かつ愛好しているというのは、ちょっと驚きである。氏は、密かにマイナー指向であろうか?等と疑ってしまったり。
 ちなみに、白菜は明治の頃に中国から日本に入った。そして、日本で初めて本格的に栽培されたのが、実は宮城県(松島、仙台)である。上で言われる「仙台白菜」とは、この黎明期の品種に近い特性の品種を指す言葉である。
 仙台白菜は、柔らかく甘いため人気が高かったが、反面、傷がつきやすく、傷むのがのが早かったこと、収穫可能な期間が短いこと等から、次第に他の品種にとって代わられた、いわば「市場競争に負けた」品種である。それがこうして時を経て復権するというのが、何とも面白い。
 ところで、「仙台野菜」というのは、仙台市の農政担当部局が名付けた言い方である。他方、宮城県庁では、同じものを「仙台伝統野菜」と呼称している。こちらの名前で検索すると、詳細な解説サイトがヒットする。しかし、同じものをわざわざ違う名前で呼ばなければならないというのは、いかにも縦割り行政といった感じで、いかがなものか、と思ってしまう。何より、消費者にわかりづらくなるのが痛い。
 

 で、何がカブっているのかというと、この野菜のプロデュースなんかも、私の職場の所掌範囲に入っていたりするのです。何だか私がやけに仙台野菜に詳しいのもそういう理由。
 

失言について。

2007-02-01 00:36:19 | Weblog
本当にいまさらなのですが取り上げてみます。

まず、柳沢厚生労働大臣は、WE推進者の一人であり、私は同制度に反対する者です。
そんな柳沢氏が失言をした、それで辞任を迫られている、というのは、私の立場からすれば歓迎すべきことかもしれません。
実際、安倍内閣の政策方針には多くの疑問符が付いている。そして、その内閣は、発足間もない頃から、様々なほころびが見えてきています。その綻びぶりが余りに出来過ぎていることから、個人的には、むしろ不気味だったりもします。(陰謀論に傾くつもりはありませんが)

さて、失言については、これを好機とばかりに辞任の圧力を加え、結果、柳沢氏が大臣の職を辞すれば、それでよいのでしょうか?少なくとも厚労省が関係する諸問題について、政治的な流れは変わるのでしょうか?
そんなことはないだろう、というのが大方の予想でしょうし、私もそう思います。

ところで、柳沢氏は本来、経済、金融の専門家なのだそうです。
そのため「そもそも、なぜ厚労相に経済の専門家という畑違いの人物を指名したのか」という批判もあるようです。
失言と言われる部分は、女性を「産む機械」という言葉で表現した部分ですが、このことと、WE制度推進の立場とを併せて考えてみると、氏の基本的なスタンスがはっきりします。
それは、ヒトを「社会システムの中の要素」として見ている、あるいは、そういう側面からしか見ていない、ということです。
社会経済学的にいえば、いまの日本社会における「女性」性の問題は「子を産む」という機能が弱くなっていることだ、と捉えている。経済学的な視点に限れば、このこと自体は当然です。(このあと書きますが、発言が当然だ、妥当だという意味ではありません)
WE についてはどうでしょう。ここでの見方は「労働単価」です。企業経営的には「コスト」であり、利益率の向上を至上命題とする企業というシステムの中では、極力切り下げるものとしてしか考えられません。また、WE制度が「少子化の歯止めになる」等と言う屁理屈も記憶に新しいところです。
加えて、医療費総額削減の流れがあります。柳沢氏のスタンスは知りませんが、少なくともこの流れに反してはいないでしょう。ここでも、少子高齢化のなかで、いかにコスト負担を減らすか、といったことが、社会経済システムの要素という側面から語られている、ということになります。

そこて、誰でも疑問に思うのは、厚生労働省という組織の長が、ヒトを「経済社会システムの要素」として、他の、個々人の全人格を構成する要素を捨象して見る事が、果たして適切か?ということです。上記の「畑違い」批判の大部分は、ここから来ているのだと思います。
医療であれ労働制度であれ、大きく言えば福祉の部分です。それは、個々人の生活を、ある程度尊重するという立場から考えられ、ここまで施策が展開されて来ていた筈です。ところが、「社会システムの要素」としてのヒト観は、これと相容れません。この立場では、「個々人の生活の向上」という福祉的な政策視点は、隠れてしまいます。代わって表に立っているのは「システムの問題とその解決」という視点です。もっと言うと「システムの改善のために個々人の生活は犠牲にしてもやむを得ない」という立場になります。いまの経済状況ではそうならざるを得ません。
つまり、厚労省のトップが福祉後退を進めるということです。これでは、大部分の国民の期待とは正反対ということになりますので、その職がに就いている事が「適切でない」と言われてもやむなしでしょう。氏の失言は、言葉遣いの不適切さも勿論よくないのですが、それ以上に、このことを明示的に表現してしまったということの方が、まずかったのではないか(私の立場からはむしろ良かったのではないか)と思えるのです。

しかし、もう少し考えてみると「逆もまた然り」なのです。上記のような状態なのに、何故かあえて氏を厚労相に指名した安倍氏の意図はどこにあるのかを、少し考えてみましょう。
安倍内閣の方針からすると、前述の企業優遇、医療費抑制、それに国家に従順な国民の育成は規定路線です。そこに、ヒトを総合的、全人格的に扱おうとするような人物が厚労相として入閣すれば、どうなるでしょう。
そう、上に列挙したような内閣の方針が徹底されることはなくなります。
ですから、柳沢氏という経済の専門家をわざわざ厚労相に充てたのは、失策ではなく、安倍内閣ではむしろ「必然」であり、その配置は「最適」なのです。「ヒトをシステムの要素と見る」ような人物でなければ、上記の政策は実行できないのですから。これだけの批判にも関わらず、安倍氏が柳沢氏の辞任を否定するのは、彼以上の適任者が居ないからでしょう。

というわけですので、例え柳沢氏が辞任しても、後続の大臣に期待ができないであろうことは、容易に予想がつきます。いずれにせよ、そういう内閣の方針に沿った人物が後継大臣となることはほぼ確実です。

つまり、結局、このことは失言した個人の問題ではなく、内閣自体の問題なのだ、ということです。もっと言えば、政権与党自体の問題なのです。