例年3月2日の水送りの行事の時は、数千人の人が参拝に来る。

境内の隅の護摩壇から本堂を見る。この背後に水送りに用いる井戸がある。
行事の日の午後から、修二会(しゅにえ)の為の経文の声明(しょうみょう)が本堂に響き渡る。華厳経の経文から錫杖・懺法(せんぽう)・悔過と声明が続くのと平行して、弓打神事と弓射大会が行われる。
本堂内で行われていた大護摩の火は、屋外の護摩壇に移され、まだ雪の残る周囲の山々を照らし、赤く浮かび上がらせるのが午後7時である。
境内の隅にある井戸から、奈良に送られる水が汲み上げられる。

井戸は覆い屋で囲われ、こんこんと清水が湧いている。
午後7時30分には、境内の護摩壇の火が、参列している人々の持つ松明に点火される。横に流れる遠敷川(おにゅうがわ)の上流1.8kmの鵜の瀬に向って松明行列を作る。

左:鵜の瀬の標識の下方に「心やすらぐ美食(みけ)の郷・御食国・若狭おばま」とある。美食とは神に供える食物であり、天皇に納める食料である。古代からまかなってきた食の御料地がこの若狭である。
右:鵜の瀬までの道は、夜の松明行列に備えてよく整備されているし、公園が出来ていて、村の作った資料館が出来ている。

水送り神事が紙人形で紹介されている。身を清め、精進潔斎した神宮寺の神官が、桶に入れた井戸の水を川に流して、奈良に送っている。若狭はまた和紙の国でもあると言う。

水送り神事の神聖な場所へ向って鳥居がある。横には日本名水百選の標識が立っている。

対岸の石垣の上に、神官らが並んで水を流す。

水は、10m程下流にある水中洞窟に流れ込むという。写真では水の流れが、湧き水のような丸い波紋が見えるでしょうか。
この水中洞窟に、白と黒の鵜が潜って行って、奈良二月堂の若狭井まで約10日間で到着するという。
何故この行事が出来たかと言うに、東大寺初代別当となった良弁(ろうべん・りょうべん)はここ鵜の瀬の生まれと言う。
彼を慕ってインドの僧実忠和尚が神宮寺から東大寺の大仏開眼供養に参列した。そして、その後二月堂を建立し、修二会(しゅにえ)を始められ、全国の神々を二月初日に招待した。
ところが、ここ若狭の遠敷(おにゅう)明神だけが来なかったのである。そして2月12日になって到着したので、お詫びとして二月堂本尊十一面観世音へお供えする閼伽(あか)の水を送る約束をされたという。
その時、二月堂の下の地面から、にわかに白と黒の鵜が飛び出してきて、その穴から泉が湧き出したので、若狭井と名付けられ、この井戸の水を汲む行事が「お水取り」の行事となったと言う。
この若狭井の水源が鵜の瀬の水中洞窟であって、奈良までこの穴を鵜が潜って行ったという。
お水送り行事は、遠敷明神と神宮寺の神官によって行われている。

3月2日(旧暦2月)の松明行列が紙人形で展示されていた。
左:神宮寺から出発する。村人の老いも若きも参加している。
右:山岳仏教の山伏姿の修験者も、ほら貝を持って参列する。大松明を掲げながら。

まるでオカルト集団のようだ。

川に水を流し、奈良まで送るのである。
古代において、大陸の文化が若狭の国を玄関口として入ってきた。その象徴として、水がこの地から大和の国に流れて行った事の例えではないかと思われる。

境内の隅の護摩壇から本堂を見る。この背後に水送りに用いる井戸がある。
行事の日の午後から、修二会(しゅにえ)の為の経文の声明(しょうみょう)が本堂に響き渡る。華厳経の経文から錫杖・懺法(せんぽう)・悔過と声明が続くのと平行して、弓打神事と弓射大会が行われる。
本堂内で行われていた大護摩の火は、屋外の護摩壇に移され、まだ雪の残る周囲の山々を照らし、赤く浮かび上がらせるのが午後7時である。
境内の隅にある井戸から、奈良に送られる水が汲み上げられる。


井戸は覆い屋で囲われ、こんこんと清水が湧いている。
午後7時30分には、境内の護摩壇の火が、参列している人々の持つ松明に点火される。横に流れる遠敷川(おにゅうがわ)の上流1.8kmの鵜の瀬に向って松明行列を作る。


左:鵜の瀬の標識の下方に「心やすらぐ美食(みけ)の郷・御食国・若狭おばま」とある。美食とは神に供える食物であり、天皇に納める食料である。古代からまかなってきた食の御料地がこの若狭である。
右:鵜の瀬までの道は、夜の松明行列に備えてよく整備されているし、公園が出来ていて、村の作った資料館が出来ている。

水送り神事が紙人形で紹介されている。身を清め、精進潔斎した神宮寺の神官が、桶に入れた井戸の水を川に流して、奈良に送っている。若狭はまた和紙の国でもあると言う。

水送り神事の神聖な場所へ向って鳥居がある。横には日本名水百選の標識が立っている。

対岸の石垣の上に、神官らが並んで水を流す。

水は、10m程下流にある水中洞窟に流れ込むという。写真では水の流れが、湧き水のような丸い波紋が見えるでしょうか。
この水中洞窟に、白と黒の鵜が潜って行って、奈良二月堂の若狭井まで約10日間で到着するという。
何故この行事が出来たかと言うに、東大寺初代別当となった良弁(ろうべん・りょうべん)はここ鵜の瀬の生まれと言う。
彼を慕ってインドの僧実忠和尚が神宮寺から東大寺の大仏開眼供養に参列した。そして、その後二月堂を建立し、修二会(しゅにえ)を始められ、全国の神々を二月初日に招待した。
ところが、ここ若狭の遠敷(おにゅう)明神だけが来なかったのである。そして2月12日になって到着したので、お詫びとして二月堂本尊十一面観世音へお供えする閼伽(あか)の水を送る約束をされたという。
その時、二月堂の下の地面から、にわかに白と黒の鵜が飛び出してきて、その穴から泉が湧き出したので、若狭井と名付けられ、この井戸の水を汲む行事が「お水取り」の行事となったと言う。
この若狭井の水源が鵜の瀬の水中洞窟であって、奈良までこの穴を鵜が潜って行ったという。
お水送り行事は、遠敷明神と神宮寺の神官によって行われている。


3月2日(旧暦2月)の松明行列が紙人形で展示されていた。
左:神宮寺から出発する。村人の老いも若きも参加している。
右:山岳仏教の山伏姿の修験者も、ほら貝を持って参列する。大松明を掲げながら。


まるでオカルト集団のようだ。

川に水を流し、奈良まで送るのである。
古代において、大陸の文化が若狭の国を玄関口として入ってきた。その象徴として、水がこの地から大和の国に流れて行った事の例えではないかと思われる。