VOL2 わ・た・し流

おとぼけな私ですが 好きな本のことや 日常のなにげない事等 また 日々感じたことも書いていきます。

先を考えたら 真っ暗に・・・

2011-08-16 12:09:09 | 日記
連日 暑い日が 続いて


 父は 「来年まで持たんかも知れん」と弱気になった


百まで生きるんじゃなかった?


 母は母で  なんだか お腹が膨らんで


良く食べるから太ったのか  腫瘍が 大きくなったのかわからない


 病院側も もう 検査もろくにせず 話だけきいて 腎臓に入った針を交換するだけ


昨日 尿バッグを交換する際  おなかにさわったら


 ぶよぶよというより なんだか  固い感触が・・・


やはり 腫瘍かな・・・


 今年で ちょうど 母の母  つまり私のおばあちゃんが亡くなった年齢に達した母


母の腹違いの姉も この歳で亡くなり 主人の母も この年齢でなくなった


 でも 先日我が家に来た弟のところでは 


嫁さんの父親が すっかり認知症になって 今では 寝たきりになっているという


 嫁さんは まだ40代半ば  70代のお母さんが主に介護し


嫁さんとその弟さんが 行けるときに行って 介護を手伝っている


 ヘルパーさんは 週一回 入浴介助で入ってもらっているらしい


主人のおばさんも そういえば 姑を介護し、姑が旅立ったら ご主人が倒れて


 結局 介護は 合計20年に及んだといっていた


ふっと  来年の今頃って  自分は どうしてるだろう・・・?


 そう思うときがある


来年  娘は まだ 学校に行っている


 地震などの不安  経済の先行きも不透明ななか


娘は 働けるのか・・・家で 家事手伝いのほうが 良いのか


 主人の体と心は 今の職場で どのくらい耐えられるのか


う~~~ん


 人生、なかなか 手ごわい


先の事など 考えるものではないですね


 

終戦記念日ー父の話

2011-08-15 11:33:50 | 日記
最近 TVで 犬を 戦争中に供出した実話がドラマになった


 もう とても 悲惨で 見ることもできないけど


うちの父は  馬を ビルマ(現ミャンマー)に供給するための


 お世話係りとして 海を渡り


メコン河をさかのぼって カンボジア タイを経由し


 ミャンマーのマンダレーというところまで 行った


昭和19年の事である


 当時建設中だった 「タイメン鉄道」にも トロッコで途中まで乗った


タイメン鉄道の建設には 象が活躍していたという


 象は 大変に頭が良く 枕木のうえに レールを置いていくのだが


そのままボルト締めができるほど 正確に置く事が出来たという


 まかりまちがって 象の見ている前で レールの位置を直そうものなら


へそをまげてしまい  てこでも動かなくて 困ったという事だった


 あの 史上最悪の作戦といわれた 「インパール作戦」にも


馬をインド国境まで連れていくという任務で 参加している


 任務は 散々な結果となり 連れて行った馬も 人も


ともに栄養失調 マラリア コレラ等の病気で 次々に死んだ


 残った馬は 毒草をむりやり食べさせ 始末した


父は 知恵を絞り 工夫で窮地を切りぬけて マンダレーに帰還したが


 瀕死の状態で、 今生きているのが不思議なくらいだと言っていた


たくさんの人が 食糧の補給をたたれ、 武器も無く


 野垂れ死にともいえる状態で 亡くなっていった


父は幸い 戦闘要員ではなかったので 九死に一生を得た


しかし、 戦況は 悪化の一途をたどり


敗走が始まる  これも命がけだった


 アウンサン将軍が率いるビルマ独立義勇軍が あちこちにひそみ


英国軍の爆撃も激しさを増して いつたどり着くあてもない


 とりあえず目指した ラングーン(今は ヤンゴン・・?)


食べ物も 宿もない  今の私たちには 想像もできない


 基地を目指しても  すでに玉砕しているかもしれない


街道を行く事は 危険過ぎて 結局 ジャングルの中を逃げまどった


 常に 死と 隣り合わせだった 敗走は 5~6か月に及んだ


結局捕虜となって生きのび  昭和21年の夏に 日本へ帰ったが


 日本のあまりの荒廃ぶりに 「この戦争は 何だったのか」


と 暗澹たる思いが  いつまでも去らなかったという


 私は 悲しすぎて 戦争のドラマを見ることが なかなかできないが


この悲惨さ、大震災の何百倍ともいえる・・・


 多くの人が 兵隊として 若き命を散らし


理不尽に 暴力をふるわれ のどかな生活をうばわれ


 家を、家族を失った。


仕事も 当然 なかった。


 恋人を、息子を、夫を、父を 


貴重なものすべてを 持っていかれた


 本土に残った人も たくさん 焼夷弾や 原爆の犠牲になった。


あの 戦争を 忘れてはならない


 過去に遭った歴史の悲惨は


津波も 飢饉も 疫病も


 やはり 語り伝えることは 必要なのではないかと


私は 思う。


 国を動かした人だけではなくて


その時 庶民が あじわわなければならなかった


 様々を  ぜひ 授業に入れるべきだ・・・と





 


 


 

これからの時代を生きるキーワード

2011-08-14 12:54:19 | 日記
弟家族が 朝9時に到着し 


 さっき 帰りました


親に顔を見せるため ほとんど休みもないのに・・・ 


 弟は 家族サービスにも努め、休日も 返上しているようです


御苦労さま


 これから 昼食を作るのですが 出かけた主人が まだ戻らないので


さっと 更新しています


 今日も 松原さんの記事ですが


これからが 放射能の数値が あがってくる・・・つまり


 3月に放射されたもの、今 地下にたまったもの  


それらの 「本当」が 明らかになる・・・らしい


 でも・・・「恐れないで。それより 子供たちに 大人が 充分な愛情と笑顔を


そそいで欲しい。私たちの人間力は こんな事に負けません」


 「私たちが 手にしているものは、


人を思う心から出る 神秘の力」である・・・と


 と おっしゃっていました


ふっと  東電元社員の語っていた


 チェルノブイリの泉を守る長老たちの話を 思い出した


松原さんのメッセージに込められたもの


 それは  常に


「人間の思い・・エネルギー は 地球の動きにさえ 影響するもの」


 という事


「私たちの持つ エネルギーは  放射能なんかに負けない


 プラスのエネルギーで  前へ前へ


そうすれば きっと 素晴らしい 未来が できあがる


 人間には そういう 限りない可能性という 力が ある」


私は そう感じるのです


 これから私たちが 先の見えない時代を生きていくうえで


「人を思う心から出る 神秘の力」を みんなが 持っていると知る事


 そして  その思いで生きる事こそが 


これからの時代を切り開くのではないか


 不安に 負けない


生まれたら 一回は 死ぬのですから


 どう 生きたのか  を 重視して 


それを意識して 生きていこう  そう 思いました

「小惑星の衝突回避」松原さんの記事から

2011-08-13 13:23:43 | 世見

松原照子さんのブログが 有料サイトを立ち上げた


 さっそく 登録したのだけれど


やはり かなりのアクセス数なのだろう


 なかなか つながらない


転載記事なども まだ あるので


 過去記事は そちらから読んでいる


中で 気になった記事が あったので


 私からも 伝えたく思い


要約ですが  記事にしました


 今年5月の記事です


「上の不思議な方」から伝えられた話


 20世紀に シベリアに落ちた 小惑星は 直径100メートルだった


被害を 最小限に抑えようと  相当苦労した(上の方々が・・)


 今度の小惑星は  直径1キロメートルある


ここまでになると 「人類の発するエネルギーの力」が必要だ


 自分が 今生きていられる事の喜び、その喜びの「気」を


空気に伝えるのです。


 おりにふれ、 声に出して 「ありがとう ございます」と言うだけで良いのです


日本のみならず 世界中の人の「ありがとう ございます」が 空気を心地よい振動に変え


 (言葉は その国の言葉で構わない)


その 心地良い振動が 地球を包みこむと


 地球本体が それをキャッチし、バリアーを作る時の力となる


…惑星の接近など  人類が手にしている「思いのエネルギー」で阻止するのです


 「ありがとう ございます」  この 言葉だけで良いのです



という事でした。


 今近づいている 小惑星って  エレニン彗星の事ですかね・・・?


4年に一度 地球に接近するとか・・


 この2012年の接近が かなり やばい距離だという事で


私も 実践して行こうと思いました


 「上の方」って   誰?  とは思いますが


世見は かなり あたっているので


 「信じて」 やってみます


松原さんのお話は


 人への気遣いが 素晴らしく


変に 恐怖心をあおったり 教祖になる?的なものもなく


 冷静に 宇宙、世の中を 見つめ、 自分として


何ができるのだろうか? という事を 考えさせてくれるところが 気に入ってます


感動のアンビリバボー

2011-08-12 11:40:56 | 日記
昨夜 洗面所へ行くと 


 外から 閻魔コオロギのなき声が聞こえてきた


こんなに暑い日がつづいても やはり


 立秋を過ぎたんだなぁ~  と思った


自然界って  すごいんだな・・・


 めずらしく 昨夜は 主人 私 娘


3にんで  アンビリバボーをみた


 中国の人が、 頭に銃弾をあびて 障害者になった日本兵を


祖国に帰すまで、 父子2代にわたる奮闘をえがいたもの


 父も 子も 当の日本兵も すでに他界していたが


人として  かく在りたい という見本のようなお話


 人間が  もし  6割 こういう人たちだったら


世の中は まるで 違ったものになっただろう


 ものも言わず 畑仕事もこなせない


見るからに 障害があるとわかる 日本兵 「日さん」


 しかも 村中が 日本人を敵視している中で


家族の生活も楽ではない中 病気治療のために


 借金までし、 かくまっていた事で


息子の将来まで 暗雲に閉ざされた


 父は50代前半の若さで 亡くなり


どうか 日さんを 家族のもとへ帰してやってくれとの遺言を残した


 遺志を継いだ息子は その後も 手掛かりを探し続けた


56年たって  「日さん」の家族がわかり


 わざわざ 3週間も 息子は 「日さん」に付き添って


日本の地へ やって来る


 日本で 受け入れてもらえるのかろうか と 心配したのだ


そして 涙を流して 「日さん」と別れ 中国へ帰って行った


 こんな事を 実行できる人間が  いるのだ


しかも  (といっては失礼ながら)中国に・・・


 息子さんは その後 2年もせず 50歳で 亡くなっている


「日さん」は 故郷でも穏やかに過ごし  97歳の天寿をまっとうして亡くなった


 心に素敵な プレゼントをいただいたような


感動の アンビリバボーでした