ぶらりもやがて三井寺に辿り着いた。歩いてお参りするのは数十年振りである。比叡山の天台宗と同じ流れを組みながら、比叡山とは一線を画してきた三井寺である。
園城寺は天台寺門宗の総本山としての名である。通称三井寺である。
今日はこの案内図の右の端に描かれている弘文天皇陵を訪ねる事にする。
彼は、天智天皇の嫡子として育った。しかし、次期天皇になる皇太子位は、天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)であった。天智は飛鳥から近江へと都を遷して近江に都を造っていたのであった。
しかし、激動の時代を乗り越えてきた天智も近江朝で病床に臥し、天皇の位を息子大友皇子に譲りたくなるから、ロマンが生まれる。
そんなある日、天智は病床に皇太子の大海人皇子を呼び、自分の後継を托そうとした。それを訊いた大海人皇子は、すでにこの事のあるのを察し、
「自分は皇位を継ぐ気はない。今から吉野にこもって、世間を捨てる気です」
と言うや否や、一目散に吉野の山に向って出発しました。
噂によれば、大海人の吉野入りさえ妨害する待ち伏せ・追っ手の勢力があったそうです。
おそらく天智の前で「お兄さん後は引き受けました。ご安心ください」とでも言おうものなら、直ちに命を狙われていたと言います。
さて、吉野に籠った大海人は、その後、吉野から伊賀上野を通って伊勢の方面に出発します。10人ほどの人数が伊勢湾まで来たときは数千人の軍勢となっていたと言います。
そこから北上して、関が原あたりで陣を構えます。そして近江の都に攻め上ります。途中の戦いは、数々の戦略・謀略・戦いを繰り返しました。また、奈良盆地でも戦いがありました。
かくて、瀬田の唐橋付近での戦に勝利し、大友皇子の率いる近江朝廷軍を打ち破ります。悲劇の主の大友皇子は出奔し、自殺したと伝えられています。
勝利した大海人皇子は、都を再び飛鳥に遷し天武天皇として即位します。
これが壬申(じんしん)の乱といわれる天下分け目の戦いだったわけです。
ところで、天智の後を継いだ若き大友皇子は、こんなに短期間の間に、天皇即位の儀式などする時間があったのでしょうか。また、父の死後に叔父さんの大海人皇子が自分を滅ぼしにやってくるとは夢にも思わなかったでしょう。
後世の諡号(しごう:おくり名)で「弘文天皇」と呼ばれ、第39代の皇位に就いてはいるが、権力争いの渦に飲み込まれた一人でしょう。天武天皇が吉野に入らざるを得なかった権力争いにも驚かされます。
壬申の乱は一部を紹介しましたが、まだまだ複雑な、広範囲な戦いでありました。
万葉集の歌にも読み込まれるほどの、古代における悲劇の数々は枚挙(まいきょ)に暇がない。
近江朝廷があったであろう地域に程近く御陵がある。大津市役所のちょうど裏手でこじんまりと護られている。
「弘文天皇長等山前陵」と碑文にある。三井寺が長等山に凭れ掛かっているのでこう呼ぶ。また前陵とあるが、別に後陵があるわけでない。
手入れの行き届いた御陵は苔で覆われている。苔の隙間からキノコが出ていた。
園城寺は天台寺門宗の総本山としての名である。通称三井寺である。
今日はこの案内図の右の端に描かれている弘文天皇陵を訪ねる事にする。
彼は、天智天皇の嫡子として育った。しかし、次期天皇になる皇太子位は、天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)であった。天智は飛鳥から近江へと都を遷して近江に都を造っていたのであった。
しかし、激動の時代を乗り越えてきた天智も近江朝で病床に臥し、天皇の位を息子大友皇子に譲りたくなるから、ロマンが生まれる。
そんなある日、天智は病床に皇太子の大海人皇子を呼び、自分の後継を托そうとした。それを訊いた大海人皇子は、すでにこの事のあるのを察し、
「自分は皇位を継ぐ気はない。今から吉野にこもって、世間を捨てる気です」
と言うや否や、一目散に吉野の山に向って出発しました。
噂によれば、大海人の吉野入りさえ妨害する待ち伏せ・追っ手の勢力があったそうです。
おそらく天智の前で「お兄さん後は引き受けました。ご安心ください」とでも言おうものなら、直ちに命を狙われていたと言います。
さて、吉野に籠った大海人は、その後、吉野から伊賀上野を通って伊勢の方面に出発します。10人ほどの人数が伊勢湾まで来たときは数千人の軍勢となっていたと言います。
そこから北上して、関が原あたりで陣を構えます。そして近江の都に攻め上ります。途中の戦いは、数々の戦略・謀略・戦いを繰り返しました。また、奈良盆地でも戦いがありました。
かくて、瀬田の唐橋付近での戦に勝利し、大友皇子の率いる近江朝廷軍を打ち破ります。悲劇の主の大友皇子は出奔し、自殺したと伝えられています。
勝利した大海人皇子は、都を再び飛鳥に遷し天武天皇として即位します。
これが壬申(じんしん)の乱といわれる天下分け目の戦いだったわけです。
ところで、天智の後を継いだ若き大友皇子は、こんなに短期間の間に、天皇即位の儀式などする時間があったのでしょうか。また、父の死後に叔父さんの大海人皇子が自分を滅ぼしにやってくるとは夢にも思わなかったでしょう。
後世の諡号(しごう:おくり名)で「弘文天皇」と呼ばれ、第39代の皇位に就いてはいるが、権力争いの渦に飲み込まれた一人でしょう。天武天皇が吉野に入らざるを得なかった権力争いにも驚かされます。
壬申の乱は一部を紹介しましたが、まだまだ複雑な、広範囲な戦いでありました。
万葉集の歌にも読み込まれるほどの、古代における悲劇の数々は枚挙(まいきょ)に暇がない。
近江朝廷があったであろう地域に程近く御陵がある。大津市役所のちょうど裏手でこじんまりと護られている。
「弘文天皇長等山前陵」と碑文にある。三井寺が長等山に凭れ掛かっているのでこう呼ぶ。また前陵とあるが、別に後陵があるわけでない。
手入れの行き届いた御陵は苔で覆われている。苔の隙間からキノコが出ていた。