昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

閑談ーオタク書評:長谷川裕一と小山田いく、それとジョジョの奇妙な冒険

2014-04-20 12:49:22 | 読書
「機動戦士クロスボーンガンダム ゴースト」を買って読んでいる。
同シリーズは最初、漫画喫茶で読破した。後日談の「スカルハート」「鋼鉄の七人」は、数年前に鬱がひどく職場を休んだとき、ストレス解消のため一気買いして読んだ。
長谷川裕一は、SFドラマが上手い。惜しいのは、絵柄がモビルスーツを描くのに向いていない。彼の描線は、堅いはずのロボットが堅く見えない。
アクションシーンのコマ割りなどが上手い分、余計に惜しい。
クロスボーンシリーズに登場する「木星じいさん」ことグレイ・ストークが登場する関連エピソード「逆襲のギガンティス」「プロジェクト・エクソダス(初出タイトル「機動戦士Vガンダム外伝」)」が再録された短編も「ゴースト」と共に入手した。これも、初読は漫画喫茶である。
上記短編を読み直して、気づいた点がある。長谷川は少年チャンピオン出身である。そのせいか、絵柄や台詞運び、描線に、小山田いく、たがみよしひさの影響を強く感じるのだ。
それをネットで検索しても、指摘した記事はヒットしない。だが、かれのユーモア感覚など、やはり小山田いくの影響を強く読み取ってしまう。
例えば「逆襲のギガンティス」で、ジュドーとアムロが初対面するシーン。アムロが「えーっと、ルー・ルカさんは?」と尋ねる。ジュドーは同じコマの背景で後ろをむきながら「はーっはっはっは」と笑い、次のコマで「逃げられました」と真顔で答える。アムロは崩れた表情で「さよけ」と返す。
この流れ、特に「さよけ」という台詞で終わるところなどが、初期小山田いく作品、具体的には「星のローカス」辺りに良く似ているのだ。
全く個人的にだが、長谷川はチャンピオン読者として、小山田いくの影響を強く受けていると考える。荒木飛呂彦が初期の作画において、白土三平の影響を強く受けていたように。

さて、アニメ「ジョジョ」は、待望の第三部が始まった。
私自身は第ニ部の「完全生命」というハッタリの効いた設定が大好きなのだが、ジョジョの知名度を一気に上げ、不動の人気シリーズにしたのがこの三部。
それまで長期連載になるヒット作が無かった荒木の出世作、代表作といってよい。
私自身は小学生の時に読んだ「魔少年ビーティー」や、今や再評価されSF中編として名高い「バオー来訪者」を愛読していたので、実はジョジョシリーズにはあまり愛着が無い。リアルタイムでコミックスを買うのも、第三部の中盤で止めてしまったくらいだ。私にとっては初期作品のほうが、そのSF発想のほうが、より魅力的である。
それでもアニメのほうは見てしまう。過去2作のオープニングは、80年代ジャンプのアニメ化作品のオマージュと聞く。第一部は北斗の拳、第二部はキャッツ・アイ。さて第三部は何なのだろうか?妻は「聖闘士星矢ではないか?」と言っていたが、私は星矢の原作は愛読していたが、アニメのアレンジが好きではなくTVのオープニングを覚えていないので、何ともいえないのだ。
ところでジョジョの「ホラー作品」としての発想の端緒は「自分の先祖と因縁のあった敵が復活し、わけもわからないまま戦いに巻き込まれるというのは恐ろしいのではないか?」という点にあったという。であれば、第三部まで進むことが、このシリーズの必然であった。それまで短期連載で、ジョジョ自体も掲載順が前の方に行ったことはほとんどないというポジションだったが、第三部まで進めばこその「ジョジョ」であったことを考えると、感慨深い。
それでも私は「石仮面の謎」と「脳の隠された能力」「吸血鬼」「完全生物」といったガジェットを駆使した第二部が、今でも一番のお気に入りである。

今度は書く気が起きない。といいつつ書評の一部を記載。

2014-04-12 23:27:31 | 読書
平日の仕事に全力を尽くしていて、ストレスが溜まると仕事以外の文章を書きたくなるけれど、週末になると、疲労蓄積で長文章を書く作業が億劫になる。
そんなわけで、活字欲は専ら読書で発散している。最近は中西準子先生の「原発事故と放射線のリスク学」をちょぼちょぼ読み進め、2/3くらい読み終わったところ。
あとでまとめて書評するつもりだけど、中西先生の特徴というか感心する点は2つ。
一つは「学者目線で書かない」こと。ここまで読んでいて、立花隆の科学系ノンフィクション本を読んでいるような気分になる。
そのくらい「大衆目線」「素人目線」で書かれている。しかも多分、御本人は計算でそうしているのではないと思う。
ある程度「分かりやすくして世間に届けたい」というのは、もうずっと変わらず抱いている思いだから、それがにじみ出るというのが理由の一つとは思うが、恐らく科学的な問題について、ここまで打算無く謙虚に思考を進められること自体が独特の個性なのだと感じる。
もう一つは、自分の関心領域に寄せた話になるが「ヒトが理解するとはどういうことか」を、研究の中に組み込んでいる。これは哲学の領域といってよく、中西先生は、科学で社会的問題に切り込むという前人未到の研究人生を切り開いて来た人だから、そういうことを自然に体現されている。「自分が理解する」ことと「他者に理解してもらう」ということ、さらにはリスク論というのは要するにある種の社会的合意を設定するためのファクトなり判断材料なりを提供するものだから、自然と社会学領域の目線も入らざるを得ない。それらをひっくるめて「ヒト集団全体が、ある問題をどのように理解し、対処していくか」そのものがテーマになっている。
一般向け科学書には、あまりこういうメタ的な視点はない。ここが面白い。
なんだか勢いに任せて、6割くらいの感想を書いてしまった。疲れたので続きはまた次回記事で。