神話や伝説などの宗教的な物語には、不可解なストーリー展開となるものが多いが、そこに、ある種の共通する構造を見出したのが、レヴィ=ストロースだった(と思う)。英雄神話についてはキャンベルだっけ?
また、ユングの「元型」論などもそうで、いずれも、人間文化における「形式」には共通する要素が多く、それを「儀式」として「反復」することも特徴であるとされる。(神話などの物語であれば「繰り返し語られる」ことがそれに当たる)
一方、人間の認識においても、古くからその「形式」が注目されている。分かっている最古の発言者はプラトンであろうが、より精緻にはカントが『純粋理性批判』で言及した。解剖学等の知見を加えたうえで、同様なことを述べているのが養老孟司である。
前置きが長くなった。何が言いたいのかというと、無闇に物語が繰り返される。そのことに少々苛立っている。
たとえば以下のリンク先を見てほしい。
適食情報コラム「ベストセラー『食品の裏側』の裏側」
食品添加物の使用実態についてセンセーショナルに取り上げた本である(と認識されている(注1))。
内容はリンク先を見てもらいたいが、要するに「こういうデータがあるから食品添加物は危険だ、或いは危険な使用実態がある」ということは、実は書かれていない。しかし、そうミスリードさせるように書かれている。その結果、ヒトはミスリードされた内容を信ずる。そして、そういう本が売れる。これは「大企業は消費者を食い物にする悪だ」という物語の反復であり、より一般的には「陰謀論」である。ちゃんと批判的に読めば、そういう話でないことは、それだけで分かるのに、ヒトはおそらく「あえて」そうは読まない。そうして「物語」の「形式」を「反復」する。そこで満足してしまう。
我々ヒトは生命である。生命活動の基礎は「パターンの反復」にある。子を成すことがそうだ。遺伝子の複製もそうだ。ヒトにおける知的活動も、大脳新皮質及び感覚器官がが準備した認識の「形式」に沿ったものしか認識できない(カントが指摘したのはこのこと。赤外線や紫外線は見えない!)。およそ「論理」というものもつまりは準備された「形式」にほかならない。この「形式」にあてはまるか否か。生命活動の本質、逃れられない軛がここにある。
だからって味噌糞でいいというものでもない。認識とか正しさとかに不可欠な「形式」以外にも、ヒトは多くの「形式」を準備し、無意識に適用してしまう(注2)。仕舞いには「思考停止」に陥る。節約しようとして、そうなってしまう傾向が常にある。このことを常に念頭に置いて、日々を生きる必要があるだろう。
それで、宗教学が生活に役立つとすれば、こういうふうに考える材料となることだ。しかも、これは結構重要なことなのではないか。
(注1:上記コラムによると著者は巧みにそう言い切ることは避けているらしい。そして、最も言いたいことは「子供の食育の重要性」らしい。どこかで見た構図だと思ったら、矢追純一のUFO本と同じだ。)
(注2:適用できるとなぜか安心する。適用できない事象は「混乱」を招き、ヒトはこれをたいへん怖れる。養老が言う「現代人は脳の中に住む」とはこのこと。)
また、ユングの「元型」論などもそうで、いずれも、人間文化における「形式」には共通する要素が多く、それを「儀式」として「反復」することも特徴であるとされる。(神話などの物語であれば「繰り返し語られる」ことがそれに当たる)
一方、人間の認識においても、古くからその「形式」が注目されている。分かっている最古の発言者はプラトンであろうが、より精緻にはカントが『純粋理性批判』で言及した。解剖学等の知見を加えたうえで、同様なことを述べているのが養老孟司である。
前置きが長くなった。何が言いたいのかというと、無闇に物語が繰り返される。そのことに少々苛立っている。
たとえば以下のリンク先を見てほしい。
適食情報コラム「ベストセラー『食品の裏側』の裏側」
食品添加物の使用実態についてセンセーショナルに取り上げた本である(と認識されている(注1))。
内容はリンク先を見てもらいたいが、要するに「こういうデータがあるから食品添加物は危険だ、或いは危険な使用実態がある」ということは、実は書かれていない。しかし、そうミスリードさせるように書かれている。その結果、ヒトはミスリードされた内容を信ずる。そして、そういう本が売れる。これは「大企業は消費者を食い物にする悪だ」という物語の反復であり、より一般的には「陰謀論」である。ちゃんと批判的に読めば、そういう話でないことは、それだけで分かるのに、ヒトはおそらく「あえて」そうは読まない。そうして「物語」の「形式」を「反復」する。そこで満足してしまう。
我々ヒトは生命である。生命活動の基礎は「パターンの反復」にある。子を成すことがそうだ。遺伝子の複製もそうだ。ヒトにおける知的活動も、大脳新皮質及び感覚器官がが準備した認識の「形式」に沿ったものしか認識できない(カントが指摘したのはこのこと。赤外線や紫外線は見えない!)。およそ「論理」というものもつまりは準備された「形式」にほかならない。この「形式」にあてはまるか否か。生命活動の本質、逃れられない軛がここにある。
だからって味噌糞でいいというものでもない。認識とか正しさとかに不可欠な「形式」以外にも、ヒトは多くの「形式」を準備し、無意識に適用してしまう(注2)。仕舞いには「思考停止」に陥る。節約しようとして、そうなってしまう傾向が常にある。このことを常に念頭に置いて、日々を生きる必要があるだろう。
それで、宗教学が生活に役立つとすれば、こういうふうに考える材料となることだ。しかも、これは結構重要なことなのではないか。
(注1:上記コラムによると著者は巧みにそう言い切ることは避けているらしい。そして、最も言いたいことは「子供の食育の重要性」らしい。どこかで見た構図だと思ったら、矢追純一のUFO本と同じだ。)
(注2:適用できるとなぜか安心する。適用できない事象は「混乱」を招き、ヒトはこれをたいへん怖れる。養老が言う「現代人は脳の中に住む」とはこのこと。)