「生涯引きこもり」と宣言された私の、超豪華オプション生活

 登校拒否となり、生涯ひきこもりであろうと決めつけられて四半世紀。社会人として生きる記録。#発達障害 #自閉症 #ニート

自分を支援できない支援者に、他人を支援できるのだろうか

2018-02-25 10:16:09 | 生活と療養の工夫

前回投稿の続きです。

ありとあらゆる「困りごと」にアンテナを張り、「障害者」「要介護高齢者」「生活困窮者」「境界線上の人たち」などを「支援」に結びつけることが社会のため、その方のためと信じ切っている福祉系最難関資格保有者の集まりで、酒の席で福祉のえらい支援者たちの生の声を聴いて感じたことです。

彼ら支援者たちは(自分もその端くれですが)、自分の現場での仕事が提示で終わってから記録や明日の準備をすることが多いのです。現場の仕事は仕事なのですが、記録や準備は「奉仕」「強制ボランティア」いや「労役」なのかな。

深夜まで、労基署や弁護士から教えてもらった考え方で行くと「労働」しているのに残業手当を支払われていない。自らそれを否定して、長々とサービス残業することを美徳とする福祉業界。契約書に書かれていない賃金の支払われない労働を命令する福祉業界。こんなブラックで違法状態を、いや「給料泥棒」を自ら志願して自分はこんなにがんがっているからえらいんだと、労働基準法違反の犯罪行為を偉そうに主張していることが普通である福祉業界。

休憩時間もないことが多く、しかし労務管理はいい加減で管理者が把握せず、安月給を実労働時間で割れると、A型の利用者の時給賃金に満たない現実さえ見えてくる「支援者」たち。

福祉系最難関国家資格者でさえこの体たらく。自分のことを守れない。仲間を守れない。働く仲間がバタバタ倒れていくのに、すべてその人の個人的資質や傷病に還元してしまう福祉業界。こんな、自分や自分の同労者のことさえ守れない私たち支援者なる存在が、何処まで利用者の「権利擁護」「自立支援」「自己決定支援」ができるものだろうか、疑問だらけ。

福祉が確実にやれる仕事は、介護だと自分は思っている。福祉系に高齢者の介護予防や障害者を企業に送り出す能力はないと、自分は自分の経験上言い切る。

ドイツみたいに要介護2状態からようやく公的支援を手厚くすればいいと、自分は思っている。

計画相談事業所への報酬が改定され、今年の四月からは利用人数制限がかかる。一軒当たりの「上がり」も、いろいろ組み合わせれば儲けが維持できる仕組みに改まる。要介護状態の人にとってはいい制度だと思う。しかしながら、計画相談員が薄っぺらなマニュアル知識さえ入れず囲い込みを結果的に行っている旧来の福祉を行うと、その人の福祉に合わない「境界線上の人」たちの混迷が深まるかもしれない。と、危惧する。

自分なら、自分の利用者・支援者としての経験上、確実な要介護状態でない限り、福祉のお世話にはなりたくない。


計画相談が役に立たないわけ

2018-02-24 23:46:47 | 生活と療養の工夫

 福祉最難関国家資格保有者限定の研修会に出てきました。

 障害福祉部会と銘打ったものでしたが、半分以上が計画相談の相談員と組織トップの人たちでした。

 自分は情報を小出しにしつつ、酒席にも付き合い、リサーチしました。そこで見えてきたものは、

 

 「なぜ、計画相談が役に立たないのか」

 

が、よくわかった研修会でした。

計画相談の現状を列挙します。

(報酬関係)

・介護保険のケアマネほど「生命保険のおばちゃん」状態でなく猛烈ながめつさやえげつなさが見られない理由は、報酬管理をしていないから。

・介護保険のケアマネや包括支援センターほどの報酬が得られないから、計画相談を含めて相談部門は赤字部門。報酬は赤字で営業の成果はすぐには表面化しないから、介護保険の相談員のようには現場から大事にはされない。

・相談部門が事実上の法人営業部であることは介護保険と同じ。ただし、国制度だけではあまりにも報酬が低く、数をこなすためにどんどん契約し、質がそれなりになる。

・大法人は地方自治体から独自の補助金を得ていることが多いが、人数が40人くらい以上になると減算されるから、自分のところの利用者しか計画したがらない。

 

(相談員の質)

・最難関国家資格保有者でも、障害福祉の現場と現実を知らない人が多いな、という印象。そんな人たちに優秀なケアプランなど作れないな、という印象。

・計画相談が始まってまだ5年程度。相談員の知識経験の蓄積がないし、現場からも制度が期待している役割が理解されていない。

・障害者手帳保持に至らない境界線の人たちへの支援が話題になっていた。ろくな知識経験もない人のお節介がどうなるかについては、このブログの「フラッシュバック」などの記事で再三掲載しているとおり。福祉職の人たちは、とにかくどこかの相談や支援につなげることしか考えていない。つなげた結果ことは何も責任を取る必要がなく、つなげれば実績になるから、言いくるめるのだ。という印象。

 

ただ、さすがは最難関国家資格者の集まりだと感心したこととしては、介護系看護系の集まりのように報酬をむしり取りに行くギスギスしたとげとげしい感じの集まりではなく、あるいはとある精神保健福祉士の集まりのように公然と「固定資産」「囲い込み」の言葉を出してテクニックを共同研究したりもせず、報酬のみのための介護や支援を心から嫌がり、それは絶対にあってはいけなくて、相談員として行政に再三指摘しても行政はやりすぎ支援の報酬を認めてしまい、くやしい、という本音が多く聞けたことでした。

日中は訪問と応談に明け暮れ、夕方から深夜にかけて書類作り、残業手当は出ない現状も知りました。これではいい支援などできようがないなあと。

それでも情報は相談員に集まるから、いい相談員とつながることは砂金を探すようなことだけれど、砂金が見つかれば儲けものだということもまた、前出「フラッシュバック」記事のとおりです。


治してから、次につなげようよ

2018-02-13 21:49:33 | 日記

 「治してから、次につなげようよ」

 これは、前々回の、名古屋市・名古屋市発達障害者支援センター主催の発達障害講演会で、北海道石狩市の入所施設所長が発した言葉です。

 そこは、主に知的障害を伴う自閉症により強度行動障害があらわれ、地域にいられなくなった人の来るところ。

 普通の入所施設は「親亡き後」の「終の棲家」(なんたらエルデの会さんが、大卒者の方々に対してそのフレーズ使っていますが。)。

 北海道石狩市の入所施設は期間限定。基本は3年以内に生活訓練して、地域のグループホームに住めるようにする。計画相談支援と個別支援樹計画がそこのキモで、本人のニーズと達成度に合わせて半年に一回なんて言わないで何回でも見直し変える。全職員が個別支援計画内容を把握していて、評価している、というものすごいシステムを現に行っている地域の話。

 「治してから。次につなげないと、支援者は自信を失いますよ。だから、治してから、次につなげるようにしましょう。」

と、畳みかけるようにおっしゃりました。

 自分もそんな支援がしたいなあと思いつつも、プロとしての私は、それとはかなり遠い理念のところで仕事をしているなあと。自分の人生を歩んでいないなあと思っています。

 私は自分を救っているけれど、その自分を助けている自信を他人の支援になかなか繋げられないでいます。そこには「組織の論理」というものがあります。それを突破するには自分の職場で天下を取るか独立するしかないと思っています。

 つい最近終わった前回の名古屋市発達障害講演会は、なんたらエルデの会のえらい大学教授が出て見えて、・・・。

 多分、前々回の講演会で豊田市ナカポツの理事長やら石狩市施設長やらから就労と地域生活を前提とする明すぎる話をさんざん聞かされて、協賛するなんたらエルデさんやなんたら協会さんから苦情がたくさん寄せられたのだろうと。豊田市ナカポツ理事長からもたらされたデータ(知的障害者就労の半分が自閉症の人。毎年数百人の重度知的障碍者が一般企業就労しているというデータの数々。)が太陽のように明るくて、まぶしすぎて嫌だった人もたくさんいたのだなあと。

 前前前回は、広汎性発達障害当事者で前科17犯、現在グループホーム管理者で介護福祉士・NPO理事長という方(固有名詞、わかる人はすぐ出るでしょうね)が、何とMCが治療目標が「家事をする引きこもり」であると公文書で明らかにされた「ひげの医師」某県発達障害者支援センター長、というシチュエーションで公演されました。(「家事をする引きこもり」が治療目標ということへのコメント、面白かったですよ。いつもらな絶望を声高に主張するあの方も、前科17犯のいかにも怖いお兄さんには何を言われても何も言えなかったですねえ)

 名古屋市発達障害者支援センターはそれを忖度したのだろうと思います。前々回も前前前回もすばらしい話だったけれど、お客さん少なかったなと。それに比べれば、最近終わった後援会は、発達ギョーカイが関係者を動員できて拍手喝采でした。700人くらいは来ていたかなあと。治っているのを見せると、なんたらエルデさんやなんたら協会さんの関係者の心証が悪いのだなあと。

 大人の事情で仕方がないと思います。ああやっぱり、なんたらエルデさんが右に行けば自分は左に行かなければいけないのだなあと。

 石狩の施設長や豊田市社会福祉事業団理事長や非行更生の理事長は、治しているから、しっかり支援できている感をお持ちだから、言葉に覇気があるように感じました。

 某県発達障害者支援センターのセンター長先生は、ご自分でもネットで公言されていますが、できることは極めて、極めて限られている。とのこと。これまた本当のことでしょう。

 僕は、治す支援者でいたいし、自分自身も治っていたい。(自分の生得的特徴がなくなることではなく、自分らしく自由に生きていける。という意味で。)

 発達凸凹は治らなくても病気でない体にはなれる。ましてや、「家事をする引きこもり」を目指す必要もなく医療福祉の「固定資産」である必要もない。自分はすでに自由を得たり。神様に感謝。