事件の概要は省略します。すみません。なお、併せて「中西応援団」の原告提出書類「準備書面(4)」と「甲22号証(陳述書)」も目を通して頂けると助かります。(長いですけどね・・・。)
さて、今回の人証では、主に「本件で名誉毀損が法的にどのように成立するのか」を説明、証明するものと思っていたのですが、原告が最も時間を費やしたのは、当日のプレゼンのやり直しだったようです。(中西応援団の掲示板や、kkyamasitaさんの日記を参照)
まさか尋問の時間を使ってプレゼンのやり直しをするとは。本当に予想外でした。原告は法理の部分には本当に関心がないようです。
なんでこんなことをするのか?すぐには理解できなかったのですが、以下のように考えているのなら、まあ理解できなくもない、と思い至りました。
まず、原告は自分が「研究者として、批判すらされるいわれがない」と思っているということ。
そして、「自分が批判されるいわれのない人物だ」ということを示すには、自分の研究内容を説明することが有効であると信じている。
なぜなら、自分の研究は学問的に正当な手続きに則って行われており、その着眼点、および成果の両方が、学問的にも社会的にも注目に値するものだから。
そのことは、研究内容を説明すれば分かってくれるはずだ。専門家なら当然分かるだろうし、専門外でも理系の学者なら相当程度分かるだろう。全くの素人だって、これだけテクニカルタームを駆使して再三説明すれば「すごいことをやっているんだ」という位はわかるだろう。
そして、自分の研究成果が分かってもらえたなら、「批判を受けるような人物ではない」のだから、被告のいう「批判」というのはすなわち「批判に名を借りた中傷」にほかならないことも分かってもらえるだろう。
こう考えれば、なぜ学問的成果の説明にこれほどこだわるのかが分かります。そこに、ひとかどの人物たる自信と誇りを持っている、ということなんですね。
無論、研究成果が立派だ、だから批判は中傷の隠れ蓑だ、というのは飛躍というものです。そこで原告は、この論理を補強するために、ようやく「名誉毀損が成立する論理」を明示することにしたようです(実はこっちの方が重要)。これについては、以前別の場所で(こっそり)書いた予想が当たっていたようで、つまりは「環境ホルモンは終わった」が、事実摘示の主要部分ということ。
これは良く分かります。問題となった中西雑感の記載された字句で、原告の信用が失墜するならば、それは原告が何度も説明している「環境ホルモン重要派」対「環境ホルモンから騒ぎ派」の対立構造があるとした場合に(あるかどうかは異論もあるようです。hetareDさんの日記参照)限られる。すなわち、原告が前者から後者に「宗旨替え」(という表現を原告が使っています)したと誤解させるものだということで、「原告の属する派閥内での信用」が失墜したから(派閥意識が強い人なら、このことにがっかりするのはありそうなことです)名誉毀損になる、ということ以外にはありえない。
ここまできて、ようやくこの論理を明示しました。
まあ、名誉毀損が成立するのはこの「派閥内」という部分社会にしかない、というのは、事前に予想できたことですから、驚くことではありません。しかし、これは逆にいうと、原告が想定しているのは「派閥内社会」のことでしかないことを認めたことになりますよね。つまり、「広く一般社会(派閥外含)の価値観からして名誉が毀損された」とは認められない、ってことになりはしないか。実際そうだとは思いますけど。原告がそれを認めた形になると、だいぶ「損害」が矮小化すると思うのですが、いいのかな。いいのか。
そして、あえて意地悪に言って申し訳ないのですが、派閥内では「宗旨替え」と捉えられることが信用失墜につながるのは分かるとしても、研究者の問題意識として「次のチャレンジはナノ」と考えたことの「目の付け所」自体はいいと思うんですよね。だったら、研究者なんだから、「派閥」なんて気にしないで、研究テーマを堂々と変えて構わない、むしろそうすべきだと思うのですが。それを「派閥」にこだわり、そこに留まっていることを声高に主張するというのは、「派閥外」の論理からすれば、逆に「この人は学問の成果を客観的・冷静に受け止められる人だろうか」という点で疑問を感じざるを得ないのです。
「派閥にこだわる」というのは、研究の中身よりも、そこにまつわるヒトやカネにこだわっている=他者への影響力を維持したい、と私には見えてしまう。
つまり、名誉毀損裁判で「部分社会での信用失墜だ」なんて言ってしまうことが、「研究成果・客観的データよりも部分社会内の信用の方が大事だと思う学者ってどうなのよ」という感想を招きかねない。というか私はそう思ってしまいます。
いや、一般的に考えても部分社会内(例えば会社内)とかの信用とか評価は大事でしょう、といわれれば確かにそうですが、「派閥性」にこだわればこだわるほど、「学問」としてのありようからは遠のいていくような気がしてなりません。そのことは、逆に「派閥外」からの「学者」としての評判に影響しないか?と、いささかの老婆心。
それと、もうひとつ、はっきりいうと呆れたのが「発表はスタイルだから、批判するものではないし、スタイルの批判は研究内容と関係ないから学問上の批判に当たらない」という主張。これはすごく時代遅れ。研究内容や成果を社会にわかりやすく提示し、もって社会の発展に資すると同時に、社会から研究継続を認めてもらおうと努力することの重要性なんて、今や研究者の常識だ、位に思っていたのですが。これって斟酌するに「研究テーマとか内容それ自体が重要性を語るから、表現方法は重要でない」と思っているということですよね。しかし、そういうことを言っている(ように私には見える)研究者が、細々と自分のテーマにのみ向き合って孤独な研究をしているというならともかく、多くの科研費予算を取り、300人が関わる研究を成し遂げたことを誇るというのは、矛盾とは言わないまでも一致しないことは確かです。科研費を取るための申請だってプレゼンと同じでしょうに。
まあ、ここは本当は「プレゼンだってヘタなはずはない」と言いたいところを、敢えて慎んだのでしょうかね。
それにしても、上記は(陳述書にあるのですが)、原告準備書面(4)の
>また、仮に本当に原告のプレゼンテーションの仕方に問題があったというのであれば、それに対する本来の学問的批判は甘んじて受けるつもりである。
というのとは矛盾しているような気が。
陳述書から予想するに、原告が想定している「学問的批判」は、どうやら「私の研究では、AhRはインディルビンを排出するためにあるのではなく、○○を排出するためのものだ」とか、そういうことに限られるようです。・・・って自分の土俵でしか勝負しないってこと?いや、逆に中西応援団の掲示板とか、chem@uさん、グレガリナさんの指摘は「学問的な批判」になりますよね。これはいいのか、な?
ということで、まったくの素人の私もひとつ。原告の主張には、被告の「リスク管理」論を批判して「内分泌かく乱物質は、死亡だけをリスク指標とできないから難しく、かつ恐ろしい」旨の記述があるのですが、その理由は、生殖系を乱すことで、正常に生まれないという新たなリスクを増加させるおそれ等の別のリスクがあるからだということのようです。それで、原告の研究によって明らかになった、ダイオキシンやベンゾ(a)ピレンの排出機構で起こりうる遺伝子の「過剰な発現」(私なりの表現)とか「活性酸素種の発生」っていうのは、生殖細胞や生殖器(周辺)の組織で特に影響が大きいということはあるのでしょうか?それが言えないと、上記の主張に説得力がないように思います。以下、「神経脳活動影響」や「性同一性障害」についても同じ。(性同一性障害の場合は、遺伝子レベルまで関係するのかなぁ?ホルモン受容体とホルモン様物質との関係だけだと思うんだが)
さて、今回の人証では、主に「本件で名誉毀損が法的にどのように成立するのか」を説明、証明するものと思っていたのですが、原告が最も時間を費やしたのは、当日のプレゼンのやり直しだったようです。(中西応援団の掲示板や、kkyamasitaさんの日記を参照)
まさか尋問の時間を使ってプレゼンのやり直しをするとは。本当に予想外でした。原告は法理の部分には本当に関心がないようです。
なんでこんなことをするのか?すぐには理解できなかったのですが、以下のように考えているのなら、まあ理解できなくもない、と思い至りました。
まず、原告は自分が「研究者として、批判すらされるいわれがない」と思っているということ。
そして、「自分が批判されるいわれのない人物だ」ということを示すには、自分の研究内容を説明することが有効であると信じている。
なぜなら、自分の研究は学問的に正当な手続きに則って行われており、その着眼点、および成果の両方が、学問的にも社会的にも注目に値するものだから。
そのことは、研究内容を説明すれば分かってくれるはずだ。専門家なら当然分かるだろうし、専門外でも理系の学者なら相当程度分かるだろう。全くの素人だって、これだけテクニカルタームを駆使して再三説明すれば「すごいことをやっているんだ」という位はわかるだろう。
そして、自分の研究成果が分かってもらえたなら、「批判を受けるような人物ではない」のだから、被告のいう「批判」というのはすなわち「批判に名を借りた中傷」にほかならないことも分かってもらえるだろう。
こう考えれば、なぜ学問的成果の説明にこれほどこだわるのかが分かります。そこに、ひとかどの人物たる自信と誇りを持っている、ということなんですね。
無論、研究成果が立派だ、だから批判は中傷の隠れ蓑だ、というのは飛躍というものです。そこで原告は、この論理を補強するために、ようやく「名誉毀損が成立する論理」を明示することにしたようです(実はこっちの方が重要)。これについては、以前別の場所で(こっそり)書いた予想が当たっていたようで、つまりは「環境ホルモンは終わった」が、事実摘示の主要部分ということ。
これは良く分かります。問題となった中西雑感の記載された字句で、原告の信用が失墜するならば、それは原告が何度も説明している「環境ホルモン重要派」対「環境ホルモンから騒ぎ派」の対立構造があるとした場合に(あるかどうかは異論もあるようです。hetareDさんの日記参照)限られる。すなわち、原告が前者から後者に「宗旨替え」(という表現を原告が使っています)したと誤解させるものだということで、「原告の属する派閥内での信用」が失墜したから(派閥意識が強い人なら、このことにがっかりするのはありそうなことです)名誉毀損になる、ということ以外にはありえない。
ここまできて、ようやくこの論理を明示しました。
まあ、名誉毀損が成立するのはこの「派閥内」という部分社会にしかない、というのは、事前に予想できたことですから、驚くことではありません。しかし、これは逆にいうと、原告が想定しているのは「派閥内社会」のことでしかないことを認めたことになりますよね。つまり、「広く一般社会(派閥外含)の価値観からして名誉が毀損された」とは認められない、ってことになりはしないか。実際そうだとは思いますけど。原告がそれを認めた形になると、だいぶ「損害」が矮小化すると思うのですが、いいのかな。いいのか。
そして、あえて意地悪に言って申し訳ないのですが、派閥内では「宗旨替え」と捉えられることが信用失墜につながるのは分かるとしても、研究者の問題意識として「次のチャレンジはナノ」と考えたことの「目の付け所」自体はいいと思うんですよね。だったら、研究者なんだから、「派閥」なんて気にしないで、研究テーマを堂々と変えて構わない、むしろそうすべきだと思うのですが。それを「派閥」にこだわり、そこに留まっていることを声高に主張するというのは、「派閥外」の論理からすれば、逆に「この人は学問の成果を客観的・冷静に受け止められる人だろうか」という点で疑問を感じざるを得ないのです。
「派閥にこだわる」というのは、研究の中身よりも、そこにまつわるヒトやカネにこだわっている=他者への影響力を維持したい、と私には見えてしまう。
つまり、名誉毀損裁判で「部分社会での信用失墜だ」なんて言ってしまうことが、「研究成果・客観的データよりも部分社会内の信用の方が大事だと思う学者ってどうなのよ」という感想を招きかねない。というか私はそう思ってしまいます。
いや、一般的に考えても部分社会内(例えば会社内)とかの信用とか評価は大事でしょう、といわれれば確かにそうですが、「派閥性」にこだわればこだわるほど、「学問」としてのありようからは遠のいていくような気がしてなりません。そのことは、逆に「派閥外」からの「学者」としての評判に影響しないか?と、いささかの老婆心。
それと、もうひとつ、はっきりいうと呆れたのが「発表はスタイルだから、批判するものではないし、スタイルの批判は研究内容と関係ないから学問上の批判に当たらない」という主張。これはすごく時代遅れ。研究内容や成果を社会にわかりやすく提示し、もって社会の発展に資すると同時に、社会から研究継続を認めてもらおうと努力することの重要性なんて、今や研究者の常識だ、位に思っていたのですが。これって斟酌するに「研究テーマとか内容それ自体が重要性を語るから、表現方法は重要でない」と思っているということですよね。しかし、そういうことを言っている(ように私には見える)研究者が、細々と自分のテーマにのみ向き合って孤独な研究をしているというならともかく、多くの科研費予算を取り、300人が関わる研究を成し遂げたことを誇るというのは、矛盾とは言わないまでも一致しないことは確かです。科研費を取るための申請だってプレゼンと同じでしょうに。
まあ、ここは本当は「プレゼンだってヘタなはずはない」と言いたいところを、敢えて慎んだのでしょうかね。
それにしても、上記は(陳述書にあるのですが)、原告準備書面(4)の
>また、仮に本当に原告のプレゼンテーションの仕方に問題があったというのであれば、それに対する本来の学問的批判は甘んじて受けるつもりである。
というのとは矛盾しているような気が。
陳述書から予想するに、原告が想定している「学問的批判」は、どうやら「私の研究では、AhRはインディルビンを排出するためにあるのではなく、○○を排出するためのものだ」とか、そういうことに限られるようです。・・・って自分の土俵でしか勝負しないってこと?いや、逆に中西応援団の掲示板とか、chem@uさん、グレガリナさんの指摘は「学問的な批判」になりますよね。これはいいのか、な?
ということで、まったくの素人の私もひとつ。原告の主張には、被告の「リスク管理」論を批判して「内分泌かく乱物質は、死亡だけをリスク指標とできないから難しく、かつ恐ろしい」旨の記述があるのですが、その理由は、生殖系を乱すことで、正常に生まれないという新たなリスクを増加させるおそれ等の別のリスクがあるからだということのようです。それで、原告の研究によって明らかになった、ダイオキシンやベンゾ(a)ピレンの排出機構で起こりうる遺伝子の「過剰な発現」(私なりの表現)とか「活性酸素種の発生」っていうのは、生殖細胞や生殖器(周辺)の組織で特に影響が大きいということはあるのでしょうか?それが言えないと、上記の主張に説得力がないように思います。以下、「神経脳活動影響」や「性同一性障害」についても同じ。(性同一性障害の場合は、遺伝子レベルまで関係するのかなぁ?ホルモン受容体とホルモン様物質との関係だけだと思うんだが)