一周忌無事に勤めてただひとり母の遺影に語る夜半(よわ)かな
49日、お盆、そして1周忌と少しずつ心が静まってゆく。私にとっては、さしずめ遅れ馳せの卒哭忌なのだろうか・・・。
「父の恩は山よりも高く、母の恩は海よりも深し」は「童子教」の言葉であるが、父母の恩の万分の一も返せなかった自分を想う。
故・高田好胤師が講話の中で「亡くしてから初めて真実の対話が始まる」と話された。まことにその通りである。今更ながらその言葉をしみじみと味わっている。
<閑話休題>
しておきたいこと。せねばならないことを淡々と済ませてゆくこの頃。
師走と言ひ、年の暮れ呼ぶこの月。以前は時の流れに慄きながら、あれもこれもとばかり、心を亡くし( 忄りっしんべんに 亡)ていたが、私はもう「忙しい」という言葉は使わないようにしている。心に死亡通知をしていては始まらないからだ。
年内の講演、研修・講義は全て終えた。これらも我が日々(にちにち)の終活。ていねいに・丁寧に、心を込めてさせて頂いた。画像はもうかれこれ30年近くお呼び頂いている社会福祉法人さんの職員研修資料である。シリーズでさせて頂いているが、メインテーマは【心がふれあうとき-いま、福祉職に求められるカウンセリングマインド-】である。私が30年余に亘り伝えつづけてきたことである。
私の研修資料は数百枚はあるが、いずれにも・いずれにも私の願い、或いは祈りが込められている。研究会などで長年受講して下さった方は、その殆どをファイルされていると聞いた。有難いやら恥ずかしいやら。
私はやはり、カウンセリングの話をする、或いはそのワーク(研修)をする時が一番力が入る。
画像のホワイトボードにタイムスケジュールが書かれている。一方通行の講義ばかりではない。カウンセリングは頭で分かるだけではいけない。体験して身に着かねばならない。なので毎回必ずロールプレーを入れる。スーパーバイズはきっちりとやる。
私の講義は皆さん「一言半句も聴き洩らさない」という真剣な眼差しで聴いて下さる。
もし、眠ってしまう方があれば私の負けである。
だが、グループに分かれてのロールプレーは、笑顔がこぼれる。それもまた楽しいひと時である。質疑応答はきっちりと納得されるようにお答えする。それは、30年余に及ぶカウンセリングスーパーバイザーとしての私の自負でもある。
受容・共感・自己一致は、まず相手の語る言葉に虚心に耳を傾けること、つまり「聴く」ことから始まる。
拙著「あのの・・・カウンセリングに学ぶ人間関係」にも縷々書いているが、受容・共感・自己一致の原点は、まず「聴く」ことに尽きると言っても過言ではない。それは、全てを差し置いて無心に聴く。それはまた相手の自己表現を助け、相手を理解するための基本である。おしゃべりの過ぎるのはよくない。相手の語ることに、じいっと耳を傾けて聴くことだ。本当の意味で「聴く」ことの出来る人はそうざらにはいないものだ。
他にも、今年最後の仏教婦人会での講話も若干の緊張感を伴いながらも、これまた楽しく、丁寧にお話しすることが出来た。(自画自賛デスネ)講話を終えると、皆さんで仏教讃歌の合唱であった。何故かしら目頭が熱くなり、不覚にも涙が・・・。
会長さんと目があってしまった。彼女は優しい眼差しで頷いてくれた。
「終活の旅路」もまだ続きを記したいと思うが、もう日付が変わってしまった。今宵はこれにて。
49日、お盆、そして1周忌と少しずつ心が静まってゆく。私にとっては、さしずめ遅れ馳せの卒哭忌なのだろうか・・・。
「父の恩は山よりも高く、母の恩は海よりも深し」は「童子教」の言葉であるが、父母の恩の万分の一も返せなかった自分を想う。
故・高田好胤師が講話の中で「亡くしてから初めて真実の対話が始まる」と話された。まことにその通りである。今更ながらその言葉をしみじみと味わっている。
<閑話休題>
しておきたいこと。せねばならないことを淡々と済ませてゆくこの頃。
師走と言ひ、年の暮れ呼ぶこの月。以前は時の流れに慄きながら、あれもこれもとばかり、心を亡くし( 忄りっしんべんに 亡)ていたが、私はもう「忙しい」という言葉は使わないようにしている。心に死亡通知をしていては始まらないからだ。
年内の講演、研修・講義は全て終えた。これらも我が日々(にちにち)の終活。ていねいに・丁寧に、心を込めてさせて頂いた。画像はもうかれこれ30年近くお呼び頂いている社会福祉法人さんの職員研修資料である。シリーズでさせて頂いているが、メインテーマは【心がふれあうとき-いま、福祉職に求められるカウンセリングマインド-】である。私が30年余に亘り伝えつづけてきたことである。
私の研修資料は数百枚はあるが、いずれにも・いずれにも私の願い、或いは祈りが込められている。研究会などで長年受講して下さった方は、その殆どをファイルされていると聞いた。有難いやら恥ずかしいやら。
私はやはり、カウンセリングの話をする、或いはそのワーク(研修)をする時が一番力が入る。
画像のホワイトボードにタイムスケジュールが書かれている。一方通行の講義ばかりではない。カウンセリングは頭で分かるだけではいけない。体験して身に着かねばならない。なので毎回必ずロールプレーを入れる。スーパーバイズはきっちりとやる。
私の講義は皆さん「一言半句も聴き洩らさない」という真剣な眼差しで聴いて下さる。
もし、眠ってしまう方があれば私の負けである。
だが、グループに分かれてのロールプレーは、笑顔がこぼれる。それもまた楽しいひと時である。質疑応答はきっちりと納得されるようにお答えする。それは、30年余に及ぶカウンセリングスーパーバイザーとしての私の自負でもある。
受容・共感・自己一致は、まず相手の語る言葉に虚心に耳を傾けること、つまり「聴く」ことから始まる。
拙著「あのの・・・カウンセリングに学ぶ人間関係」にも縷々書いているが、受容・共感・自己一致の原点は、まず「聴く」ことに尽きると言っても過言ではない。それは、全てを差し置いて無心に聴く。それはまた相手の自己表現を助け、相手を理解するための基本である。おしゃべりの過ぎるのはよくない。相手の語ることに、じいっと耳を傾けて聴くことだ。本当の意味で「聴く」ことの出来る人はそうざらにはいないものだ。
他にも、今年最後の仏教婦人会での講話も若干の緊張感を伴いながらも、これまた楽しく、丁寧にお話しすることが出来た。(自画自賛デスネ)講話を終えると、皆さんで仏教讃歌の合唱であった。何故かしら目頭が熱くなり、不覚にも涙が・・・。
会長さんと目があってしまった。彼女は優しい眼差しで頷いてくれた。
「終活の旅路」もまだ続きを記したいと思うが、もう日付が変わってしまった。今宵はこれにて。
以前より思っていたのですが、いつもバタバタとして、「忙しい、忙しい」と口にする人は、
私はあまり好きになれません。忙しければ、黙って、せっせとやればいいことなのにと思い
ます。反対に、お仕事やボランテイアなど色々とおやりですのに、「忙しい」などとこぼす
ことなど無く、一見、緩やかに見えるほどに用事を熟される方もあります。傍から見てい
ましても、とても清々しくさえ見えます。まあ、お人柄なのでしょうね。ところで、
>「親様と言うものはありがたいとかみしめています。」
そのお言葉に感じ入ります。この頃「親様」と仰る人は見かけなくなりました。「親様」、その
中に、勿忘草さんのお心が偲ばれます。妙好人と呼ばれた方々は阿弥陀様を「親様」と
表現されます。生み育ててくれた両親は親様。心の親様は阿弥陀様だと存じます。
いずれの親様も、まことに有難いものですね。それでは、こちらこそよろしくお願い致し
ます。どうも有難うございました。
よろしくお願いします。
忙 は使わない。なるほどと思いました。
私も使わないことにしようと決めました。
親様と言うものはありがたいとかみしめています。
今、何かを話したくても姿はなく、心で対話するのみ、それでも現実に答えが来るわけでなく、話しておけばよかった・聞いておけばよかったと思うことが多くあります。
また、お邪魔させていただきます。
karin611さんも、10月に1周忌を終えられましたね。
前回、「・・・そのたびに母に感謝の思いが深くなります。」と仰られましたこと、
いかにもその通りと私も実感致しております。
まことに恥ずかしながら、時には袈裟を懸け、経を読み、法話もさせて頂く身
ではありながら、肉親との今生の別れは遣る瀬無き悲しみです。逝った人は
もう還って来ない以上、残された者は如何に生きるかということを、つくづく
と考える日々です。今後ともよき交流を賜りますことを念じております。
どうも有難うございました。
有難うございます。文中の「亡くしてから初めて真実の対話が始まる」
そのお言葉は大切な人を亡くして初めて実感することですね。私が探していた自分の心を上手くいい表していると!!共感と共にyo-さん様の言葉が慈愛に満ちていて温かな気持ちになります。
忙しいという言葉を言わない・・納得できた言葉です。頷くことがたくさんあります・・・
本当に仰る通りです。恥ずかしながら、心が癒える日があるのだろうかとさえ思います。
母は勿論のこと、早く逝った父、また妻や弟についても然りなのですが。
以前にも引かせて頂きましたが、親鸞聖人の教行信証にも見えます道綽禅師の、
「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え」を、ただただ味わさせて頂く
ばかりです。
龍大学長さんが「自省利他」のお話をされたのですね。
いつもながら、keiさんの、学ばれるお姿に感じ入ります。私もkeiさんを見習わなければと、
自らに言い聞かせているこの頃です。また、ご教示下さいますようお願い申し上げます。
どうも有難うございました。お念仏に繋がるご縁に感謝しつつ。<称名>
以前にも何度か、さこさんの、お父様のことに触れられた一連のブログ記事を拝読しながら、
やはり共感しきりでした。
この言葉は昔、薬師寺に参詣の折りに、管主の高田好胤師の講話でした。
何事もそうだと思いますが、自ら経験してみないと分からないことだと存じます。私自身、時
には袈裟を懸け、経を読み、また講話も致しますが、如何に意を尽くしたと言え、なかなか、
その思いを伝え切れるものではありません。いつも心の中に引っ掛かるものがあります。
「内心忸怩たる思い」とでも申しましょうか。そのようなことを感じながらの作歌であり、記事の
upでした。どうも有難うございました。
長くご一緒にお過ごしでしたから、悲しみ淋しさの大きさ深さを想像いたします。
初七日、ふた七日と、七日七日の法要を重ね、四十九日、…一周忌と、
遺されたものが心を癒していくには時間もかかりますよね。
自らを省み、ご両親を偲ばれ、仏教賛歌に涙をこぼされる。
自然と心が動いて、もうすべてがご供養につながるようです。
ひとつひとつの講演、研修・講義を丁寧に丁寧に重ねてこられた自負を感じさせていただいております。
そう言えば昨日、龍谷大学の学長さんから「自省利他」のお話がほんの少しだけありました。
嫁いだ年の暮れの報恩講で、お招きしたお説教師さんから、「忙」は心を亡くした状態だとお話がありました。
大昔のこと。ですが初めての体験で、よほどインパクトがあったのでしょうか。
記憶しているだけで、使ってしまう時がありますからいけませんですが。
お気持ちを分かち持って下さるような会長さんの眼差しは仏様のようですね。その瞬間、ちょっと想像します~。
私、皆様のブログにお邪魔するのは、いつも朝なのですが・・
今朝、お邪魔してとてもビックリしたのです。
「亡くしてから初めて真実の対話が始まる」と話された。
まことにその通りである。
今更ながらその言葉をしみじみと味わっている。
と言うくだりです。
私も昨日、無事に父の一周忌を終えまして。
この一年、私もまさにこの言葉に様に、毎日父の仏壇に
話しかけ、仕事に出てゆきます。
時には、仏壇の上に飾ってある父の遺影を見ては、笑いかけ
たり、その時感じたことをしゃべったりしています。
なので、みーんな同じなのかなぁ・・・って思うと、何だか
嬉しくなりました(#^^#)