【ふるさとの山・丈競べを望む。坂井市丸岡町】
母の待つふるさとは今深き雪 そを見ずにして君は逝きたり (筆者近詠)
【並び立つ北丈競と南丈競山。やや右側の白い峰】
幼き日 共に眺めし丈競べ 新雪深し君悼むごと (筆者近詠)
「ふるさとの山に向いて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」
と啄木は歌う。その山は姫神山とも岩手山とも言われる。啄木の自伝的小説「雲は天才である」の舞台でもある、ふるさと渋民村で彼が朝な夕な眺めた山である。
私達にとって、ふるさとの山は「丈競べ」である。正確には丈競山である。北丈競山と南丈競山、両山が背丈を競うように並び立つので、地元では「丈競べ」と呼んでいる。
私の中学校(合併のため既に無いが)の校歌の歌いだしは「春若草の萌え出ずる丈競山の朝ぼらけ」であった。
【白山遠望・加賀市大聖寺川より】
この辺りから眺める白山がいい。
真っ白い峰々、よくぞ白山と名付けしと思う。
【柴山潟より白山を望む・加賀市片山津温泉】
いつの日か加賀の出で湯に遊ばんと思いしことも今は叶わず (筆者近詠)
【雪の科学館・柴山潟畔。足跡は私自身のものです】
新雪を踏みしめ行けば・・・
・・・雪だるま 幼き日のこと 胸に涌き来る (筆者近詠)
しかし、誰が作ったのだろう。
【日本海波高し 片山津海岸】
砕け散る 冬の荒波ごうごうと 我が心にも響き渡りて (筆者近詠)
【近況・心境】
1月8日未明、弟が逝った。
鳥野辺に彼を送った。
人の世の無常、愛別離苦とは承知していながら
まさに慟哭であった。
無性に雪の山を、湖を、そして海に合いたくなって行ってきた。
未だに心癒されぬ日々である。
色々記したいのだが・・・。
数日前に、私の長女が自らのブログに
そのことをupしたので、それを転載させて頂く。
【以下、長女のブログより】
皆さんが自転車に乗れるようになったのはいつですか?そしてそれは誰と練習しましたか?
1番多いのがお父さん、次いでお母さん、でしょうか?
私は小学校3年生の夏休み。京都の叔父(私の父の弟)と、実家の裏の細い道で練習しました。
補助輪を片方はずすことから始め、もう片方もはずし、叔父が自転車の後ろを押してくれました。そうして乗れるようになりました。
その叔父が、8日の未明、亡くなりました。
白血病でした。
叔父は3人きょうだいの末っ子。兄(私の父)よりも早く、姉(私の叔母)よりも早く、そして母親(私の祖母)より先に逝きました。
父は8日から10日まで京都に、私と妹は、今日、日帰りでお通夜に行ってきました。
叔父は、現職の大学教授でした。12月まで、車椅子で講義をしていたそうです。そして、冬休みが明けたら当然講義をするつもりで、その心配をしていたそうです。1月の講義に着ていこうとあつらえたズボンもありました。その新品のズボンは、父がもらいました。
「大学の教員であることが父の生きがいでした。」
と、私のいとこである叔父の長男が通夜のお礼で言っていました。
遺影の写真は、作務衣(さむえ)を着た叔父が、大学の講義室で黒板を背にして笑っている写真でした。とてもいい笑顔でした。
去年の夏、叔父は、
「父(私の祖父)のお墓参りができるのも今年が最後かもしれない。」
と、実家へ来ていたそうです。
去年の秋には、私の父と祖母が叔父に会いに行きました。
私の大阪のいとこは、12月に叔父と電話で話したそうです。
そして1月6日に、叔父から私の父に電話があり、
「最後の年賀状をようやく書き終えた。」
と言ったそうです。
父は、“2010年にいただいた年賀状の最後”を書き上げたのだとその時は聞いたのですが、8日の朝の京都からの訃報で、“人生最後の年賀状ということだったのか・・・?”
おとなになってからは、親戚への年賀状に何か一言添えるというのは難しいもので、印刷したものをそのまま出し合うようになっていました。こどもの時は、叔父や叔母、あるいは大叔父や大叔母にも一言書けたものですが・・・
叔父と私もそうで、とくに一言書くこともなかったのです。
ところが、2,3日前に届いた叔父からの年賀状に、
「久しくお会いしていませんがお元気ですか?」
と書かれていました。私の胸に“?”が一瞬ともりました。
大叔父も「年賀状にはよく養生して元気になるって書いてあったのになぁ。」と言っていました。
去年のお墓参りも、父と祖母が会いに行ったことも、いとこや父が電話で話したことも、すべて必然であったような気がしてならないね、とみんなで話していました。
棺の中の叔父の顔は、眠っているようでした。その顔を見ると、涙が出ました。
父は、「眠っているようにしか見えんのに、さわると冷たいんや・・・」と悲しんでいました。作務衣を着せ、わらじをはかせ、杖を1本入れたそうです。足袋が間に合わず、妹が用意して持って行ったものを、あとで父が足の上にのせました。
叔父は宗教学の教授でした。叔父や私の実家は浄土真宗ですが、叔父は晩年は、「聖書を自分たちの言葉で読もう」という取り組みをしている方がケセン語訳(岩手県気仙地方の方言で訳された)聖書を読み、そのCDを聴いていたそうです。通夜が始まるまでは、そのCDを会場に流していました。
私の父は石川啄木が好き。私は宮澤賢治が好き。叔父は気仙沼の方言で聖書を読んでいた。みんななぜか東北に惹かれています。血なのかなぁとふと思いました。
通夜の間、こどものころ、叔父によくかわいがってもらったこと思い出していました。なかでも、よくいっしょに絵を描いたことを覚えています。叔父は絵がとても上手で、幼い私は叔父が描く絵にわくわくしていました。
今日はたくさん泣いて、目が痛くなってしまいました。姪の私でさえこうなのに、叔父の家族、私の父や叔母(父の妹)、そして祖母の心はいかばかりかと思うと、つらくてなりません。
★長々と私事にわたりますことをお読み下さいまして心より感謝申し上げます。
弟へのレクイエムであり、またカウンセリングでいうところの、私達のカタルシスだと
ご容赦下さいませ。(yo-サン)