映画MINAMATAを見て、衝撃を受けた。
水俣病の人たちの病気からの苦しみ。だけでなく、企業利益や地域経済のアンチテーゼとなってしまうがゆえに社会的攻撃にさらされる苦しみ。
社会の無理解からの苦しみ。そして彼らが失われた尊厳と経済損失を回復するための裁判闘争。
それを愚直に記録しようとしたジャーナリストたちの命を奪う激しい攻撃。
殺されそうになってもなお、真実を世の出そうとするジャーナリスト夫妻の仕事に対する忠実さ。
衝撃的だった。
水俣病のことを調べているが、その中で、外見上からも判断できる、水俣病の患者に対してさえ、「金のために演技をして、病人を演じて補償金をもぎ取っている」という記述を読んだ。
えっ?見りゃあ分かるじゃん。あわれな病人じゃん。
と私は思うが、金が欲しいから演技しているのだ、と決めつける人には、どんな医学的な裏付けも、診断も、何よりも本人たちの苦しみも、まったく届かない。届かないどころか、その哀れな犠牲者を攻撃することで、彼らの何かの精神的な目的、それは日々のストレス発散なのか、所属する集団への帰属意識の表明か、高揚感を得られるためか、いろいろだろうが、決して理解しないし同情も共感もない。あるのは攻撃だけだ。
こりゃあ、そういう人たちからは、離れられれぱ距離を取ることだと思う。
水俣病の人たちのように離れられなければ、味方になってくれる応援団や専門家の力を借りて、向き合っていくしかないのだと思う。
難民申請していて拘留され、医療を入管に拒否されて死亡したスリランカ人女性に対するすさまじいバッシングの書き込みを読み、対話を通してそれら書き込みをする人たちの人間性が明らかになるにつれ、それは半世紀前の水俣での記録と重なった。
ウィシュマさん?だったかな、彼女が泡を吹いて床に転倒していても、入館の職員はどうせハンストだろう。仮病だろうとへらへら笑っていた。そして書き込みの人たちも、彼女は仮病で餓死したと言い張る。
私は彼らが声高に叫ぶ声よりも、医師による解剖結果や生前の生理学的データとそれらに基づくに医師による判断が正しいと思う。
彼女の判断は凶と出たと思う。日本の法律知識が乏しく、精神も病んで孤立していて、間違ったのだと思う。
だからと言って彼女を揶揄する人たちのようには思わないし、非難を超えてこれは指殺人だと思うが、そういう言動もできない。
伊藤詩織さんが告発した山口氏のレイプ事件についても、伊藤さんの批判者の「証拠」を見た。
その動画を見ると、私には事件直後の彼女が、困惑しながら蟹股で歩いているようにしか見えなかった。
あんな歩き方は若い女性はしない。普通に股を閉じて「颯爽と」歩くと思う。
その動画は伊藤さん側が証拠としてどこかに出したものが流出したらしい。私の信じる常識では、あれは伊藤さんの被害を裏付けるものだ。
しかし批判し叩くことで快感を得る人たちには「颯爽と歩いている」としか見えないという。だから、きっと何事も「枕営業失敗した腹いせ」であると決め付ける。こういう人たちを表向き黙らせるには、判決や法律が必要なのだと思う。
そう信じる人はそう思い続けて、その中の一部は先鋭化するのだと思う。その中のまたごく一部の人は伊藤さんたちから民事訴訟され、負けて賠償させられるのだと思う。
私のような精神疾患の人や、発達障害の人。
脳脊髄液漏出症のひととか、あるいはある種のがんの人たちとか。
表向き病気が見えないけれど身体病の診断のついた人たちにさえ、「仮病」「詐病」のいわれなきレッテル貼りや悪呼ばわりが、時に医療関係者や著名人からされる。
ひどいものだが、水俣病みたいな外観上病気であると理解できる現象にも「仮病」「詐病」のレッテルを貼る人は貼るから、もうそういうことをいう人はどうにもならない。
もちろん仮病でも詐病でもなくて現に苦しいこともあるのだから、そういわれるのは苦しいことだが、そういうことを言う人はそういう人だと思って、心の防火扉を厳重に閉めて、速やかに離れるだけだと思った。
このことは、今通所している就労移行支援で、自分の障害受容ができないがゆえに、問題発言を繰り返す人の発言を見て、そう思った。
保健当局により無理やり病院に連行され診断のついた彼には、自分の障害が受容できないし理解できないのだ。
はた目から彼を行動観察して、または彼が突き出した診断資料を見ると、明らかにボーダーライン知能の発達障害者でアルコール依存症まで抱えているが、彼はそんなの理解しない。依存症は否認の病。だからかもしれないが。
もしかしたら彼は、せっかく得た障害者雇用の仕事に納得がいかず出奔し、またどこかの町でホームレスになりながら働けず、支援団体や当局のお世話になるのかもしれない。それでも仕方がいなと思った。
何かを信じ思いこみ、そこに執着する相手に、いったい何ができようか。
向き合う必要があれば、相手の必要に応じて、あるいは判断する組織が求めるがままに、淡々と事実を伝えるだけ。
向き合う必要がなければ、距離を置くだけだ。