去年1月2日に書いたブログを見返すと「何もない」と書かれている。
そうは言いながら、どうせ予想の斜め上に悪いことしか起こらないとも思っていて、どこかでその事も書いていたはず。
それはやはり現実になった。自己成就予言じゃないか、そういうことを考えたり書くのは止めるべきではないか。そんな気もするが、かといって現実が予想通りになる以上、それは予想が正しかったということしか意味しない。
未来は変えられる。それは真実だ。変える方法はある。ただし、それが自分の理想とする方向に変えられるかどうかは、また別だ。
例えば、今ここで自分の命を断つことだって、変える方法の一つであり、そして簡易に取りうる方法だ。それが理想か。難しい。
同じように、破滅的な方向に変えるのは比較的容易である。それを望んでいないというのも嘘になるが、望んでいるというのも今は嘘だ。そういう鬱の時期をとうに過ぎている。そこまで余力が残っていないという言い方が正しい。
ここ数年の年末年始はいつもそうだが、大掃除を済ませ、年末の格闘技と紅白を見る。年が明けたら23550655を見て、余裕があればさだを見る。
それを終えて寝て起きたあとは、年末年始の休みが半分終わってしまったことの悲しさしか残っていない。
去年は何があったか。仕事はひどいものだった。4月の異動がひどいものだった。そのせいで色々と酷い目にあった。今でもそれは変わらない。
このような理不尽は許されないと怒っている。珍しく怒っている。ずっとそのまま来ている。
同時に、ある岐路があった。小さな選択肢があった。決めきれずに結局は何もせずに済ませた。あとから振り返ると、あれやこれやのことがあったので、これでよかった、というか、こうしていなかったらもっとひどいことになっていただろうと考えている。何もできなかったが、それが最低最悪でありつつ最善であった。
今年はどんな1年になるかなどということは無駄な考えである。勿論理想はあるし、それを追ってもいるが、そのことに依存することは禁忌だ。人生は裏切りと悲しみの連続で、それが心の余裕も豊かさも奪っていく。そういう人生をしばらく歩んでいて、心は荒みきっていると言っていい。
そういう人間であることを、どうしようもない。破滅的でない方向に変えるのは容易でない。現状はひどいものだ。ひどい。ひどいままである。良い事を書こうが悪い事を書こうが、何が変わるというのか。このひどさが。
そうは言いながら、どうせ予想の斜め上に悪いことしか起こらないとも思っていて、どこかでその事も書いていたはず。
それはやはり現実になった。自己成就予言じゃないか、そういうことを考えたり書くのは止めるべきではないか。そんな気もするが、かといって現実が予想通りになる以上、それは予想が正しかったということしか意味しない。
未来は変えられる。それは真実だ。変える方法はある。ただし、それが自分の理想とする方向に変えられるかどうかは、また別だ。
例えば、今ここで自分の命を断つことだって、変える方法の一つであり、そして簡易に取りうる方法だ。それが理想か。難しい。
同じように、破滅的な方向に変えるのは比較的容易である。それを望んでいないというのも嘘になるが、望んでいるというのも今は嘘だ。そういう鬱の時期をとうに過ぎている。そこまで余力が残っていないという言い方が正しい。
ここ数年の年末年始はいつもそうだが、大掃除を済ませ、年末の格闘技と紅白を見る。年が明けたら23550655を見て、余裕があればさだを見る。
それを終えて寝て起きたあとは、年末年始の休みが半分終わってしまったことの悲しさしか残っていない。
去年は何があったか。仕事はひどいものだった。4月の異動がひどいものだった。そのせいで色々と酷い目にあった。今でもそれは変わらない。
このような理不尽は許されないと怒っている。珍しく怒っている。ずっとそのまま来ている。
同時に、ある岐路があった。小さな選択肢があった。決めきれずに結局は何もせずに済ませた。あとから振り返ると、あれやこれやのことがあったので、これでよかった、というか、こうしていなかったらもっとひどいことになっていただろうと考えている。何もできなかったが、それが最低最悪でありつつ最善であった。
今年はどんな1年になるかなどということは無駄な考えである。勿論理想はあるし、それを追ってもいるが、そのことに依存することは禁忌だ。人生は裏切りと悲しみの連続で、それが心の余裕も豊かさも奪っていく。そういう人生をしばらく歩んでいて、心は荒みきっていると言っていい。
そういう人間であることを、どうしようもない。破滅的でない方向に変えるのは容易でない。現状はひどいものだ。ひどい。ひどいままである。良い事を書こうが悪い事を書こうが、何が変わるというのか。このひどさが。