昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

訃報

2025-01-17 22:40:00 | Weblog
https://blog.goo.ne.jp/tokisaka006/e/49c208800ba078396d7193a96fac8ca0
上記記事で取り上げた新川博氏が亡くなったとのこと。
私が好きだったシティポップの多くをアレンジしていた方である。
誠に残念でならない。
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旧友との対話

2025-01-01 19:44:02 | Weblog
 昨年、旧友と久々にメールをした。その契機が恩師の死去というのが寂しい限りであるが、旧友が思いのほか来仙し研究室や当時メンバーとの交流を保っていたのを知り、いささかうらやましくもあった。
 メールの内容はほとんどが愚痴になってしまったが、彼我の違いみたいなことを知るという点においては彼にも利があったと信じる。 コミュ強の彼とコミュ障の私とでは社会人としての立ち振る舞いや感じ方において大きく差があることはよく考えればわかることである。そうでなくとも私は極論の人間であるから、公務員のように公という看板を背負う職業に対しては、当然のこととして清廉さを、そして更に価値を上げるためには自己犠牲を求める。もとより、人は正義であろうとすれば自己犠牲をせぬわけにはいかぬのであるというのが私の価値観の一つである。正義は利他性にあり、しかも絶対的な利他性が求められる。なぜなら、ある行為に自己の利益ないし満足が含まれるのであれば、それは言葉の定義上利己的な行為でしかありえないからである。利己的な行為は当たり前のものであり、そこに価値、特に倫理的美的な価値はない。

 こうした考察から考えられる絶対的利他行為というのは、ある行為がひどく自分の尊厳を傷つけ、あるいは肉体的苦痛に満ち、とうていそうしたことが我慢ならないという感情のもとで行われた行為が利他的である場合に限られる。そして、その行為が利他的であったということが当の行為者に認知された場合は「某々の役に立ったのだから仕方ない」といった自己満足感情を惹起させうるものであるため、当該行為が利他性を含むものであったことは、少なくとも当人が死亡するまでは知られてはならない。

 つまり絶対的利他的行為というものは、当該個人にとっては終わりなき絶望と苦痛のもとで行われるものでなければならず、そのこと自体に救いを求めるような倒錯的感情も許さぬ類のものである。
 なお、旧約聖書ヨブ記の内容は、すなわちこうした状況をこそ正義と洞察していると解される。

 閑話休題。私は公務員がまっとうに職業を行う上では、基本的にこうした自己犠牲を求める。それがないのであれば、公務員としては利己的行為しかなしえない、その癖に公権力を他者に行使するという、いわば「特権」を、また同時には理不尽なことを他者に強制するという「罰」を与えられているという自覚をすべきだと考えている。つまり、公務員である以上、絶対に、絶対にだ、自分は偉いのだ、他者よりも価値が高い人間だ、などと考えてはならぬのである。公務員組織において階級が上になるほど、その責任の重圧に常に押しつぶされそうになり、吐きそうになりながら日々の仕事を行うほかない。そういうあり方ができない人は、公務員という職業において組織の上に立つ資格はない。
 
 これは首長や議員については一層そうである。彼らは選挙で選ばれた以上、その任期中は粉骨砕身、無私の働きをせねばならない。それが宿命である。とはいえ、どうせ我々人間にできることは限られ、いくばくかの幸せや私事や満足や利益(議員報酬のこと)がなければ務まらないことは十分承知の上で、やる以上は、そして期間限定である以上は、そこを目指すべきなのである。公務員たるもの高潔たるべし、あるいは自らが高潔でいられないことを十分自覚し、恥じて後悔し生きるべし、である。
 つまり、どのみち公務員という職業を誠実に行おうとすれば、そこには果てしない苦痛しかない。そういうことを受け入れないのであれば、法の範囲内で私的利益を充足し糊口を凌ぐこと、つまり非公務を職業として選択すべきである。

 私のこうした極端な価値観は、彼には理解できても共感はできないらしい。残念である。ただ、よく考えればやむを得ない。おそらくほとんどの人はそんな風に公務員という職業を捉えてはいない。しからば他者との共感性が高い人ほど、かような独自の価値観に共感はすまい。
 しかし、論旨に矛盾がない以上、究極純粋にはそういうものであるべきだし、そうなるものである。思考を突き詰め、物事をとことんまで純化せよ。公務員という職業の本性を十分に自覚せよ。そのうえで、耐えられないのであれば己の弱さ愚かさ無価値さを認め、恥じて務めよ。

 そういう価値観では仕事ができない。人間的でない。当然そうした意見が出ることは理解する。しかし、そうであれば、転職をすべきである。「公」なる概念の束縛は、呪いにも似てかように恐ろしいものであるのだから。

 逆にいえば、群れずに個として生きれば、公という概念に向き合う必要はなくなり、こうした呪いとは無縁でありうる。だから私は個であること、孤独であることを好む。かつ、そういう私から見ると、かなり多くの公務員は、恥知らずであると見えてしまう。換言すれば美しくない。そして、ヒトである以上、真善美の価値を有するのだから、こうした在りようが美しくないことの自覚くらいは最低限持つべきではなかろうか。
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決定論と確率論、認識と実在

2025-01-01 19:32:54 | Weblog
 今日では量子力学により、物質は究極的には確率的存在であると理解されるようになっている。すなわち、古典的決定論(初期値が決まれば以後の物質の運動はすべて物理法則に従うことから、自由の生じる余地はない)は後退している。他方、概略的ではあるが、日常生活レベル・マクロレベルでは多くの事物は決定論的に振舞っているように見える(例えば、確率的に不可能ではないにしても、リンゴをつかもうとする我が手がリンゴをすりぬけてしまい目的を達しないといったことは観察されない)。このことは、確率的に振舞う微粒子がおびただしい数介在することによって、全体としてほとんど決定論的に「見える」という形で説明されることが多いかと思う。
 ただし、決定論的に「見える」というのはヒトの認識であることに留意する必要がある。そもそも我々は、世界に存在するものすべてを認知する能力があるのだろうか?(プラトンのイデア論を想起せよ)
 少なくとも、現時点で我々が認識しているもの―それがクォークであれ超ひもであれ―が世界の存在すべてに該当するならば、答えはイエスであろう。しかし、これはおそらく答えのない問いである。

 個人的には、世界にはもっと混沌とした現象が起きている可能性を考えたい。すなわち因果関係が不明確、又は全くないような事象というものも、ミクロレベルの確率論的な振る舞いに限らず、マクロレベルでも現に起こっていると考えている。ただし、我々ヒトという生物は、そうした現象を知覚する可能性はあっても、ほとんど「認識」しないだろう。なぜなら、こうした偶然的な、換言すれば因果律に則しない現象を知覚したところで、そうした知覚と、その知覚に続いて起こる認識は、そうした知覚ないし認識に基づいて将来の行動を変更するという回路を生成した場合は、そうでない場合に比べ、将来の行動を変更するかどうかといった思惟判断に係る余分なエネルギーを使うことになり、その分、のちの生存に不利に働くと考えられるからである。反対に言えば、完全に偶然的な、因果律に基づかない現象については、たとえ知覚されることがあっても、それを認識のレベルに届かないようシャットアウトする仕組みがあった方が(こうした仕組みは蓋然的でよく、かつ、進化の過程で改良されていき、今に至ると考える)、よほど生存には有利であろう。こうして、世界には実は因果律から逸脱した現象がいくらでも存在するのだが、我々の認識にはほとんど上らないのだ、といった説明は有効と考えられる。

 きわめて雑駁な議論をすれば、幽霊を見るという体験は、幽霊の存在を物理的・因果律的に実証することはない。ただし、偶然、あるヒトに「現にそこに居ないヒトで、すでに死んでおり、以前は確かに存在したヒトの姿が見える」という事象が起きることは排除されない。そして、それが複数のヒトに同時に、あるいは異時的に起こることも排除されない。ただ、そうした「単なる意味のない偶然」の情報は、蓋然性が大局的に支配するこの世界で生きる生命にとってほとんど無意味であるため、存在するかどうかを検証するに値しないのである。かくして、ヒトにおいては、因果律に基づかない事象はほとんど認識されないのだ、と考える方が自然である。
 まとめると、この世のほぼすべての事象は「ヒトの認識の中では」概ね因果律に基づいており、ミクロ的には確率論がそれを支える。しかし、ヒトの認識という制約の外までを考慮に入れた場合、世界には因果律に基づかない事象もそれなりに起こっており、そのほとんどはミクロレベルであるが、マクロレベルの事象も存外多く、ただし、それらは生物進化の結果として認識されようがないのだと結論する。
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メランコリー、苦痛、鬱の存在と宗教的な救い

2025-01-01 19:31:32 | Weblog
 将来を憂う気質は保存されやすい。これはミームというよりも遺伝子における適応と考えられる。将来に関して楽観的で、特に対策を講ずることのないと考えがちなヒト個体は、おそらくそうでないヒト個体よりも生存確率が低くなる。より直接的には、ある事態に対する負の感情が多く存在するほど、その個体は不快を忌避し、自己防衛的な行動を取り、生存確率が高まるであろう。よって、仏教的な四苦八苦の思想や、キリスト教などでいう「原罪」のように、「生にはなぜ苦痛が付きまとうのか」という、古来繰り返されてきた問いの答えは実に簡単である。苦痛を多く感じる個体のほうが生存確率が高く、その苦痛感情がヒトの場合には「自殺をするかしないかギリギリ」の個体が、最も生存確率が高いと考えられるからである。ただし、苦痛とその回避という一連の行動については、相当のストレスが生じ、このストレス自体が身体を弱らせるという側面も認められるため、ヒトにおいては、苦痛をより強く感じる遺伝子と、個体の身体の強靭さとのバランスが最適となる点が、苦痛の感度に関する進化の極致と考えられる。

 宗教における「救い」が、原罪のような極めてペシミティブな価値観を前提としていることの理由も同じである。この世に生きることの苦痛が前提にならない、すなわちより楽観的な世界観に馴染みを覚える個体の生存可能性は一般的に低くなる。したがって、自然淘汰の結果として、生物たるヒトの関心は相当量の苦痛を前提とせざるを得ない。こうした、ヒトにおいて生と一体化する苦痛について形而上学的な意味を付与するような宗教的ミームは、強い苦痛との共存をすすめる上で、ヒト集団の存続に優位に働いたであろう。
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宗教の生物学的基礎

2025-01-01 19:30:33 | Weblog
表題のようなものがあるだろうと考えて研究を始めたが、ピダハンの発見によりどうやらそうではないと考えるようになった。宗教には言語ほどの普遍性はなく、従って強固な生物学的基礎もなさそうである。

さて、宗教は神秘体験や夢と不可分になっていることが多い。神秘体験のうち、特に体外離脱体験は、死後の世界という不可視の世界に関する観念を想起させやすい。この現象は世界中で報告されていることから、体外離脱体験には生物学的基礎がありそうである。これに生物学的基礎があるとすれば、臨死体験は生物進化の過程で人類に備わってきた、すなわち生存に有利だったということになろうと考える。しかし、死に際に体外離脱するというような体験、ましてやその際に幸福感に包まれるというような体験は、進化の上で選択されうるだろうか?体外離脱体験は、死への恐怖を和らげる効果をどうやら持ちそうではあるが、死に際するそうした効果を持つこと自体は、個体の生存に対して特段の優位性をもたらさないであろう。では、体外離脱体験は進化において中立的だったのか?すなわち現生人類において偶然に残ったものなのか?もしそうでないなら、体外離脱体験はむしろ死後の世界を肯定する証拠そのものではないのか?

こうした私的疑問は、ミーム論によっておおむね解決された。体外離脱体験は、現代では脳の血流不足などにより、脳が、自己の身体が空間上のどこにどのように位置しているかを計測する部分が働かなくなることで「宙に浮く」ような感覚が生じるものと説明される。特に、脳機能低下時には視覚が働かなくなる一方で、聴覚は最後まで働いていることが多く、聴覚と不完全な身体同定情報とが交わると、体外離脱したような感覚が生じるようである。つまり、体外離脱体験はいわばヒトの脳のバクのようなものである。
では、そうしたバクがかなり広範囲のヒトに残っているのはなぜか。そのバグはヒトの生存において何か有利な状況をもたらしたのか。それは半分はイエスであり、半分はノーだ。少なくともヒト個体において、体外離脱体験につながる脳のバクは、生存に対して中立的である。そもそも、それは「死にそう」な場面で起きる現象であり、従ってその後のサバイバビリティに影響を及ぼすものではなかろう。
 他方、そうした体験をする個体を含むヒトの群れにおいて、そうした体験に特別な意味づけを行う場合はどうか(そうしたヒト集団は多くみられる)。ヒトは動物である以上死を忌避し、死を恐れる感情を有するが、死後の世界が存在するかもしれないという形で、体外離脱体験に意味づけがなされた場合は、ある場面、集団が危機に瀕し絶滅の瀬戸際にあるような場面において、特定個体の死に対する恐れを薄れさせ、死をいとわぬ形で闘争を繰り広げ、結果として当該ヒト集団の存続確率を高めるように働いたのではないか。

 つまり、体外離脱体験に特定の「意味」=「死の恐怖の緩和・克服」を与えた「文化」が、ヒト集団の中で競争を勝ち抜いた結果、体外離脱体験という脳のバグは、ヒト集団の中で有利に働く結果を招いたのではないか。もっと言えば、体外離脱体験を一つの契機とした一連の観念体系=宗教が、ヒト集団の中でより適応的に(当該観念を持つヒト集団を生き残らせる方向に)働いたということではないか。これが、ほとんどのヒト集団に「宗教」がみられる根本原因ではないか、ということである。
 おそらく、宗教を持つヒトは宗教を持たないヒトよりもサバイバビリティが強い。ヒトという生物においてはそうなのである。(宗教的な行動の痕跡はネアンデルタール人にもみられるものではあるが、もし今後ホモ・サピエンス・サピエンスが違う種になるときは、宗教が存在していないかもしれない。)

 このことは、もし体外離脱体験が選択圧を受けて生き残ったとすれば、それはヒトの個体の生存に直接有利だったからではなく、そのような体験をするヒトを無意味なものとは考えず、むしろ積極的な意味を見出す「文化」において選択圧が働いた結果、体外離脱体験を引き起こす身体的要因をもたらす遺伝子が保存されてきたのであろうということを意味する。つまり、「体外離脱体験」という身体に依存する現象に意味を付与する文化がセットになって生き残ってきたのである。

 なお、宗教現象にみられる、生命体としてのヒトの生存と一見相反する特徴が、むしろ普遍的ですらあるという矛盾は、このようなミーム論においてうまく説明ができる。例えば自爆テロである。自らの命を投げ出すという、生命体としては欠陥に等しい行為を推奨する役割を宗教が果たすことはよく見られる。古くは十字軍。これは、そうした闘争的な面を有する宗教という文化・行動様式が、ヒト集団の中で他の文化・行動様式と競争する上で有利であった結果、このようになっていると思われる。

 もっとも、こうした自殺のような行動が暴走すれば、当然、当該文化を持つヒト集団は滅亡する。したがって、多くの宗教がそうであるように、自殺を動機づけるミームを持つ文化はダブルスタンダードを持っている。逆に言えば、ダブルスタンダードを許さない、論理的に厳格な行動を促す「文化」は、おそらくダブルスタンダードを許容する「文化」より、ヒト集団の生存において劣ったということであろう。
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生命の定義(「構造主義」的な)

2025-01-01 19:28:40 | Weblog
ここでは、地球上の生命に関するものを念頭に置くが、地球外の同様の現象においてもあてはまる可能性があると考えている。

 古来、生命は構造と機能とに分けられて議論されてきた。これはおそらく、死体(構造は保たれているが機能しておらず、構造の分解過程にある状態)に着目した議論であったろう。
 しかし、生化学分野の発展や、遺伝子の解析等により、構造と機能に着目した議論は「止揚」されたと考える。現状、おそらく生命とは以下のように定義できる。

 「一定の環境条件下において、複雑な分子構造物が多種類の相互作用を行いうる形で存在しており、そのような分子構造物の一式が巨視的に一つの単位として振る舞い、外部との相互作用により原子や分子を適宜交換しながら、一定の構造を維持し、一つの単位については複製を行うことがみられる状態にあること」

 この定義において、重要なのは機能よりも構造である。というのは、きわめて一般的にいえば、常温下で特に一定の塩分濃度の水を媒質として存在する分子構造物は、分子間力等により自然に集まり、一連の過程によって代謝と呼ばれる回路的な機能を示すことが明らかであるからである。要するにそのエネルギーは電子の作用による。

 死には多数のレベルがあるが、一つにはこうした分子間力を中心とした回路的な機能が動かなくなる状態を指す。それは生命体内の恒常性と呼ばれる一定環境を保つ力が失われることにより生ずるが、その在り方は様々である。しかし、地球上の生命に関していえば、一つの単位を細胞として、その細胞が回路的な機能を果たせなくなることが死の第一定義である。より巨視的な単位がある場合(多細胞生物)では、そうした細胞単位が交換されることによって依然としてより巨視的な構造を維持し、機能を果たしている場合があるが、この場合は、細胞単位の機能消失が一定程度進むことにより、多細胞からなる巨視的な単位の構造維持や機能継続が失われた状態が死であると考えられる。

 重要なのは、この場合の「機能」は、一定の環境下で、一定の分子化合物が一式そろうことにより、必ず動き出すという点である。それは分子構造物における電位差や、分子構造物の形状によって起こる分子吸着作用などが基礎となっている。それらを秩序付ける、あるいは機能をスタートさせるという過程は考慮を要しない。ある条件下でそれら分子構造物一式が揃うことにより、ある種の過程は自然に進む。あえて言えば、そのエネルギー源は電磁気力及び温度(熱)である。

 ウイルスは結晶化するような単純な物質であり、単独で自己複製能力を有しないことから、かねて生物か否かという議論がなされてきた。本稿の定義においては、ウイルスは生物と言って差し支えない。一定の条件下が「細胞内やウイルス内といった、他の分子構造物一式」という点が、細胞からなる生物とのほぼ唯一の違いであるからである。また、ウイルスの場合は細胞やウイルスなどの外においては、(詳細を省けば)紫外線等により分子構造が壊れるまで活性を有するが、こうした活性を有する状態であれば「生きている」と呼んで差し支えないものと考える。なぜなら、こうしたあり方は細胞から成る生物と基本的に変わらないからである。細胞の場合も、適切な温度湿度になるまで休眠する場合があり、基本的には、構造に対して一定の環境があれば機能が生じるという点では同様であり、ウイルスと分けて考える必要は認められない。

 要するに生命とは、ある時間内に、電磁気力を基礎とする一連の過程が起きることにより、自己の構造を保存・複製するような振る舞いを行う分子構造物一式であると考えてよい。地球においては、当該分構造物は基本的にタンパク質から成る。また、この定義における生命の肝は「構造」であるため、かつて議論されていた「遺伝子粘土鋳型説」などもなお有効と考える。

 こうした分子構造物一式が生じた理由は、一定期間の試行錯誤において偶然生じたものが次第に複雑化する進化過程を経たと考えれば、特に不可解な点はない。現在進行形で、同様な過程による偶然の「生命」の発生が見られない理由は、より進化適応した同様の構造からなる系がすでに成立しているため、そうした系に各種反応物質が成立済みの系に取り込まれてしまうという理由が考えられる。また、原初の何億年かの試行錯誤を行うためには、おそらく惑星規模の広さと環境の多様さが必要なのだと思われる。そして、こうした多様な環境は地球上においては、生物と環境の相互作用により既に失われている類のものである。

 さて、「生命」に関するこのようなあり方は、古典を借りて端的に言えば「よどみに浮かぶうたかた」に相違ない。あるいは、鳴門海峡に生じている渦のようなものである。これらはほぼ同一箇所で、構成する分子を変えながら、相似形を保っている。しかし、種々の条件が変化したときに、その構造は崩壊するであろう。こうした現象がずっと複雑な形で起こっているものが、我々が生命と呼ぶものの正体に相違ない。
「生命は精密な機械と同等の存在か」という古典的な問いに関しては「YES」と答えることになる。我々の工学的技術によって同様の仕組みが再現できるか否かに関わらず、複雑かつ多種類の高分子の構造が、ある種の溶媒に存在することで自己の構造を保存し複製する、そのためのエネルギーが化学的に得られるという系は、まさしく精密な機械と同じものである。我々はそれ以上の何かではない。
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(備忘)地政学と宗教学

2024-12-31 19:34:30 | Weblog
(以下は2年近く前に書いたメモを備忘録的に掲載するものである。) 
 ロシアがウクライナの侵略併合にあれほどこだわる理由を、合理的に説明できる要素が全く見当たらない。ずっとそのことを考えていたが、プーチン大統領が元KGBらしからぬロシア正教会との結びつきがあることが見えてきて、ようやく自分なりに納得できた。ロシア正教会は東方正教会がルーツであり、元をたどればカトリックと別れる前のローマ教皇に行き着く。我々はカトリックとプロテスタントをキリスト教の正統、東方正教会をどちらかといえば異端という偏見をもって見るが、ロシア正教会からすればそれが反対なのは自明の理である。ということは、プーチンの意図は、宗教的にはローマ教皇の地位奪還にあるものと考えるのが自然だ。プーチンがウクライナ東部と南部クリミアを繋ぐ陸路にこだわるのは、ロシア領が黒海沿岸の相当部分を占めることで、黒海だけでなく地中海への海洋支配を進める意図があるからと考える。中世から続くロシア勢力の地中海進出の野望の実現である。ということは、プーチンは自らをローマ皇帝の座に据えたいのだと分かる。プーチンの野望はロシア正教によるヨーロッパキリスト教会のレコンキスタであり、それを政治権力的に成し遂げる自分は「新ローマ皇帝」として全ヨーロッパの支配者となるのだと妄想しているのであろう。そうしたストーリーを描いているとすれば一連の行動にも合理性が認めうるが、その名誉欲、権力欲自体には何ら合理性はない。だから結局、合理的な説明はできない。
 そして、ロシアと中国は、ロシアが地中海から大西洋を支配下に置き、中国が太平洋を支配下に置くという野心で一致しているのであろう。
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鳥を見た

2024-04-24 22:57:31 | Weblog
野趣溢れる住宅街の外れにある我が家の近くでは様々な野鳥が姿を見せるが、今朝、見慣れぬ羽色の鳥を見た。
自宅近辺ではたまにツグミが姿を見せるのだが、大きさはそのくらいかと思えど色は明らかに異なる。
車を走らせながら記憶を辿った結論は、迷鳥であるヤツガシラ。特有の桃灰色と羽先の黒い斑点。もっともすぐ飛び立ってしまい頭部は確認できなかったので、何とも言えない。

そして毎朝寄るコンビニの電線を見上げると、そこには鶺鴒。顔を見ると白斑がなく、こちらは1980年代から南下し本州進出したハクセキレイにすっかり追いやられたセグロセキレイであろう。
肉眼視は約40年ぶりである。

以上が仮に事実ならば、今日は珍なる経験をした日ということになる。
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プリンタ買い替え

2024-03-24 00:43:32 | Weblog
マカーで27年通しているが、現在はM1 Macminiをメイン機にしている。
そして3代前くらいに使っていた黒Macbook(まだ動くので動態保存中)の頃から使っていたプリンタ EPSON PX-7Vが、遂にインク詰まりが解消しなくなり寿命を迎えた。

この機種は写真印刷の美しさがウリで、インクも9色も用意する必要がある贅沢品。インクセットだけで一万円超えるコスパ悪商品である。
なぜこれだったか。まずA3印刷がしたかった。それで当時、Mac用でWifi接続可能なプリンタが他になかった。ただそれだけのことである。
とはいえ購入後、名刺印刷と年賀状印刷くらいしかプリンタを使う機会はなかった。そして最近、皆年賀状の習慣がなくなったので我が家も基本やめている。そうすると用途は名刺印刷くらいしかしない。そのために高精細写真用9色インクのプリンタは明らかにオーバースペックである。

それで代替機を探すに当たっては、5万円以下の低価格品から選ぶことにした。結果、A3印刷できてWifi接続できるものからCanonのPIXUS ix6830にした。
EPSONの同等品はカセット給紙、自動両面印刷ができるタイプで、かつ安かったのだが、前後幅がデカくて我が家のプリンタ置き場であるサイドボードに底面が収まらないため諦めた。
スキャナも数年前にEPSONからCanonに買い替えており、これで印刷周りはCanon製に統一されたことになる。

さて購入した機種は、調べると2014年くらいから販売しているらしい。どうやら最近は皆A3プリントできるインクジェット機なぞ買わぬらしい。
使用にあたりネット上からドライバやらセットアップ用プログラム等をダウンロードしたが、説明用HPはいかにも10年前のそれで、古臭いしわかりづらい。
無線接続用のソフト一式をインストールできるアドレスに辿り着く前に、意味なく個別にプログラムをダウンロードしてしまった。
それでもとりあえず動くようにはなったので良しとしよう。

動かしてみた感想。うるさい。ガシャガシャ動作音と揺れがすごい。
PX-7Vはミドルエンド機だったこともあり比較的静かだったので、かなり気になる。
しかし良いこともある。印刷開始までの準備時間が圧倒的に早い。作りが簡素なためと思われるが、用途からすればこの方が都合がよい。
本格的な印刷はまだしていないが、とりあえず早々に壊れたりしないことだけを願う。

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能登半島地震私考

2024-01-10 00:35:34 | Weblog
正月の夕刻、昼寝をしようとしていたところに、能登で震度5強のアプリ速報。飛び起きてNHKニュースを点けたら、その数分後に震度7。珠洲市ライブカメラでの住宅倒壊を生で見て「これ震度7ある」と分かってしまった。

その後の直下型での大津波警報は大変ビビった。例の山内アナの声はかくあるべしと思ったが、次第に神経に刺さり一時民放へとチャンネルを変えたりもした。そして後日集められた津波映像は東日本大震災と同じだった。それが揺れとほぼ同時に来るとは。
今回の地震は阪神淡路と東日本大震災の両方の特徴を併せ持つ非常に厄介な災害と思う。
以下私見。

一連の地震活動の始まりは平成19年の能登半島地震と考える。ここは当時「地震の空白域で起きた」と言われた。つまり観測史上初であった。
その後の新潟県中越沖地震もやはり空白域だったようで、この2つが能登半島沖の活断層を目覚めさせた端緒と想像する。以後、謎の群発地震に次いで、昨年5月の震度6がいよいよ本震かと思えば、今回の事態であった。確かに、群発はこの震度6以後も継続していたが、これほどとは、である。
長さ150kmに渡る複数の断層が浅い地域で一気に動き、震度7の強烈な揺れと、多くの木造家屋倒壊に繋がった。直下型で揺れの周期が木造家屋にダメージを与える点は阪神淡路に似る。火事は起こったが予想以上に少なく、これは阪神淡路の教訓を踏まえた成果であろう。
そして一連の地震の原因は地下の流体移動にあるとされるが、長距離に渡り複数の断層が連動して動いた点は、メカニズムは全く違うが東日本大震災と似ている。なお東日本大震災でずれたプレート境界に進入した水分が能登半島地下で上昇したと見る向きもあるそうだが、東日本大震災よりも平成19年の地震が先行していることから、私は両者の直接的な関係性には懐疑的である。
今回、直下型・断層型地震であるが、陸地近傍の海底断層が動いた為に津波発生となった。東日本大震災では震源が沖合であったため、揺れと津波規模は大きく長時間であったが建物倒壊や地割れ崖崩れ等は今回の地震ほどはひどくなかった。そのため、地盤沈下で津波浸水が引かない地域以外は道路啓開が比較的早く進んだ。仙台空港を米軍が片付けてくれたのも大きいが、津波による瓦礫堆積だけでなく地盤が能登空港並みにガタガタだったらこれは無理だっただろう。今回、道路復旧がなかなか進まないのも同じ理由で、揺れの被害が酷すぎるのと、かつ山岳地形がほとんどで土砂崩れの道路寸断が致命的に多すぎるのもある。余震もこう多くては手のつけようがない。
また、能登では海岸線が東日本とは逆に大きく隆起しているのはまずかった。しかもこれは一説には数千年に一度起こるレベルで、能登半島には同様に数千年おきに形成された断層崖が3つほど見られるという。つまり、地質学上は知見のあった、しかし東アジアの歴史上記録のない大事件に我々は居合わせてしまったのだ。
ということは、この現象について我々は予測の術を持っていないということになる。今後どのような周期で、ひょっとしたらさらに大きな地震があるのかもしれないが、それをわかりようがない。
それもあり、東日本大震災の時、宮城県は発災後数日のうちに市町の復興グランドデザイン案を作ったのだが、これが今回の石川県では難しい。
というのは能登半島北岸の漁港は軒並み隆起しており、元の位置に港を復旧するには大きく掘削、事実上の掘り込み築港を行うことになる。これはとても現実的ではない。かといって新たに生じた土地の外部に港を作るといっても、当面地盤は安定しないだろうから、実用的な港の再建は、できても30年後くらいになると思われる。付言すれば工事に先立ち測量や表示登記といった事務手続きも要する。そんなことをしている間に、超高齢化していた被災集落の多くの人が再建を待たずに去ることだろう。
東日本では牡鹿半島などで「過疎化が10年加速した」と言われたが、能登半島地震ではおそらく「都市消滅が加速到来した」ことになる。生業を支えるインフラが当面再建できないのなら人は住み続けられない。
つまり復旧・復興の青写真を今回のケースで描くのは非常に困難である。これは液状化が激しかった新潟県なども同様で、どこに住宅再建を進めるのかといえば、防災集団移転どころではなく、もう既存の生き残った宅地に移ってもらう方がましだ。この20年の間だけでも何度もこうした住宅倒壊規模の地震が起きているとなれば、宮城県のように防潮堤や高台移転で何とかするレベルではない。100年単位で様子を見なければ安心して再建などできないように思う。現実的には「現地復旧は諦め、災害救助法など各種法制度の枠組みをフルに使い、なんとか故郷を離れ、先祖伝来の土地を捨て、他の仕事を見つけて生きていく」しかないであろう。つまり、事実上「復旧」は無理で、取りうる選択肢は人生のリセットしかない。ハワイの大規模溶岩被害のように、もう住めないレベルで地質学的変化が起きてしまったという事実を、今度こそ受け入れなければならない。とりあえず地殻変動が沈静化するまでは、断層から離れた箇所に仮設住宅を早く整備し、そこで住むしかない。
しかし、自らの家屋敷や土地といった財産が無価値になるという残酷な事実を人は受け入れることが難しい。そういう現実に、旧住民の心は東日本の時以上に荒むだろう。被害面積は東日本の時よりは狭いので、県外への二次避難などはやりやすい(道路が通れば)と思うが、おそらくこういう地方集落の人はそこを離れたがらない。まず、自宅や埋まっている家財道具、財産など心配なものが多くあるだろう。まして行方不明者がいる人は尚更である。ましてや、1月1日という、よりによってほとんどの人が休みで、かつ田舎に帰省でキャパ以上の人が存在しているときの災害である。深刻すぎる。本当は、もう何もかもを無くしたのだと割り切って二次避難をすぐにすべきである。そして元の家に戻ることは諦め、新しい生活を模索することだ。年配者ほど辛かろうが、そうすることが最も合理的である。
そして人は、合理性では決して行動決定しない。感情的好悪でその行動を最終決定する。これも東日本大震災の復旧・復興で得られた大きな教訓である。ヒトという生物はそんなに合理的にはできていない。
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