自分、治ってきたなと感じた。
昨日はクリスマスでありめでたい日である。
そして、「電通事件」でお亡くなりになった高橋まつりさんの命日でもある。
キリスト教におけるクリスマスは、イエス・キリストの生誕に思いを寄せるばかりではなく、受難にも思いをはせる日である。例えばバッハのクリスマスオラトリの終曲は、「十字架音階」の散りばめられた葬送曲を、きらびやかに演奏する。
クリスマスは本来、バカ騒ぎではなく、主の降誕における貧しさと受難の苦しみを背負う覚悟をすでに神様ご自身が持っておられたことを記念する行事である。
高橋まつりさんの受難のことに思いをはせ、まさにクリスマスとはそういうものだと思う。
私もまた、高橋まつりさんと同じように、うつ病を持つ身である。先に自死をもって旅立った人たちのことを聞くと、最近まではうらやましいと感じられ、取りつかれる思いになることもあった。
しかし今は、ただただ死ななくてよかった。何度も死神がやってきたことはこのブログに何度も書いているが、取りつかれずによかったと、思えてならない。
気分障害などの精神疾患がある水準を超えると、死ぬことが怖くなくなる瞬間がある。
幸か不幸か、自分は精神疾患への教育があったから、それが病気によるものだと理性で判断でき、そうなったときに、頓服を飲む、医療にかかる、などの緊急措置を取ることができた。
まつりさんの場合は、ご本人は自分が危機的であることは理解していたようだが、医療にかかるとか会社から逃げるとかいう選択ができず、おそらく解離が起きてしまったのだと、私は推定している。
うつ病などのある種の精神疾患にかかると死にあこがれを持つが、それは病気のもたらす一時的な現象。
精神疾患は周りからは見えないから、職場など周りが自殺を命じるなど追い込む言動をするケースがままある。私にもその思いではある。
しかし私の場合、上司の違法な命令には聞き従わず医療にかかり、ドクターストップの診断書に基づき社会的に正当な形で休業し退職している。今、そうしてよかったと思えてならない。
だからこそ、クリスマスはイエス様の降誕を記念する日であり、そして高橋まつりさんの受難を思う日でもあると思う。
年末年始にかかり、経済的困難に直面する人々のことが思われる。死ぬくらいなら早急に支援者を連れて福祉事務所に駆け込んでいただきたいし、過労で苦しいのなら会社を休んで精神科に駆け込んでほしいと思う。
少なくとも死んでくれとか死ねなどという人々に対し、切ることはあっても従う必要はない。