これは、最近の病状悪化と回復も相まっていると思うが、最近、筆が止まっている。
私の当事者としての発信。〈元〉支援者しての立ち位置が、定まらない。
だれかを「支援」しよう。という営みから卒業しつつある現状。
いろいろ絡み合っていると思う。
結論から述べる。
私は私なりにやっていこうと思う。
こんなサイトに最近出くわした。
ここにはいろいろな「当事者」の声がつづられている。
書く側も当事者。書かれる側も当事者。
このサイトでも書かれているが、当事者からの差別とかも、ひどい。
けれども、なんだか興味をそそる、真実味のある記事がたくさんある。
これに触発され、私の感覚と言葉で、私の体験したことを書くと、
SNSや当事者会で見聞きすることの中で、「差別」とか「嫉妬」とか見聞きして、正直しんどい。
具体的には
- 診断されていることへの「嫉妬」。
- 働いていることへの「嫉妬」。
- 年金受給できていることへの「嫉妬」。
- 社会的に活動できていることへの「嫉妬」。
などなど。
私は診断に至るまで、私は手続きを踏み、専門家の、時には医者の世界での勢力争いにも見えた、理不尽な要求にも従い、ようやく地域における大ボスからの、おそらくどこの誰も否定できない確定診断に至った。
私は何とか働き続けようと、今日ももがいている。これまでずっと、若いころから、必死にやってきて、積み重ねた営みだ。
私にとって働くとは、
経済を営み、社会に参加し、仕事の成果を社会的に承認されるもの、だと思う。
障害年金についても、自分で学び調べつつ専門家の支援を仰いで、ようやくこぎつけたもの。受給し続けているもの。〈障害年金には更新がある。更新の度、診断書提出が必須。〉
社会活動は、障害認定前と比べようもなく、衰えている。再発をするごと、だんだんと衰えている。
それでも私は希死念慮のある重度のうつ病患者で居続けたくはない。そういう段階からは早期脱却が必要だ。
自分が必死にやってきた営みを、他人の「嫉妬の発作」か何かで、破壊される故はない。
嫉妬の発作には本音で怒り、浮き輪モードで離れるしかないと思う。
これからも、できることはやっていく。
支援する。プロとして、あるいはボランティアとして支援する。のも、かなりしんどい。
当事者からの反応で、納得できなかったり、付き合うことで自分が病んでしまうような反応にも、残念ながら出くわす。
話題とは一切関係のないことを声高に叫ばれるとか、一方的に独自の論理を主張し続けられる、とか。
当事者の立場もいろいろで、職業うらやましいとか、年金うらやましいとか、かくあるべく導いてあげよう、とか、いろいろな「嫉妬の発作」が渦巻いている。
「嫉妬の発作」には「本音モード」「浮き輪モード」なのだ。
離れるに限る。の一択だ。
その個人のその時の気分など些細なことで、あらぬ暴言を吐かれ、最重度の当事者から前触れなく暴行され負傷したり、必死に対処しても全く意に介さない反応をされたりもする。
最重度障害の当事者からであればまだ納得できるが、それが上司や会社からの理不尽な仕打ちであるともう、大変なことだ。
とはいえ、SNSや当事者会であれば、そういう攻撃的な人からは最悪逃げればいい。
不愉快な場所からは私的なことであれば無理せず避ければいい。
プロのようなしがらみは、今はない。
福祉プロの世界はブラックだから、無法地帯から離れられ、心は平穏なのかもしれない。
とはいっても今いる商売の世界もまた、虚実入り乱れる結構な世界である。
ドロドロからいかに距離を置くかが、今後の私の闘いだと思う。
私は今、支援の現場からは離れ、職場では、幸か不幸か、人間関係希薄な現場にいる。
きっといろいろ思われていると思うが、不愉快なことは表面上言ってこない。
私も不愉快な言動を発してはならないと思っているから、仕事関係以外の話は一切しない。
正社員の時は、職場の人間関係に関わらないわけにはいかなかったが、障害者雇用という立場は幸か不幸か人工的に孤立させられているので、不要な人間関係とは疎遠でいられる。
さみしいというよりは、静かでいいなと思う。
リモートワークの仕事で、仕事はメールで来るような、もっと希薄な環境のほうが私にとっては都合がいいと感じる。〈50代でIT業界のプロ経験ないから、まったくご縁ないが〉
とはいえ、仕事や職場への思いとか希薄だから、愛着なんてないから、ど根性は出ないな。
いい人間関係は、プライベートで構築すればいい。
もっと元気になって、リモートでの外国語学習復活とかできれば、外人の先生たちはリピート狙いで気を使って、楽しくしてくれることが多いことを体験的に知っている。おそらく今の私にとって最も可能性のあるステップだと思う。
教会の人間関係は、もう嫌だな。
障害者は大部分のキリスト教会からは現実には呼ばれていない。と私は感じている。
表面的には呼んでくれても、実際には排除されている光景を、特に役員やってる時に何度もあったなと、個人的には思っている。
私は、私を迫害する集団に、自ら飛び込んだりはしない。
自分が今、心身の病で教会奉仕ができず、献金もそれほどできないから、存在価値はないと、明白に認識している。
世界中の宗教団体。どこもかしこも。
とりわけ異端と呼ばれる宗派や新興勢力はとりわけ醜い。
露宇戦争でもあらわになった、殺人をも肯定支援する真の姿。
〈もちろん、組織の方針に反しても戦争に反対表明する、ごく一部の良心的な人々がいることは承知している。彼らは神様に近いのだろうと思う〉
金・権力・性欲にまみれた、福音書で説かれた姿とは全く似つかわない宗教団体真の姿を目にし続けて、もはや嫌悪感しかわかない。
浦河教会のような生活保護の精神障害者でも真面目に兄弟と認める奇特な集団に出会わない限り、私は個人でこれからも神様を礼拝すると思う。
元気になったら、クラシック音楽できるようになったら、やるのかな?
まだ、病気のせいもあって、興味と意欲がわかない。
まずは好きなように鑑賞することから。だから、演奏活動にはもはや程遠いかもな。
となると、気に入った当事者活動を薄くあっさり続けること。かな。
このブログ執筆も含めて。