障害者の「プライバシー」を守る。ということについて
このテーマについて、非常にこだわって考えてきました。
まず断っておきますが、ここでいう「プライバシー」と人格権の一つである法的な「プライバシー権」とは違う、ということです。
法的な「プライバシー権」は、関係する判例と個人情報保護法を学習すると「プライバシーを持つ本人が、本人の個人情報開示レベルをコントロールする」ということが肝だと思っています。
一方でここでいう「プライバシー」とは、「精神障害などの人が、自分の名前を自らの意志で学会など公共の場で名乗り、自分の人生の物語の書かれた文章を配布したり語ったりすること」です。福祉の世界では当事者のプライバシーも専門家が管理しようとすることがよくあります。
障害を得ることそのものについて、世の中にはスティグマ〈偏見〉があります。
スティグマを生む障害をカミングアウトすることについては、多少それなりにインパクトのあることだと思います。
世の中には、メディアに対して自ら堂々と、病名とともに自分の氏名と顔写真を公表している人たちがいます。
例えば、浦川べてるの家の、かつてはほとんどの利用者さん。今は一部整ったメンバー出身のスタッフとメンバーさんたちは、氏名顔写真と病名を公表しています。ダルクもそうだと思います。彼らの活動は自ら公演活動や著作物で発信し、メディアで取り上げられ続けています。
その環境で生きてくためには周りの理解や支援がどうしても必要であるならば、その説明のためには適切なカミングアウトする必要です。
そしてそのカミングアウトは、他者の回復に貢献しています。私の経験では、浦川べてるの家やダルクの人たちなどのカミングアウトは、私の人生の回復に対し、確実に貢献しています。とても感謝しています。
しかし福祉現場の現実として、べてるやダルクなどの動きを嫌がる専門職も、数多くいます。現実に足を引っ張る専門職の姿も、私はこの目と耳で感じてきました。
向谷地生良先生の著書「技法以前」の158ページからしばらくつづく記述(2009)が、ずっと心に残っていました。
それを引用します
“このテーマを考えるときに、私がよく引き合いに出すエピソードがある。七~八年前の出来事だが、ある精神保健分野の研究発表の場で会場に配った追加資料が、座長の判断により回収されるということがあった。
発表内容はある地域の精神保健福祉活動を支える関係者に聞き取り調査をして、実践の特徴を明らかにするという地道なフィールドワークの結果であった。調査結果はすでに報告書の形で公開されていて、調査に協力した人たちの名前も、感謝の言葉とともに記載されている。
回復者クラブのリーダーをつとめる当事者の一人も調査に協力し、報告書には実名が載っている。その彼も会場に来ていて、発表の時間を前にして緊張の面持ちの発表者に歩み寄り、笑顔で「がんばってください」と激励していた。
ネクタイ、背広姿で会場のいちばん前に陣取った彼にとって、自分が協力した実践研究が発表されるというのは、まさしく”晴れ舞台”でもあるのだ。
会場では報告書の抜粋が追加資料として配布されていた。しかしその晴れ舞台は、間もなく暗転する。
発表が終わると、まず座長から厳しい質問が発表者に向けられた。当事者へのインタビュー内容が実名で公開されていることに対して「このことによって未来永劫当事者に不利益が及ばないということを確約しましたか?」というのである。
発表者は、実名の公開においては当事者の了解と積極的な協力があったことを説明したが、「未来永劫当事者に不利益が及ばないこと」の確約という点では、明らかに返答に窮している様子が伝わってきた。会場からも同様な指摘が述べられた。緊張感がみなぎる異様な雰囲気のなかで発表者は「今日は協力したくださった当事者の方が来ておられまので、ご本人にも意見をうかがっていただければと思います」と座長に提案した。
座長に促されるように、私の横に座っていた本人が立ち上がった。緊張で震えながらマイクを待ち、
「今日はどうもすいませんでした・・・・・・・」
彼にとっての晴れ舞台が「謝罪」の場に変わった瞬間だった。「実名を出してもかまいません」という彼の意向が、発表者を追い込んだことへの謝罪であった。自分の病気の体験を恥じたり隠したりしないという彼の生き方は、座長の威厳に満ちた「学識高い見解」によっと、いとも簡単に排除されたのであった。
座長は横文字を並べながら難解な学説と研究者としての倫理と人権の擁護を説き、「追加資料は座長の権限で回収することと致します」と宣言した。フロアからはそれを支持する拍手が沸き起こった。”〈向谷地 2009〉
この座長判断は、「精神保健福祉士の倫理綱領、倫理基準1-3 」
“a 第三者から情報の開示の要求がある場合、クライエントの同意を得た上で開示する。クライエントに不利益を及ぼす可能性がある時には、クライエントの秘密保持を優先する。”
に基づくものと推察します。
この「プライバシー」は、本人意思を通り越して、クライエントに不利益を及ぼす可能性があるときは、クライエントの秘密保持を優先する。と規定されていています。
この規定は業界内々のもので、裁判所の判決によつて蓄積された「プライバシー権」とは違い、本人の意思を通り越して精神保健福祉士などの専門家が本人の秘密まで管理する、とも読み取れますし、現実にそのようになっています。
私も福祉士関係で様々な事例研究に接してきましたが、資料は現実をぼかしたり、イニシャルで表現されます。福祉士研修関係で実名の事例を聞いたことはありません。そして資料はその場で回収されシュレッダー処理されます。やり取りされるのは、あくまでもその「事例」です。
しかしその「事例」は誰かの「人生」の話であるはずです。私もイニシャル表示されたことがありますが、変な感じがしたことをよく覚えています。自分の話のはずなのに、なあと思いました。
私が利用者の立場なら、イニシャル表示されるくらいなら、秘密保持を優先してもらいたいものです。
もし私の事例を出すのであれば、私自身も協力する形で、私も同席の上、名前を出して行っていただきます
自閉症の著名作家を事実上排除した某精神医学会のような場で、私が当事者として登壇することは、それこそその作家さんや当時小学2年の自閉症の子供が精神科医たちから被ったような卑劣な実害が容易に推定されるので、そのような危険な場で登壇することは絶対にありません。
「当事者に不利益を被らせる可能性」は、実は支援者にあると私は強く感じています。私の実際被った被害について、過去いくつか書いています。
べてるさんでもダルクさんでもどこでも、すべての回復して支援側に回りたいと志した当事者たちに、出身施設のピアワーカーポストがあるわけではありません。なので、実名と病名と顔写真を出して自分の回復を公表して、様々な媒体に自分の痕跡を残していった人たちが、全国に散らばっています。
そしてその各地で、せっかくべてるなどで回復し精神保健福祉士の資格まで取得しピアスタッフとして働き始めた当事者たちが、そこの医療福祉関係者によつて、かれら当事者スタッフが「専門職による差別対応と偏見による苦痛」により、病気が再発し退職した事例を、自分はいくらでも知っています。当然私もそれを覚悟せざるを得ません。
もし「座長」のような方がご君臨あそばす施設様に双方とも知らずに採用されてしまうと、過去の病歴を公開していることが「不利益を被らせる可能性」を大いにもたらすことになります。
私は過去、「医原性精神病」について書かせていただきました。そのクライアントに影響力を持つ専門家が障害疾患などの課題に対して悲観的なことしか想像できないと、そのクライアントまで「精神病」になってしまう、ということです。
医療福祉関係者の言うプライバシーは、人権を守るという大義名分ながら、プライバシー権の法理からはかけ離れた「自己保身」になりがち、なのではないのかと私は思い、考えていかなければと思います。
私は一部の方々には傷病を開示していますが、このブログでは私の氏名などは公開していません。私の個人情報開示の範囲と権限は、この私のあるというのが「法的なプライバシー権」であると主張します。
もちろん、さまざまなリスクについては覚悟し、リーガルチェックをしているつもりです。
今日は「世の中で、特に障碍者福祉とりわけ精神保健福祉分野において、クライアントが自己開示することが、クライアントの将来に不利益を及ぼす可能性がある」という残念な真実について考えました。
これは各々が考え、各々が行動することですね。
※引用文献 向谷地生良 2009 技法以前 医学書院
※参考文献 浦川べてるの家 2002 べてるの家の「非」援助論 そのままでいいと思えるための25章 医学書院