発達障害、とくに自閉症スペクトラム障害の診断を受けていて、社会で会社員などとして稼働している人たちに共通することがあります。
それは、確定診断をしたり発達にまつわる診断書をを発行する医師と、実際の症状緩和や一時障害にもアプローチする医師を分けて考え、つながっていることです
発達障害専門医は確定診断には強く、各種の診断書をせっせと書いてくれる傾向にあります。しかも、本人の職歴や交友歴を一切無視し、「労働能力はない」「社会性において著しいコミュニケーション障害があり、対人関係形成能力はない」、などと一方的に断定してくれます。そして、治療する気のない医者が多いどこか「何をやっても意味がない」という反応が標準的反応、というのが共通認識だと確認しました。
ここまでは標準です。著名経済人のお子さんの当事者ように高い知能指数を持ちながら行動援護の必要な人さえいます。数多くの当事者が、引きこもりににとどまっています。 「専門的に正しい判断」なのでしょう。
社会で働きたい当事者は専門医からの「何をやっても意味がない」という診断を信用しないでしぶとく動き回り、自己改善の方法を模索します。臨床に強い医師を探し出し、あるいは必要な支援を引き出し、社会生活を維持しているのです。
臨床に強い医師は標準的診断や方法にこだわらないのです。治すことに集中します。
よい支援者は診断名や障害等級に当てはめた対応ではなく、観察によって本人の困っているところの改善を考えます。
がんの余命宣告から数年数十年たっても生き続けている事例はざらにありますが、がん専門医は相変わらず絶望的余命宣告しかしません。余命宣告の数値は、自分で工夫する体質改善をせず、がんの定型的治療のみを行った場合のことであり、標準からはみ出した、自己努力をした人たちのデータは入っていません。
それと同じように、発達障害とくに自閉症スペクトラムの人たちは「労働能力がなく」「コミュニケーション障害により社会関係が成立しない」のは、発達障害専門医から「何をやっても無駄。あらゆる試みに意味がない」という言葉を実践し自己努力のない人たちの標準であり、それらの人たちへの治療目標が「家事をする引きこもり」である、というのは大変整合性のあるものです。
規格外の、社会で稼働して生きている当事者も数多くいるのですが、対処法はまちまちで標準的ではないので発達障害専門医は関心を持たないようです。これはがんの専門医が各種の生活改善や民間療法に関心がないのと同じことだと考えます。
発達障害と診断されて、どう生きるか。
何をしても無駄だから、ずっと病気の苦労が付きまとい専門的介護なしに生きられず、医療福祉繁栄の礎になるか。
あるいは体質改善し二次障害から解放され、生活や人生の苦労を味わい、税金を納める存在になるか。
それは本人たちの自由なのです。