白梅やひと日南をあこがれぬ 啄木
物心ついてから啄木(或いは彼の短歌)に傾倒しているが、啄木と言えば短歌であろう。勿論彼は詩や小説、或いは論考も書いている。ところが彼は俳句も僅かではあるが残している。
私は俳句の素養はないので、しいて言えば手慰みに詠む程度である。なので啄木の少ない俳句にもさほど興味はない。しかしながら、冒頭の一句には共感しきりである。
私自身、終の棲家は気候温暖な地に、と思いながら生きてきた。でも、それは遂に実現せずに終わるかも知れない。(一縷の望みは捨てきれずにいるのだが・・・。)
啄木は歌人であるが、世の俳人に(啄木忌を季語にして)詠んだ句が多いのも面白い。句も歌も5・7・5つながりで親戚のようなものだからかも。
いのち長き花買ひ求め啄木忌 鈴木真砂女
真砂女 については以前にも記したことがあるが、この句にも啄木短歌に通じるものを感じる。彼女は恋多き往年の俳人であった。
閑話休題
達筆の便りとともに届きたる君の秀句を味わひて読む 筆者拙詠
長年、交流頂いている方から便りが届いた。昔、講演にお呼び頂いた遠方の方である。たまには、メルのやりとりもあるが、お互い時々は手書きの便りを認める。
と言っても一筆箋が多い。一筆箋は気軽に書ける。頂いたのは箋3枚とプラス1枚である。その1枚に5句の俳句が書かれていた。達筆は元より、いずれも素敵な句であった。俳諧誌の入選作なのでご紹介は出来ない。検索すればヒットしてしまうので、個人情報が洩れもれになるのでネッ。
その巧拙はともかく、歌や句を詠めることは人生の彩の一つでもある。
最近の引き籠り生活で啄木を【情熱的に】!(^^)! 語る場が無いので、何だか寂しい。私はカウンセラーとして【聴くこと】に精進出来たのは、やはり講演・講義を通じて、思い切り【話すこと】が出来たからだと、今更ながら思う。
以前にもupしたが、啄木講座の時のyo-サン。
いつも「文学に触れずしてカウンセリングを語るなかれ」から始まる。そして自分が楽しんでいる。自らが楽しくなければ、参加者も楽しくならないよねぇ。勝手にそう思っている。
今宵はこれにて。