昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

環境ホルモン濫訴事件/原告人証は予想外

2006-10-31 00:19:57 | 裁判
 事件の概要は省略します。すみません。なお、併せて「中西応援団」原告提出書類「準備書面(4)」と「甲22号証(陳述書)」も目を通して頂けると助かります。(長いですけどね・・・。)

 さて、今回の人証では、主に「本件で名誉毀損が法的にどのように成立するのか」を説明、証明するものと思っていたのですが、原告が最も時間を費やしたのは、当日のプレゼンのやり直しだったようです。(中西応援団の掲示板や、kkyamasitaさんの日記を参照)
 まさか尋問の時間を使ってプレゼンのやり直しをするとは。本当に予想外でした。原告は法理の部分には本当に関心がないようです。
 なんでこんなことをするのか?すぐには理解できなかったのですが、以下のように考えているのなら、まあ理解できなくもない、と思い至りました。
 まず、原告は自分が「研究者として、批判すらされるいわれがない」と思っているということ。
 そして、「自分が批判されるいわれのない人物だ」ということを示すには、自分の研究内容を説明することが有効であると信じている。
 なぜなら、自分の研究は学問的に正当な手続きに則って行われており、その着眼点、および成果の両方が、学問的にも社会的にも注目に値するものだから。
 そのことは、研究内容を説明すれば分かってくれるはずだ。専門家なら当然分かるだろうし、専門外でも理系の学者なら相当程度分かるだろう。全くの素人だって、これだけテクニカルタームを駆使して再三説明すれば「すごいことをやっているんだ」という位はわかるだろう。
 そして、自分の研究成果が分かってもらえたなら、「批判を受けるような人物ではない」のだから、被告のいう「批判」というのはすなわち「批判に名を借りた中傷」にほかならないことも分かってもらえるだろう。
 こう考えれば、なぜ学問的成果の説明にこれほどこだわるのかが分かります。そこに、ひとかどの人物たる自信と誇りを持っている、ということなんですね。
 無論、研究成果が立派だ、だから批判は中傷の隠れ蓑だ、というのは飛躍というものです。そこで原告は、この論理を補強するために、ようやく「名誉毀損が成立する論理」を明示することにしたようです(実はこっちの方が重要)。これについては、以前別の場所で(こっそり)書いた予想が当たっていたようで、つまりは「環境ホルモンは終わった」が、事実摘示の主要部分ということ。
 これは良く分かります。問題となった中西雑感の記載された字句で、原告の信用が失墜するならば、それは原告が何度も説明している「環境ホルモン重要派」対「環境ホルモンから騒ぎ派」の対立構造があるとした場合に(あるかどうかは異論もあるようです。hetareDさんの日記参照)限られる。すなわち、原告が前者から後者に「宗旨替え」(という表現を原告が使っています)したと誤解させるものだということで、「原告の属する派閥内での信用」が失墜したから(派閥意識が強い人なら、このことにがっかりするのはありそうなことです)名誉毀損になる、ということ以外にはありえない。
 ここまできて、ようやくこの論理を明示しました。
 まあ、名誉毀損が成立するのはこの「派閥内」という部分社会にしかない、というのは、事前に予想できたことですから、驚くことではありません。しかし、これは逆にいうと、原告が想定しているのは「派閥内社会」のことでしかないことを認めたことになりますよね。つまり、「広く一般社会(派閥外含)の価値観からして名誉が毀損された」とは認められない、ってことになりはしないか。実際そうだとは思いますけど。原告がそれを認めた形になると、だいぶ「損害」が矮小化すると思うのですが、いいのかな。いいのか。
 そして、あえて意地悪に言って申し訳ないのですが、派閥内では「宗旨替え」と捉えられることが信用失墜につながるのは分かるとしても、研究者の問題意識として「次のチャレンジはナノ」と考えたことの「目の付け所」自体はいいと思うんですよね。だったら、研究者なんだから、「派閥」なんて気にしないで、研究テーマを堂々と変えて構わない、むしろそうすべきだと思うのですが。それを「派閥」にこだわり、そこに留まっていることを声高に主張するというのは、「派閥外」の論理からすれば、逆に「この人は学問の成果を客観的・冷静に受け止められる人だろうか」という点で疑問を感じざるを得ないのです。
 「派閥にこだわる」というのは、研究の中身よりも、そこにまつわるヒトやカネにこだわっている=他者への影響力を維持したい、と私には見えてしまう。
 つまり、名誉毀損裁判で「部分社会での信用失墜だ」なんて言ってしまうことが、「研究成果・客観的データよりも部分社会内の信用の方が大事だと思う学者ってどうなのよ」という感想を招きかねない。というか私はそう思ってしまいます。 
 いや、一般的に考えても部分社会内(例えば会社内)とかの信用とか評価は大事でしょう、といわれれば確かにそうですが、「派閥性」にこだわればこだわるほど、「学問」としてのありようからは遠のいていくような気がしてなりません。そのことは、逆に「派閥外」からの「学者」としての評判に影響しないか?と、いささかの老婆心。
 それと、もうひとつ、はっきりいうと呆れたのが「発表はスタイルだから、批判するものではないし、スタイルの批判は研究内容と関係ないから学問上の批判に当たらない」という主張。これはすごく時代遅れ。研究内容や成果を社会にわかりやすく提示し、もって社会の発展に資すると同時に、社会から研究継続を認めてもらおうと努力することの重要性なんて、今や研究者の常識だ、位に思っていたのですが。これって斟酌するに「研究テーマとか内容それ自体が重要性を語るから、表現方法は重要でない」と思っているということですよね。しかし、そういうことを言っている(ように私には見える)研究者が、細々と自分のテーマにのみ向き合って孤独な研究をしているというならともかく、多くの科研費予算を取り、300人が関わる研究を成し遂げたことを誇るというのは、矛盾とは言わないまでも一致しないことは確かです。科研費を取るための申請だってプレゼンと同じでしょうに。
 まあ、ここは本当は「プレゼンだってヘタなはずはない」と言いたいところを、敢えて慎んだのでしょうかね。
 それにしても、上記は(陳述書にあるのですが)、原告準備書面(4)の
 >また、仮に本当に原告のプレゼンテーションの仕方に問題があったというのであれば、それに対する本来の学問的批判は甘んじて受けるつもりである。
 というのとは矛盾しているような気が。
 陳述書から予想するに、原告が想定している「学問的批判」は、どうやら「私の研究では、AhRはインディルビンを排出するためにあるのではなく、○○を排出するためのものだ」とか、そういうことに限られるようです。・・・って自分の土俵でしか勝負しないってこと?いや、逆に中西応援団の掲示板とか、chem@uさんグレガリナさんの指摘は「学問的な批判」になりますよね。これはいいのか、な?
 ということで、まったくの素人の私もひとつ。原告の主張には、被告の「リスク管理」論を批判して「内分泌かく乱物質は、死亡だけをリスク指標とできないから難しく、かつ恐ろしい」旨の記述があるのですが、その理由は、生殖系を乱すことで、正常に生まれないという新たなリスクを増加させるおそれ等の別のリスクがあるからだということのようです。それで、原告の研究によって明らかになった、ダイオキシンやベンゾ(a)ピレンの排出機構で起こりうる遺伝子の「過剰な発現」(私なりの表現)とか「活性酸素種の発生」っていうのは、生殖細胞や生殖器(周辺)の組織で特に影響が大きいということはあるのでしょうか?それが言えないと、上記の主張に説得力がないように思います。以下、「神経脳活動影響」や「性同一性障害」についても同じ。(性同一性障害の場合は、遺伝子レベルまで関係するのかなぁ?ホルモン受容体とホルモン様物質との関係だけだと思うんだが)

履修科目不足とか。

2006-10-29 22:23:45 | ものおもい
河北新報webサイトから。
http://www.kahoku.co.jp/news/2006/10/20061027t13026.htm

「この時期の補習痛い」受験生困惑 未履修、宮城でも
 大学入試まで3カ月を切った現役受験生に困惑が広がった。県内6校で26日に発覚した必修科目の履修不足問題。影響を受ける高校生は1800人に迫り、うち1000人以上が3年生。学校側は生徒に謝罪する一方、卒業に必要な授業の補習計画づくりに追われた。(中略)
 仙台三高は履修不足を補うため、3年生に補習を行い、2年生は本来の科目に戻す検討を始めた。「情報」の代わりに「数学」を教えることは県教委にも口頭で伝えたというが、高橋俊郎校長は「学校の認識が甘かった」と語った。
 県教委にうその授業計画を出してまで各校は受験対策に走った。学校側は「世の中が求める」(古川高の山本校長)、「需要がある以上、やむを得ない」(石巻好文館高の白旗宏喜校長)など苦渋の決断だったと強調する。
 佐沼高では、経済事情が厳しい家庭も少なくない中、塾や予備校に頼らない進学実績向上を目指す過程で履修不足が起きた。「情報や総合学習など新しい教科が増えた上に週5日制が導入され、受験科目の単位が減ってしまった」と、鈴木信也校長は背景を語る。
 県教委の黒川利司高校教育課長は県庁で記者会見し、「各校は生徒のためにやったのだろうが、結果的に迷惑を掛けた。本当に申し訳ない」とわびた。
2006年10月27日金曜日

 ありゃ、我が母校もでしたか。
 仙台三高は、理数科があり、早くから情報(パソコン)教育を取り入れていたはずです。
 でも、確か当初に導入していたのはマックだったはず。今はどうか知らないけど、もしマックのままだったら、将来、職業分野での利用に資する効果は余りないわね。
 (私は10年来のマカーですけどね)

 教育がらみでもう一題。同じく河北新報webサイトから。

 http://jyoho.kahoku.co.jp/member/backnum/news/2006/10/20061026t73014.htm
茶髪はふさわしくない…秋田経法大・方針に仙台市長共感
 「若者に茶髪はふさわしくない」。秋田経法大(秋田市)が学生の茶髪やピアスを禁止する方針を打ち出したことについて、梅原克彦仙台市長は25日の定例記者会見で、「大学を支持する」と賛同の姿勢を示した。
 梅原市長は「日本の若者には、ふさわしい身なりがあるはずだ。茶髪やピアスがふさわしい格好だとは思わない」と持論を展開した。
 罰則付きの要綱制定方針には批判もあるが、市長は「(大学側が)強制しなければ、ふさわしい格好ができないという現状が大変、嘆かわしい」と大学側に同情した。
 市長の「茶髪嫌い」は有名で、サッカーJ2ベガルタ仙台の試合後、選手の茶髪について苦言を呈したことも。市職員への服務規律通達でも「髪の色」に注意するよう求める項目を盛り込んだ経緯があり、大学の「茶髪禁止令」に共感を覚えたようだ。
 2006年10月26日木曜日

 記者会見の記録は仙台市HPで。

 梅原市長については、就任当時の発言をはじめ、色々思うところがあります。こういう記事を見ると尚更。
 他県の大学のことなのに、聞く方(記者)もどうかと思いますけどね。ふつーに感想を返すっていうのもなんだかなぁ。仙台市と関係ないじゃないか。
 ま、とにかく「ふさわしいのはなぜか」「ふさわしくないのはなぜか」をきちんと説明できないと、こういうのは説得力がないのではないかと。
 ちなみに、秋田経法大の方針に関する大学のセンセの感想はこちら→「大学教授の日常・非日常」茶髪やめたら一万円

まとまらないなりに。

2006-10-29 22:15:52 | ものおもい
(ケース1)
1 医師は職務専念義務のない公務員にする。
2 医療の平準化を図るべく公設病院を増やす。
3 そのことに伴う医療費の増大は目をつぶる。
4 財源は増税で賄うしかない。(多少はインフラ整備の抑制で出す)
  (付言すれば、増税は企業対象に行うべし。それが嫌なら企業は人件費を適正に支出すること)

(ケース2)
1 医療は原則として自由診療とする
2 死にたくなければ高額商品(高度医療)を買うべし
3 それが出来ないヒトはまあ死亡リスクが高くても仕方ないかな

(ケース3;これはちょっと違うか)
1 医師・医療現場の努力は認めてあげよう
2 ヒトの死は不条理なものであると認めよう
3 誠実な医療であったかどうかを判断できる目を養おう
4 医師・医療関係者はとことんクライアントと話し合おう
5 共通の問題意識に辿り着いたら、選挙で国政に反映させよう

 いまの日本は2を目指すのかな。そうして老齢人口を減らそうと・・・ガクガクブルブル
 まあ、日本の生産力(主に食糧)からすると、たぶんいまの人口は養えないから、減らなければいけないとは思います。それをどうするかが問題で、まさかハードランディングはまずいでしょう。政情不安にも直結する話ですし。

 ところで「在宅医療」というよりは、「自宅で死ぬ」ことについてですが、昨今の社会は、どうも「死ぬ」ということを、頭では分かっていても、実感していないのではないか?と感じています。
 「ゼロリスク」を求めるメンタリティがどこから来るかというと、「自分が死んでもよいと思わないうちは死なないのが当然だ」という考えでしょう。
 マスコミが、お手軽な「健康・長寿情報」を売りまくっているのも、こういった傾向を助長していると思います。
 ところで、在宅で介護している方が、ふと目を話したすきに呼吸器が外れたり、痰の吸引が遅れたり、薬剤の投与を間違ったり、転んだり、といった、偶然性により亡くなるリスクは、医療現場におけるそれよりも高いでしょう。
  医師や看護師に対してはそういったミスは許さないでしょうが、家庭で家族が行うなら、そこまで厳しくは責められないと思います(・・・だよね?まさかこういうのまで業務上過失致死に問われる世の中になったりして)

  厚生省の意図(医療費削減)とは別に、「在宅での死」しかも「十分なケアを受けられない状況での死」が増えれば、「死は不条理」であることを実感するヒトは増えるでしょう。
 そのことで、医療に対する過剰な期待はある程度減殺されるかもしれません。そもそも「死とはそんなものだ」ということに気づけば。
 これは「無常観」ですね。脳化社会とは対極だ。どうでしょう。戦争未経験世代が大半となって、「無常観」は受け入れられるでしょうか。

 最近のヒトは「仕方ない」が言えない、と感じています。日常の小さなリスクは、気づかない(か「フリをしている」か)でスルーしている。確率は低いが重大な(例えば死亡)リスクは、過敏に反応する。しかし、本当に大きなリスク(具体的には交通事故)は「知っているけど考えない」。で、「仕方ない」とは決して言わない。「誰も悪くない/問題自体が存在しない」か 「誰かが必ず悪い/問題はすべてソイツのせい」の二元論。
 世界はそんなに単純だったっけ?そのつど、立ち止まって考えなければと思うのです。「疑うこと」そのものについてさえ。(デカルトかな)
 むろん、「一度は疑う」とか「分かるように確認する」ことは、例えばニセ科学に騙されないためにはいいことです。しかし、いまの風潮は、「官、大企業、医師や弁護士といった権威・権力が、そうでない人に苦痛を強いている。都合の悪いことは隠し通す。騙されないぞ!痛い目にあわせてやる!」といった感じ。
 権力があったり、重大な責任を負うべしとされている職業のヒトが、厳しい目に晒されるのは当然ですが、何やら「粗探し」になってはいないか。

  奈良の件は、やはりどう考えても「患者を取り違えた」とか「鋏を腹の中に置き忘れた」とか「薬剤の量を1000倍間違えた」とか、そういうミスとは異なるでしょう。もっと言うと「誤診リスク」は、いのちを他のヒトに委ねる以上、受け容れざるをえないものではないでしょうか(むろん程度問題で、誤診を繰り返すような医師には退場していただく必要がありますが)。
 「完全」なんてないんですよ。たまたま、それに近いものが得られたら、「ラッキー」と思って、ささやかに喜びましょうよ。
 背伸びをするのを、そろそろ、やめましょうよ。
(まてよ、なんか為政者に都合のいいヒトを量産するような思想だな・・・もう少し考えてみるか)

昨日に引き続きこんなこと書くのも何ですが、あえて。

2006-10-18 23:35:08 | ものおもい
昨日の報道で大きく取り上げられていた件です。

妊婦死亡で事情聴取へ 奈良県警、医療ミス調べる(共同通信) - goo ニュース

 奈良県大淀町立大淀病院で妊婦が分娩(ぶんべん)中に意識不明の重体になり、移送を要請した病院から次々に断られた末、大阪府内の病院で死亡した問題で、奈良県警は18日、業務上過失致死の疑いもあるとみて大淀病院から事情を聴く方針を固めた。
大淀病院によると、今年8月8日未明、分娩のため入院していた高崎実香さん(32)=奈良県五条市=が頭痛を訴え、意識不明になった。分娩中のけいれんと判断し県立医大病院(同県橿原市)に受け入れを求めたが、満床を理由に断られた。医大病院が18カ所の病院に打診したが断られ、19カ所目の国立循環器病センター(大阪府吹田市)に転送されたのは午前6時ごろだった。高崎さんは脳内出血で約1週間後に死亡した。
大淀病院の内科医は脳の異常の可能性を指摘していたが、主治医はコンピューター断層撮影装置(CT)にかけなかったという。

(引用ここまで)

 医療現場の問題については、前々回の記事で取り上げました。
 今回の話は、参考にさせて頂いた新小児科医のつぶやき様の最近の記事で懸念されていたことが、非常に悪い形で顕在化した、と言えそうです。
 ところで、私は養老孟司を愛読していますが、『カミとヒトの解剖学』か何かで、以下のようなことが書かれていました。
「いずれ、病院でのヒトの死は全て医療過誤として扱われ、医師の責任が追求されるようになる」
 1990年代始め位の文章です。当時は皮肉めいた警句だったであろうこの言葉が、いよいよ現実化したのではないか、と思います。
 このニュースを耳にしたとき、「ああ、やはりそうか」という気持ちと共に、正直、「病院は何をやっているんだ」という憤りが、心に浮かびました。
 残された御主人とお子さん、その他の遺族の方々には、同情の念を禁じえません。
 それでも、と、私は考えます。
 この感じ方には、前提として、以下の二点があるように思います。
  1)日本人は原則として国内で平等の高度な医療サービスを当然に受けられる。
  2)上の例外として唯一「費用負担による差」が存在する。
 さて、2)はよいとして、1)は本当に成立しているでしょうか。私が考えるに「否」です。
 差、すなわち不平等は他にも存在する。それも決定的な。それは「偶然性」です。
 たまたま、搬送された病院が受け入れ態勢が整っていなかった。
 たまたま、当直医が経験の浅い専門外の医師だった
 たまたま、その医師が夜勤続きでひどく疲れていた
 たまたま、患者の方の容態が急変した・・・・
 (今回のケースのことではありません、念のため)
 実際には、医療現場といえど、これらの偶然性から逃れられるものではありません。
 私達は、いつしか、医師、ないしは医療サービスに「完全性」「無謬性」を前提してしまっているのではないか。しかし、そんなものは「始めからない」のではないか。
 昨日の記事とも重なりますが、「相手だけが一方的に悪い、だから、罰は重ければ重い程いい」という風潮につながるのは、こういった「完全性」「無謬性」神話、言い換えれば「ゼロリスク」神話を前提としてしまっていることが、理由の一つであるように思えます。食の安全安心ヒステリー(と今名付けた)にも繋がる事ですが。
 生死に関わることで、だからこそ免許を与えられ、責任が重大であるのが医師であることは事実です。 
 しかしまた、医師も患者と同じヒトであり、ミスを犯す可能性は十分にあること、それが同じヒトであり、ヒト同士の社会の実態であること、こういったことを忘却したり、棚上げしてはいけない。これでは、社会全体として不幸が増すだけではないかと、思えてなりません。
 残酷ですが、現実は、実に実に、理不尽なものです。
 悲劇の原因が明らかに個人の不誠実にあるなら、相応に責められて然るべきでしょうが、制度のまずさや、医師・看護師等の医療従事者の過酷な勤務実態のような背景的な要因は、決して無視出来ないし、しかもそれなりに知られた事実のはずです。これらのことも考慮したうえで、ものごとを判断するように私は努めたいし、努めてほしい。
 当事者の方にとってはほんとうに厳しい話なのですが、少なくとも、とくに外野(なかでもマスコミ)にむけて、このように思います。
 と同時に、我々は互いにもっと信頼関係を高められるように、無理を承知で何とかもがいてみるべきでしょう。
 このままでは、「”社会的”不安神経症」対策に高コストを投じる、無駄の多い社会で、ギスギスしながら暮らして行くしかありません。これは、良くない。
 ヒト社会では、過去、哲学や道徳が、あるいはより伝統的には宗教が、これらの問題を解決したり緩和したりしてきたのしょうが、現代日本ではこれがうまく機能していない。だから、一人一人が、もっと深謀遠慮しなければ、と思うのです。自分の幸福のために。


深謀遠慮を忘れていないか。

2006-10-17 22:36:39 | ものおもい
gooニュース:YOMIURI ONLINE-園児ら21人死傷、井沢容疑者を業過致死傷罪で起訴-

埼玉県川口市の市道で9月、散歩中の園児の列にワゴン車が突っ込み、園児ら21人が死傷した事故で、さいたま地検は16日、同県栗橋町南栗橋、運送業手伝い井沢英行容疑者(38)を業務上過失致死傷罪でさいたま地裁に起訴した。
 起訴状によると、井沢容疑者は9月25日午前9時55分ごろ、川口市戸塚東の市道で、左手で助手席にあった携帯型カセットプレーヤーを操作し、右手だけでハンドルを握り、脇見運転のまま時速50~55キロで走行。前方左側を歩いていた保育園児らの列に突っ込み、園児4人を死亡させ、17人に重軽傷を負わせた。

 遺族は、業務上過失致死傷罪よりも刑が重い危険運転致死傷罪での立件を求めていたが、さいたま地検の粂原研二・次席検事は「酒気帯び運転や速度超過などの事実は認定できず、危険運転致死傷罪での立件は困難」としている。
(引用ここまで)

 悲惨な事故であり、被害者・遺族の悲嘆は察するに余りあります。
 しかし「刑を重くしてほしい」という理由で「危険運転致死傷罪」での立件を求めるというのはどうか?と思います。
 上記記事その他の報道内容から、事故は脇見運転が原因とのこと。
 いずれにせよ、「過失」になります。

 どうも、最近の日本は、刑罰を「結果主義」で見る風潮が蔓延っているような気がします。
 日本の刑法は動機重視です。たとえば5人死なせた(殺した)として、「誤って死なせてしまった」のか「殺そうとしていた」のかで刑罰の重さは違います。大抵のヒトは、このことが不自然だとは思わないでしょう。
 今回の件も、その悲惨さ、家族の悲しみは十分理解できます。しかし、こう考える余地もありはしないか。
 交通事故による業務上過失致死傷罪は、運転をするヒトならだれでも加害者になる可能性があります。そういうことも前提で刑の重さが決められている筈です。
 自分が同じことをして罪に問われた場合、その量刑は妥当だと思うか?という観点が抜けているような気がします。
 だから、単純に重罰化を望むような最近の風潮には、違和感を覚えます。
 重罰は、「罪を犯したあいつ」にだけ課せられるのではありません。そう言う本人にもそれが課される可能性は、常にあるのです。社会とはそういうものです。
 
 少し、自分と他者(特に悪いことをしたヒト)との間が隔絶していると思いすぎではないか?と感じています。
 
 
 最近だと、飲酒運転が大きな社会問題としてクローズアップされました。
 私は酒を全く飲まない(かなり弱い)し、飲んで具合が悪くなることはあっても、楽しくなったことはありません。
 また、率直に言って「酔ったヒト」というのは大抵、迷惑なものだと感じます。
 (ほろ酔い程度で楽しく会話できるなら全然OKですし、親しいヒトなら管を巻かれてもまあ大丈夫ですが、それも程度問題。)
 昨今は付き合いの場でも無理に飲酒を勧められる場面はありませんから、まあ、私が飲酒運転をすることはない。
 そんな私からすれば、飲酒自体を禁じてもらったって一向に構いません。
 でも、いくら飲酒運転が社会問題化しているとはいえ、「禁酒法」を望むヒトはそう多くないでしょう。
 それは「禁酒」となれば即わが身に降りかかることが想像できるからではないか?
 同じことは上記の事故についても言えるはずです。

 逆にいうと、クルマに起因するヒトの死について、一般的に厳罰化の意向が強まるのなら、まあ分かります。
 ただ、そのときは、運転免許の敷居をもっと高くする必要があるということになります。(実際やるとなれば、自動車業界の猛反発があり事実上不可能と思われますが)
 そういったコトを考えないか、あるいは表明されないというのは、「深謀遠慮が足りない」ように、私には見えます。

(追記)
コメント&トラックバックを頂いた「裁判所書記官だってしゃべりたい」の書記官様が、この件に関する正確かつ分かりやすい記事を書かれています。是非、トラックバック先の記事を御一読下さい。

医療制度/行く先は闇か

2006-10-12 22:03:34 | ものおもい
NATROMさん経由で以下の記事。

新小児科医のつぶやき-厚労官僚は50年前がお好き-
父を亡くしてまもなく1年になります。
父は、生活習慣病に起因する急性発作で数度の入院を繰り返した後、肝不全で逝きました。
最後の入院の際、「改善の見込はないが、療養型の入院はできないので、対症療法で症状が改善したら退院。おおむね1ヶ月後くらい」と言われていました。
我が家は共稼ぎ、兄は独身で当然働いており、父が退院しても介護できる人は居ないわけです。いくら当人が身の回りのこと位できる状態で退院したとしても、発作やらで倒れたらそのまま死んでしまいます。
病院にそのことを訴え、ソーシャルワーカーさんを通じて転院の打診をしてもらいましたが、やはり改善の見込の無い患者はダメということらしく、「疾病状態から設備不適合」として拒否されました。
父の居宅は家賃が払えないので解約となり、戻る家もありません。仕方が無いので「家具つきアパートでも借りるしかないか」等と思案していました。
(それぞれ、同居は出来ない事情がありました)
最初の1~2週間は症状が安定していた父ですが、その間、家族への隠し事が露見したことや、信頼していた友人から背信的な行為を受けたこと等がショックだったのでしょうか、或いはもう身体が持たなかったのでしょうか、その後、急速に衰弱が進み、担当医の述べた1ヶ月を経過しようという日に、亡くなりました。
結果的に、介護労働力の不在問題は杞憂に終わった形になります。
さて、リンク先の記事は、私が直面した問題をさらに過酷にするものです。そして、いまは健在な親について、いずれ同じ問題が生じます。

>「自宅で死んでもらう」為には無償の家族の負担を暗黙のうちに要求している事になります。誰かが仕事をやめて介護につかなければならないと言う事です。
>はたして厚労省は療養病床をなくして「自宅で死んでもらう」事による経済効果をどのように試算しているのでしょうか。厚労官僚の頭の中の算盤は社会福祉予算の額しかないようです。

まあこの通りでしょう。でも、何時の世でも為政者というのはそんなものかもしれません。結局、限られた資源をどのように国民に配分するかということですから、国としては国民への医療サービス「も」低下させるというだけの話なのでしょう。
そして、家族構成が変化した現在では、在宅介護又は療養に割ける無償の労働力はない。無理やり作れば、収入は減る。
どうなるか。はっきり言うと、親殺し、配偶者殺し(ネグレクトによるもの含む)が激増すると思います。
あ、リンク先では負の経済効果に触れていましたね。それについても一言。
人件費ゼロ化の風潮といい、国民を疲弊させる医療費削減策といい、いまの日本は国富をすり減らすことしか考えていないように思えます。
国は企業利益の回復・成長により、経済好循環が始まると考え、実際そのようになっていると思っているようですが、企業及び資本家は国際化し、企業の業績回復による経済波及効果は国内にうまく回らない。企業・資本家もそんなことに関心はない。
だから、規制の再強化しかない。いつかはそれをすることになる。もう、やってもいいのではないか?というのが私の持論。

奈良女児殺害事件 被告人の死刑確定

2006-10-12 22:00:16 | Weblog
遅まきながら。
まずは以下のリンク先をごらん下さい。

ライブドアニュース(毎日新聞)

これを見ると、被告人は、いったん犯罪動機の形成過程について再度真実を述べたらどうか、という弁護士の勧めに応じる意思を示したものの、結局それを撤回して、当初の意向どおり死刑を望んだ、ということになります。

被告人のいう「(控訴すれば)命を惜しんだと思われる。何を言っても無駄」という発言が本心だとすれば(余り策を弄するタイプにも思えないので本心だとは思うが)、意外と自分への社会的評価を気にしているということが分かる。
他方、やはり「自分」にしか関心がないのか、とも思えるわけで、被害者への謝罪の気持ちを期待する向きには受け入れ難いことも事実だろう。

まあ、よく考えれば、被害者の写真を携帯に送って脅迫するなどの行為も、加害者-被害者間の関係以外の社会関係を意識していたことの証左だから、特に驚くべきことではないのかも知れない。

そして、死刑を望んでも、それを受け入れても、あるいはただ自殺しても、もしくは本心から謝罪し後悔しても、何をしても、社会はそれを受け入れることはない。それが、やったことの結果。

ひょっとして、被告人にとっては、今回の犯罪を行う前から、社会というのはそういうもの(自分を受け入れない)だと思っていたのかも知れないが、少なくともそれは違う。
犯罪を行う前と後では「受け入れられなさ」に質の差があるはずだ。
でも、こういう人間はそのことには気づかないのかも知れない。
一部には「人格形成のゆがみは虐待やいじめの結果だ」という主張もあるようだが、そういったことも含めて、成人については個人の責任とするしかない。現代の日本社会(および現代社会の多く)はそのように成り立っている。
(「ヒトには本当に自由意志があるか?」という問題。興味のある方はカント「実践理性批判」を読まれたし)

極論

2006-10-03 20:56:59 | ものおもい
昔から極論ばかり言って失笑を買ったりしていました。
10年くらい前に考えていた極論をひとつ。

「善行は、それが誰にも善行と知られないような行動でなければならない」

この場合の善行とは、字義通り「善き行い」ですが、同時に、「よこしまな動機でない」ことを含む、と考えています。
「純粋に利他的な行動」とも言えるでしょう。
なんでこんなことを考えたのかというと、自分が「善行」だと思ってしていることについて、自己満足したり自己肯定したりというのは、私には不純な動機であると感ぜられるのですよ。「なんだ、美辞麗句で飾って、けっきょく自分のためじゃん!」って。これを避けるにはどうしたらいいか?と考えてみたわけです。

さて、ヒトが善行をする場合に、「純粋に利他的」であることは可能か?というと、おそらく不可能でしょう。
善行をする場合に、「私は善行をしている」とか「ヒトの役に立っている」と考えることで生ずる、自己満足や自己肯定感に伴う幸福感を排除するのは無理でしょうから。

では、逆に「これが善い行いでヒトのためになるのは分かるが、こんなことやってらんない!」という場合はどうか?
私が考えるに、これの方がまだ純粋な利他性に近く、よって善行に近い。しかし、嫌々ながら行われた善行は、質が低くなるでしょう。
また、「心底いやだと思った行為をする」という状況が、「強制」以外に思いつきませんので、これはまた「より苦痛な状況を避けるため」の「利己的」行為となってしまう。あるいは、強制でないとすれば、動機としては逆なのに善行を自らの意思で行っていることになり、やはり想像できない。

じゃあ、「本人も他人もそれと気づかなかったが実は善行だった」というのはどうか?(これが冒頭に掲げた定義)
しかし、ある行動を善か否かを判断するヒトがだれもいない場合の行動をどうやって「善行」と定義するのだ?というパラドックスが生じます。

ということで、すなわち、私の定義における「善行」は、少なくともヒトのレベルでは(ヒト以外のレベルがあるのかよ?というツッコミはさておき)存在しない、ということになります。
だから、ヒトは自分の行動がつねに利己的でしかないという原罪意識を持って行動すべし、という結論になる。
(むろん、「どうせ利己的なんだから他人なんかお構いなしで好き勝手ヤレー!」とはならない・・・んだけど、これも要は、「他人がイヤな思いをしているのが自分に分かるのがイヤ」という利己性の成せる業、というのがなんともはや。)

ああ、オレってネガティブでイヤな奴だ。
あるいは自虐、Mか。(何だこのオチ)