「生涯引きこもり」と宣言された私の、超豪華オプション生活

 登校拒否となり、生涯ひきこもりであろうと決めつけられて四半世紀。社会人として生きる記録。#発達障害 #自閉症 #ニート

障害を持ちながら仕事をしてきて

2020-03-31 13:41:08 | 当事者研究

いままで、四半世紀、いや学生時代のバイトも含めれば30年もの間、私は社会で仕事をしてきました。
ずいぶんと無茶なことも頼まれたりしたことは今も昔もですが、昔の上司は責任は俺がとるからしっかりやれ。というのが多かったです。
もちろん口ばかりうるさく過激で、あの利用者をぶん殴れとかあいつを締め上げろとか、虐待命令をするような醜い指揮をする上司もいました。そういえばそうだ。そういうひどいのは福祉の世界に多かったなあ。とも。
今、働くということを振り返って、私は指導を刑法に反しない範囲で忠実に実行してきたけれど、どうだったのかなあ。と。
とはいえ、そうやって稼いできたので、収入は少ないけれど世間の並み以上の資産を所有していて、今このご時世でも、資産の取り崩しはあってもすぐに底をつくことはない。〈もちろん補給があればありがたいけれども〉という状況を作りだせているのです。
それにしても、仕事を自分なりに忠実にやっていて、無茶な指導も受けてきて、その無茶な指導を出した側が忘れていたりなかったことにされてみたり。そんなのやってられるかって。そういう現場が多いですね、福祉は。

福祉に囲い込まれている障害当事者たちの声を時々耳にすることがあります。
「一般企業では味わえないほど楽だ」
「楽して生きていけるよ」
それを自ら選ばれたのなら、それを通されればいいと思う。年金と家族のお金で細々と暮らす。資産が尽きたところで支援者を同伴して生活保護申請。そういう生き方もある。否定しない。十年後の私がそうかもしれない。

でも今はまだ、その道を歩まないで済んでいる。それは今までしっかり仕事をしてきたからだ。
医療福祉に囲われる人生。退屈ではないですか。自分の持てる力を精いっぱい出して生きるのではなく、専門職にコントロールされながら、専門職の敷いたレールの上で専門書が喜ぶようにおとなしく生きる人生。それもありですが、今の私にはできない生き方ですね。

浪人時代のハンバーガーチェーンでのバイトに始まり、福祉の仕事やらトヨタの車に携わるしごとやらをやってきました。若いころはそれこそ命を懸けて仕事をし、酒の席でも命を懸けて飲み、特攻隊というあだ名で通ってきました。まじめに命を捨てることになっても求められた役割を果たそうとしてきたのが、40歳になるまでの私の人生でした。

40を過ぎると心身に異常を来たすことが増えました。障害者雇用も経験しました。配慮は何もありませんでした。障害のあるなしに関係ないことで障害と結び付けられ、合理的でない区別〈差別だと思う〉をされ、合理的配慮は得られず、前職では労基法規定通りの休憩を「障害配慮」とされました。休憩なしでぶっ通しで働くのがおかしな話です。労働者の権利を団結して主張ていかないと、150年前の産業革命期の劣悪な労働環境になるだけです。だから福祉は人が続きません。そんな劣悪な状況で発達障害を公表したところで、ただ不愉快でしかありませんでした。

もう無理がきかない体になったと思っています。また人生経験を重ね。家族を持ち、それなりの資産形成もした今は、自分の命を危険にさらすことに躊躇が出てきました。
でもブラック企業は今も昔も死んでも働くことを求める。若いころはそれに答えて生きるか死ぬかの仕事をしていましたが、中年のおっさんになった今はなかなか折り合わなくなりました。

企業は死ぬか生きるかで成果を求める。しかし結果の責任は取らないで自己責任となる。そういう事実を踏まえつつ、これからを生きていかねばなりませんね。
新型コロナのおかげで、世の人々の本音が赤裸々に明文化されるようになりました。
世の人々は、障害者とか、若い新入社員とか。そういう弱い立場の人たちには非常に厳しい。何か癇に障れば情け容赦なく徹底的に罵声を浴びせてマウンティングしたつもりになり、弱者のあらを探しだして叩くことに酔いしれる。ニッポンの津々浦々で見かける光景。ニッポンすごいね。

日本の基本は自己責任。今だけ金だけ自分だけ。それを前提に、これからをどう生きようか。

 

 

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オーソレキューラー学会からの新型コロナ対策効果の情報発信を求めたい

2020-03-27 22:54:22 | メガビタミン

新型コロナ騒動で、世の中が激動しています。
人々の本音。本質が明らかに、赤裸々になっています。あまりの醜さです。
この国の指導集団が、わたしたち庶民のこと、とりわけ弱者のことを「みんな」と考えていないという事実が、内閣を構成する大臣たちの発言により、赤裸々になりました。
それら発言、行動は、あまりにも多すぎて、毎日毎日、次々と報道されていています。

この国は棄民政策を事実上取っています。自己防衛しなければ。
私はすでに、藤川理論を中心に、高たんぱくメガビタミンを実践しています。そして藤川先生の言う「アドオンセット」の実践もしています。
藤川先生のいうATPセットとアドオンセット。これは偶然なのか、オーソレキューラー学会が提案する新型コロナウイルス対策に有効です。
「オーソレキューラー コロナ」とググればいろいろ出てきますが、ここではその中で説得力があると思われた情報を紹介します。

Oowater3の日記
ビタミンで新型コロナ対策オーソレキュラー医学の挑戦
https://oowater3.hateblo.jp/entry/2020/03/11/123334

しかしここで上げられた情報を利用し、健康産業業者が広告を出したところ消費者省から注意喚起がもたらされました。
ここは是非とも、実践結果の情報公開をオーソレキューラー学会の先生方にお願いしたいものです。
日本よりもアメリカのほうが、オーソレキューラー療法の実践は進んでいると思います。オーソレキューラー医学の効果をしっかりと発表していただきたいと思いました。

※私のiHerb 紹介番号は BZW9977 です。この番号を使ってiHerbサイトからサプリメントを購入いただくと、5%の割引があります。ぜひご利用ください

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福祉に専門性なんてあるんだろうか。

2020-03-10 11:27:25 | 当事者研究

医療や福祉の専門性、そんなものが、この世に存在するのだろうか。
福祉の専門性は、教科書とごく一部の限られた場所での実践に過ぎないのではないか。
福祉教育では、いろいろ「きれいごと」を教わってきた。そしてそれが正しいと思って、実現に向けて努力してきた。それゆえなのかか、私は患い、そして失業したのか。
福祉現場では「なめられたらいかん」と、先輩職員たちからよく言われたものだ。暴行の業務命令を受け、信念上できないので壁をたたいたりもした。その命令を私に行った人が今、某地方自治体福祉協会のトップである。
その種のことは、辞めたばかりの職場でも聞いた。「〈利用者に〉マウンティングする必要」という言葉を職員から聞いた。その職員は生意気な利用者に対し執拗に、食ってかかることがあった。それが彼のスタイルなのだと思い、幹部職員も特に指導しないのだが、それが「彼のスタイル」ではなく「標準のスタイル」なのだろうか。
利用者をなだめ、騙し、脅し、暴力をふるい〈前職では暴行場面はなかったが、東京の老舗施設では日常の光景だった〉。それが「言わずもがなの経験知」として今も口伝で脈々と継承され、それをしない職員、できない職員は、福祉職としてふさわくない、とまで明白に〈老舗施設では〉言われたことを、この体はよく覚えている。
そして昨日、神戸の精神科病院で起きた事件記事に触れ、様々なことがフラッシュバックされた。
この事件は別件で逮捕された元職員が、自らの暴行記録を動画に残していたため発覚したもの。行政による定期監査などでは全く異常は見られなかったとのこと。なんと病院幹部たちは「寝耳に水」と、とぼけた反応だったとのこと〈ほんまかいなと言いたくなるが〉。

人は、教えられたように教えるのだと思う。ふるまうのだと思う。神戸というえば小学校での教師間いじめ事件の顛末記事に接しているが、この事件もまた、「個人の資質」に還元されることなの、だろうか。
管理監督者の対応により、エスカレートしているのだから、暴力的な組織的風土があると、私は思っている。

これは、医療福祉教育施設の根本的性質が、患者利用者生徒を「あずかる」ことに第一義の存在理由があるわけだから、最後には有形力の行使〈すなわ暴力〉をもつて秩序維持が図れるわけだから、その根本性質たる暴力性がいかんなく発揮されたものだと思う。
精神科のからむ医療福祉のシステムは、第一義に、「狂暴な患者」〈確かに存在し、そういう人たちと私は対峙してきた〉をいかに制圧、または恭順せしめるか。にある。医療福祉というよりかは警備であり、自分自身「あなたがたは警備要員である」とも福祉職の最初から意識付けられてきた。
現実として、社会防衛としての福祉が、裁判例を紐解いても基本にあるように理解している。福祉はしつかり「あずから」ないと、それが「本人意思を尊重し、なるべく自由するために」などといっていても、死亡事故を起こされれば訴訟で負けるのだ。

上からの暴力的抑圧的方法を用いない方法で、「あずかる」こともできなくもないはずなのだ。そういつた知恵やヒントを私は多く学んできた。
しかしそれは、どの分野の方法論であれ、「めんどうくさい」やり方なのだ。何しろいろいろ学んで根気強くやってみても、うまくいくかどうかわからない代物だ。
その点「暴力」はすぐに答えが出る。そして日本には暴力を容認する風土が厳然として存在する。暴力は国民性民族性なのかもしれない。とも感じている。私のような暴力の犠牲者は精神障害者となり、一方で暴力的な人はごく一部刑務所に行く人を除き、大部分が世の中を大手を振って生きている。

日本で福祉職は、患者利用者にマウンティングしないと、生きていけないのだろうか。
日本社会では、弱い立場の人に暴力的にふるまえない人間は、日本社会を生きていけないのだろうか。

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