「生涯引きこもり」と宣言された私の、超豪華オプション生活

 登校拒否となり、生涯ひきこもりであろうと決めつけられて四半世紀。社会人として生きる記録。#発達障害 #自閉症 #ニート

このような人物は、支援者になってはいけないと思う。

2019-02-18 20:58:05 | 仁義なき医療福祉~地獄の沙汰も金次第~

バイキングでも取り上げられた、という、松戸市立常盤平第一小学校の「教育」風景。

https://www.youtube.com/watch?v=294SYURfiX8&feature=youtu.be&fbclid=IwAR1wFTmVFvQRhAh5y6qWofPvGO8qtwXRNJ3giAI4qTF1kIsk9sZGkEGFa9Y

※リンクをコピペされるか、「常盤平第一小学校 不登校」などと検索。

いじめを助長する教師と、それをあおる教頭。

このような人が、3年もの間、なんの処分もされず、のうのうと講壇に立っていることに、驚きます。

告発の相手が教育委員会では、この有様です。被害者が一方的に大変なことになったとのこと。こういうことについては、弁護士と警察が必要です。

自分の娘の通っている学校でも、似たようなことがありました。

被害にあわれた子供さんの親御さんは、福祉団体に相談され警察に告発されました。

そうすれば、学校と教育委員会が隠ぺいを図っても、PTAが熱心な教師だとかばっても、警察は検挙送検し、検察は起訴し、正式裁判を待つ状態です。

常盤平第一小学校の事件も、きっと背景には差別問題と体罰肯定主義が絡んでいるのでしょう。あの教師の肩を持つ人がいるから、今日まで公にならなかったのでしょう。

堂々とやりましょうよ。いじめや体罰がしたい支援者たち。いくらでも相手するよ。
私はいくら人手不足でも、あんな人とは仕事はできない。ああいう人は対人支援には禁忌だと言いたい。

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今のタイトル。悪くないな。

2019-02-17 20:37:03 | 日記

今月から心機一転、自分の生きかたを調整しています。

それに伴い、ブログのタイトルも変更しようとしました。

あるがままを生きているのは、そういえば、今も昔も変わらないな、と思いました。

私にとって「あるがまま」というのは森田療法のフレーズ。決して、病気のままでいい。なんていう表現のことではありません。

その「あるがまま」という言葉が、森田療法を受け入れている私のようなものにとっては「不安なことや不足することもあるけれど、いまできること、するべきことを精一杯やる」ということなのですが、別の受け止めをする人もいます。

ある別の人にとっては「今の状況が厳しいから、徹底的な保護を求めて何もしない、させない」というように受け止め、「あるがまま」という言い方を一方的に侮辱し非難する方さえいます。

自分は何と言われようが今でも、前向きに生きることしか考えていません。

今大事にしているのは、ありのままを認めること。降りていく生き方をすること。なのですが、自分にとってそれは自分の人生に向かっての前進でしかありません。自分の思っていることを言って、自分に正直に、生きていきます。

今のタイトルに納得していると思ったので、タイトルは変えません。

私は四半世紀前、不登校状態となり、人生を失いました。

権威筋からは「生涯引きこもりであろう」と宣言され、捨てられました。

しかし私は、いろいろな人たちの協力を得て、人生を取り戻しました。

大学で心理学を中心に学び、社会でいろいろ経験しました。福祉の仕事につき、社会福祉士になる勉強を仕事しながらして、資格を得ました。いろいろあって一度は支援の仕事が嫌になり、離れました。その後またご縁あって、支援の仕事をしています。

私は何度も人生を失いかけました。でも今は、自分の仕事と家庭を持っています。それを大事にしています。

病気を恐れていたら、二次障害を極度に恐れていたら、何も得られないと信じています。これからもリスクをとって、前進あるのみです。

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ついでに、引きこもり支援は、医療福祉以上の「くそ」である。

2019-02-10 22:50:50 | 日記

福祉サービスの支援は「くそ」。

そして思い出した。引きこもり支援は今も昔も「もっとくそ」。

自分が高校中退して引きこもった時、「この人は一生社会に出ることはないだろう」と、名古屋の引きこもり支援第一人者から宣言された。東京の有名支援組織は、社会が悪いから登校拒否が起きるから、社会がよくなるまで引きこもっていよう。などと逸いて、それが現実化して50台になっても引きこもりが続いていることに焦燥感を持っていると、数年前ビッグイシュー誌に書いてあったと記憶している。

くその極み支援は「スパルタの海」で生徒を何人も死亡させても何の反省もない知多半島のヨットスクール以降、延々と続いている。今は報道されたばかりの、引きこもりの30台の息子を乱暴に拉致監禁して何百万円もせしめたくそ施設が訴訟を起こされたと報道され、そのような施設は数年ごとに報道されている。

支援はくそしかない。ただし、他者の助けなしで脱出はないと自分は思う。支援をどう運用し、利用し、そして乗り切るかだと思う。学歴を獲得し、スキルを獲得し、社会に出ることを考え、金を稼ぐことができるようになるか、だと思う。

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元来、福祉の支援は「くそ」である

2019-02-10 20:19:15 | 日記

 

 

昨日今日と、若者サポート系の研修に参加し、冒頭の講演で支援者が「福祉の支援はくそだ」といったことに、心から共感した。

自分は通算12年以上、福祉のプロとして正社員のおまんまをいただき、福祉で「食って」暮らしている。

そう、自分は福祉で障碍者や病人の人生を「喰って」いる。という自覚は、社会福祉士の勉強を始めたころから明白に自覚している。あまりの腐臭にとことん嫌になった時期もあり、福祉以外の正社員の仕事を9年やったことがある。

トヨタ系列で働いていた時、パワハラで休職し復職を目指す過程で、自分が健常者ではないことは20代後半時点で気づいていたが、40過ぎになって、実は知的障害者入所施設で働いていた時に対峙した自閉症者たちと同じ診断がつくこととなり、福祉制度を利用する立場も経験した。

その40台で経験した、とりわけレベルが最高であるとされる国家機関就労支援による「くそ」支援については、以前明らかにした通りである。そしてその直後には病院で食えなくなった臨床心理士が親金で開業した就業支援施設をリワーク利用し「くそ」支援で苦労したことも以前書いたとおりである。

大学を出て最初の就職先で、私は自分の地位が就職説明会とは著しく異なり、夢を見せられて騙され「くそ」と思った。くそったれ経営からキリスト教のコネで転職した老舗施設がこれまた知的障碍者に修道院生活を強要するとんでもない「くそ」であった。そこを当時の石原都知事による福祉予算大削減のあおりで棄てられたのを機に転職した病院で経験したのも、患者「様」などとにぎにぎしく言いつつレセプトの金が全てで本人の困り感無視病院の利益のための囲い込みたらい回しの「くそ」相談支援だった。

40台で出会った福祉の仕事も、発達支援をすると表面では言いつつも遊んでいるだけの「くそ」支援であったりして、腐臭漂う散々なものだった。

今の所属先の支援も、私は決して満足していない。まだまだやれる。どんどん良くできる。改善の余地に満ちている。と思っている。

福祉の支援をしていくと自分の無力を悟り情けなくなるものだと、向谷地・北海道医療大教授も述べている(2009〉。まったくそうだ。いい支援、なんて自称している支援者ほど、詳しく調べていくと恐るべき死臭と腐臭に満ちていた。という経験を自分は幾度もしている。

医療福祉は契約先を選択し必要なサービスを主体的に利用するものであり、決して依存するべきものでない。医療福祉に絶対はない。サービスの選択の責任は結局自分にかかってくると、自分は信じている。

自分の人生は周りを利用しながら自分で切り開くものだと思っている。支配する誰かに囲われるのは嫌だ。また自分もだれかを支配的に囲ってはいけないと肝に銘じている。

福祉で「喰う」「くそ」支援者の一人として、せめて人を育てる土壌の肥やしにでもなってみたいものだと思い、これからも支援という堆肥の改良を試みつつ学んでいくものである。

 

※参考文献 向谷地生良 2009 技法以前 べてるの家のつくりかた 医学書院

 

 

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治りませんように

2019-02-06 20:54:44 | 当事者研究

 自分にとって、大事なことについて、じっくり考えました。

 私にとって大事なことは、健康であること。自分を、家族を、周りの人たちを、楽に、そして丈夫にしたい。

 そして、その現状ありのままで、活動すること。生活すること。生きていく営みをすること。

 生きていくためには、自分で稼ぐか、家族に養ってもらうか、どこからかお金を引き出してくるか、しかありません。

 今の私は何とか自分の稼ぎと各種福祉制度給付で、いわゆる労働者階級の地位と収入を確保しています。ありがたいことにアンダークラスではありません。しかしこれも偶然の幸運と努力のなせる技、だと思っています。

 もちろん、生活保護レベルでも健康で文化的な生活をすることはできます。家族で生きていけることは、べてるの実践で実証済みです。自分の所属する団体の利用者さんたちにそのような方々が何人もいます。福祉のプロとして利用者さんの生活を体を張って支援し、家に帰れば自分や家族の生活を必死で生きています。だから、経済的に何とか手当する、ということは、自分にとっては大変プライオリティーの高いことです。

 発達障害が治ればいい。もちろんそうです。定型発達と言わざるを得ない状態になれるのが一番いい。空気が自動的に読めて、自動的に周りを察して適切に配慮して言動できることが一番いい。今のように社会学習に基づいて人の空気読んで忖度して配慮して、というのはどうしてもぎこちない。間違いが多い。誤解も多い。苦労多くミス多く失敗多く、自分の体験によるとこれは「個性」ではなく「障害」です。

 「治る」とは何なのでしょうか。私はすべての、障害者を含めて自らの困難と障壁に対峙する人間存在を尊敬します。治ろうが治るまいが。その人がどうであろうが、回復していくことは素晴らしいこと。治ったとか治ってないとか。自分の価値判断には関係ないと思いました。

逆に、医療が必要なのに周りの圧力で「治った」と宣言して福祉制度から離脱し、正規労働に就くことができず自分のこずかい程度の稼ぎしかなく、家族に依存せざるを得ない方々のことを、私は考えます。彼らは統計的には貧困層だけれども、それさえ自ら認められない認知状況にあり、医療を必要としているのに「治った」と言い、「愛国者は国に負担をかけない」と言って「健康で文化的な生活」を犠牲にすることを自ら選び、生活保護以下の生活を勇ましく生きている当事者もいます。

彼らの自己選択を尊重するわけですが、私は貧困問題を発祥とするソーシャルワーカーの端くれとして、何とか彼らの心理的障壁を低くして、生活を少し楽にして余裕を作り、しっかり病気を治してもっと自由に生きれるように、営利法人ではなく社会福祉法人だからこそできる多少採算を度外視した支援を考えるものです。

 いろいろやりました。精一杯のことをしました。今の私はだれがどう見ても精神症状はありません。しかし発達障害傾向は簡単には治らない、治る道筋もありません。成功している発達障碍者は定型発達に「治る」なるのではなく、自分の凸凹を利用し環境とも非常にマッチすることのできた人たちだと感じています。

 これからもできる限りの努力はし続けると思います。あきらめはしません。

 しかしここらで「脳の特性と発達の凸凹があるという現実を踏まえて、あるがままの自分を見据えて、現在の状況でできること、継続できることに挑戦する」という路線を確固とするものとしたい、と思うに至りました。

今まで自分に対して無理を強いてきたことを認め、受けられる援助はすべて受け、配慮はありがたく頂戴することにしました。そうやって、これからも何としてでも生活を維持すると。覚悟しました。

自分も「降りていく生き方」となりました。自分もどうしようなくな弱くなり、ようやく障害の仲間たちに仲間と認められるのかなあと思いました。

近々、ブログのタイトルを「現実を踏まえ、あるがままを認め、できることを精一杯行う」という方向性のものに変更します。自分の弱さの情報公開をするワーカーとして恥じないよう、生きていきます。

※追記…ブログタイトルはむしろふさわしいと思われたので、変更していません。

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先生、専門家と呼ばれる人たちへ。〈自らへの自戒も込めて〉

2019-02-03 18:53:16 | 当事者研究


私は先日、自分の娘の通う学校の校長先生から、学校で発生した虐待事案についての説明会に参加しました。

校長は、われわれ父兄の前で報道発表どおりのことを言うのみで、あとはひたすら平謝りでした。何の情報提供もなく、謝罪の言葉を調べたり説明会後の報道によると、見え透いた嘘とわかることもありました。

すっかり馬鹿にされたものだと思いました。ちょっと調べればわかる嘘をついてその場をごまかして。これまでも頼りがいのない自己保身に熱心な先生だと思っていましたが、ますます信頼できない存在だと認識しまた。


最近、DSM-Ⅴの翻訳がおかしい。という情報が流れてきました。よくよく確かめるとその通り。とはいえ自分にとっては、障碍者の社会進出を本心では阻止したい人たちによる想定内の「超訳」でした。
自分は児童精神科や精神科医だからと言って、必ず信用するということはありません。治してもらえると思って受診しても、かえって害になる怪しい専門家が非常に多いということを、実務を通して経験していましたから。情報はすべてもたらされないことは、分かっていました。

そしてこちらの側から医師の動向を患者側にとって有利になるように「運用」し、医療サービスを「利用」することが肝だと理解していました。
自分に下された診断を自分でも調べ、処方薬も調べ、納得がいかなければ信頼している別の医師に相談する。自分なりに情報を集め、いろいろな人たちに知恵を求め、一人の医師の判断を絶対視することを求める医師の人間的な弱さを考慮に入れ、害がないように運用し、いい医療をしてくれる人が見つかれば離れていく。ということを私は実践してきました。


私は患者であるとともに福祉の専門家でもあり、自分の動向も当然ながらお客様によって吟味されていると考えています。
少なくとも、知能指数が絶対であるというのはあり得ません。相手が子供であればテスターの技量や相性、被験者のその日の体調の変化を大きく受け、30くらいの誤差が発生することもあると、私は心理学の教科書で学んでいて、そういう情報はネットで簡単に確認できます。ネット検索すればすぐにわかる嘘は、ついてしまったら発言者の信頼性が相当落ちると、自分は考えます。
発達障害とされた人たちの予後についても、いろいろネット検索すれば、世の中で大成功を収め巨万の富と名声を誇る当事者がいくらでもいることも、簡単に見出すことができます。自分の下で支援されている人たちが悲惨だからといって、ほとんどの当事者がそうであると推定するのは、単に専門家としての知識経験の狭さを世にさらしているだけだと、私は思います。

利用者様のお暮しが少しでも楽になるように支援させていただくことが、私たち支援者の使命なのではないのでしょうか。少なくとも利用者様の人生の邪魔をしてはいけない。利用者様を殺してはいけないと、私は信じ肝に銘じています。
自分というクライエントが末永く活躍できるように自分を応援していくとともに、自分の利用者様たちの人生にも自分のできる範囲で有効にかかわっていければと思っています。

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